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前の卦=19地沢臨 次の卦=21火雷噬嗑

20風地観 ふうちかん

 

 坤下(こんか)巽上(そんじょう)

八卦の(こん)の上に、(そん)を重ねた形。

(かん)は「みる」という意、新字体では観。
この卦は、易位生卦法によれば、元は地風升から来たものとする。
地風升は、巽の木の種子が坤の地の下に蒔かれた様子だが、その時点では、どんなに成長のエネルギーを秘めていたとしても、まだ誰も気にしない。
それが今、巽の木の種子が坤の地の上に芽を出し成長して大木となると、誰しもがその姿を観望する。
風地観は、その巽の大木が坤の地の上に聳えている様子である。
だから、観と名付けられた。
また、二陽剛は上に在って、下四陰にその姿を観せ示している。
だから、観と名付けられた。
また、巽を風とし、坤を地とすれば、風が地上を行く様子である。
風が地上を行くときは、万物に触れ、万物を靡かせるが、これは遍く観せ示していることになる。
だから、観と名付けられた。
また、二陽は四陰を、四陰は二陽をと、上下が互いに相観している様子でもある。
だから、観と名付けられた。
また十二消長で言えば、天風姤で生じた一陰が、今や四陰と増え、さらに上二陽を消し落とそうとしているとき、言うなれば大衰のときである。
陽の君子としては、周囲の状況をよく観察して対処しないと危険である。
だから、観と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(かんは)(てあらいて ) (しこうして ) (いまだ/ざるときのごとく )(すすめ)(ありて )(まこと ) (ぎょう ) (じゃくたるべし)

【書き下し】観は、盥いていまだ薦めざるときのごとく、孚有りて顒若たるべし、

盥いとは、手を洗い清めることであり、清浄潔白という意。
薦めるとは、亨祀(まつり)犠牲(そなえもの)を進献すること。
この卦は、四陰の小人が長じ上って、二陽の君子を消し落とそうとしているとき。
二陽の君子にとっては、甚だ危険なときである。
特に九五の君は、陰と隣接しているわけであり、その身に災難が迫っている。
しかしそんなときに、慌てふためいてジタバタしても始まらない。
祭祀の大事大礼に臨むときのように、至敬至誠をもって対応する姿勢を、下の四陰の小人たちに観せ示すのがよい。
そうすれば、下の四陰の小人は、その厚徳の化に感じて、危ういとしても、最悪の事態だけは避けられる。
それか若し、君上の意念に、ほんのちょっとでも怠惰放恣の隙間があれば、忽ち四陰小人の害を受け、最悪の事態を招いてしまうだろう。
要するに、祭祀のときに盥いて身を清めてから、供え物を薦め献するまでの間の如くのように、冷や汗がしたたり、毛髪は立ち上がり、薄氷を踏む如くに、顒若(=うやうやしくおごそかなこと)として慎み敬って群下に臨めば、なんとかその災害は間逃れるのである。
だから、盥いていまだ薦めざるときのごとく、孚有りて顒若たるべし、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)大觀(だいなる みもの) ( あり )(うえに)(じゅんにして ) (しこうして ) (したがう)(ちゅう ) (せいにして ) (もって ) (みせしめすべし)天下( てん かに )

【書き下し】彖に曰く、大いなる観もの上に在り、順にして而して巽う、中正にして以って天下に観せしめすべし、

君上の言行は天下億兆の模範規則となるので、その意念はよく独り慎み欺かないようにしなければいけないのだが、それは君上が人々の上に在る大なる観ものだからであって、上の二陽爻を指している。
順而巽は、内卦坤は順う、外卦巽は従うだから、内卦坤の順徳を以って治めれば天下はその順徳に従うということである。
中正とは九五君位の爻の剛健中正の徳を指していて、君上が中正の徳を修めて天下を治め、以って天下万民に観せ示す、ということである。

(かんは)(てあらいて ) (しこうして ) (いまだ/ざるときのごとく )(すすめ)(ありて )(まこと ) (ぎょう ) (じゃくたるべしとは)下觀(しも みならって ) (しこうして ) 化也(かすればなり )

【書き下し】観は、盥いて不だ薦めざるときのごとく、孚有って顒若たるべしとは、下観ならって而して化すればなり、

今は四陰の小人の勢いが壮んで、二陽の君子は威厳衰えて、ほとんど身命に迫る危急の時である。
しかし九五の君上はよく観の時を知り、観の徳を守り、まさに大祭大礼の大節に臨むが如くに一点の間断なく、その意念は粛然敬タにし、その行動は荘然中正にして、以って群下の衆に臨み観せ示せば、群下の衆もその徳に感じ化して服し従う、という義である。

(みるに) (てんの)~道( しん とうを)(しかも) 四時(しじ) ()(たがわ)聖人( せい じん ) (もって)~道( しん とうを)(もうけて )(おしえを)(しこうして) 天下( てん か ) (ふくせり)矣、

岱は正しくは代の下に心という字で「たがう」という意。
この字(図形として作成)→tagau.gif
しかしJIS規格にもユニコードにもないので、形が似ている岱で代用した。

【書き下し】天の神道を観るに、而も四時*岱わず、聖人神道を以って、教を設けて、而して天下服す、

誰しもが上にあって観あげるものは天である。その天の運行を司るのが神道である。
神道とは日月星を規則正しく巡らせている人知では計り得ず、人間が関与することのできない法則といったことである。
その神道を観察して、その天の動きに見倣って物事を考える理論を考え出して普及すれば、天下の人々はその理論に服する、ということである。
ちなみに日本の神社神道は、この文から神道の二字を取って付けられた名称である。
また、この卦の象は上の方に二陽爻があり、それを下の四陰爻が支えているわけだが、この形から上の方に二本の横棒を渡した構造の門すなわち鳥居が作られたと考えられる。
その鳥居とは、鶏が寢るときに居る場所という意だが、上卦の巽は動物ではその鶏を示す。
鶏は羽が短く、鳥居の高さ程度までしか飛び上がれないが、鳥居の上ならば、犬や猫その他の動物に襲われずに安心して寝られるので、鶏の居場所としては鳥居の上が丁度よいのであると共に、夜が明けるとけたたましくコケコッコーと鳴いて朝を告げ、その鳴き声に呼応するかのように太陽が昇ることに、何やら神秘的な関係を感じていたのだろう。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)(かぜ ) (ゆくは)地上( ちの うえを)(かんなり)先王( せん おう ) (もって ) (かえりみ )(ほうを)( みて )(たみを ) (もうけり )(おしえを)

【書き下し】象に曰く、風、地の上を行くは、観なり、先王以って方を省み民を観て教えを設けり、

方とは四方の国のことを指し、すなわち天下のことである。
省みるとは様子を視察することである。
先王はこの観の卦象を観て、風が地上を行くが如くに遍く四方の国々を巡察し、その風俗の是非を省察し、民の風俗をいろいろ見比べてその土俗によって教えを設け施した、ということである。

『論語』為政第二4の「五十にして天命を知る」とあるのは、まさにこの卦の象による。
八卦と数の関係により、巽に配される数は五、坤は基本的には八だが、偶数の極みとして十も配される。
したがって五十は、孔子がこの風地観の象を観て読み取った年齢であって、彖伝の「天の神道を観る」ということこそ天命を知ることだから、「天命を知る」と言ったのである。
他の「十有五にして学に志す」は地風升、「三十にして立つ」は火地晋、「四十にして惑わず」は雷地予、「六十にして耳に順う」は水地比、「七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」は山地剥に由来している。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)童觀( どう かんなり)(しょう ) (じんなれば ) ( なし)(とが )君子( くん しなれば ) (はずかし)

【書き下し】初六は、童観なり、小人なれば咎无し、君子なれば吝し、

象曰(しょうに いわく)初六( しょ りくは)童觀(どう かんすとは)小人(しょう じんの ) 道也(みちたればなり )

【書き下し】象に曰く、初六は、童観すとは、小人の道たればなり、

この卦の全爻の辞には、必ず観の字が入っているが、それはそれぞれの爻の次第階級による見識の高低を指している。
初六は陰柔不才にして六爻の最下に居る。
したがってその見識の拙く劣ることは、たとえば童稚蒙昧な者が物を観るようなものである。
だから、童観なり、という。
およそ小人卑夫に見識がないことは、それが小人の道であって古今世間の普通のことであり、それだけでは咎めるに当たらない。
だから、小人なれば咎无し、という。
この小人とは、天位卑賤の凡下の衆人を言う。
しかし、君子たらんとする者で、その事物の義理において、小児童蒙のごとくに見識がないのであれば、それこそ卑しめ辱められる極みである。
だから、君子なれば吝し、という。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二( りく じは )闚觀( き かんす)(よろし ) (おんなの ) (ただしきに)

【書き下し】六二は、闚観す、女の貞しきに利ろし、

象曰(しょうに いわく)闚觀( き かんす)(おんなの ) (ただしきとは)(また ) (べきとなり ) (みにくかる)

【書き下し】象に曰く、闚観す、女の貞しきとは、亦醜かる可きとなり、

闚観とは、のぞき見るという意である。
これは視ることの邪な者である。
六二は初六より一段上だとしても、その位はなお卑しいので、その見識もまた拙く卑しい。
したがって、陰柔であること、ニ爻は妻の位置であることから、これを女子に取る。
およそ女子の性情は、正面から直視することを羞じ、上目遣いなどで、盗み視ることを好む。
だから、闚観す、という。
しかし女子だとしても、闚観は邪であって醜い行為であり、正しい道ではない。
貞正静淑の女子は、視るときはきちんと直視し、直視できないときは敢えて視ないものである。
決して盗み視るような真似はしない。
だから、その闚観を不貞だと戒めて、女の貞しきに利ろし、という。
このように闚観は女子ですら戒めるべき行為なのだから、男子ならばなおさら卑下される。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三( りく さんは)( みて )我生( わが せいを)進退(しん たいすべし)

【書き下し】六三は、我が生を観て、進退すべし、

象曰(しょうに いわく)( みて )我生( わが せいを) 進退(しん たいすとは)(いまだ/ざればなり ) (うしなわ )(みちを)也、

【書き下し】象に曰く、我が生を観て進退すとは、未だ道を失わざればなり、

三はニよりもまた一段上なので、その見識もやや優れている。
初六は童子小児の如く、ニは婦女子の見識の如くだったが、それより一段上がったこの三は自己を知る見識がある。
しかし、なお未だ人を知ることはできない。
だから、我が生を観る、という。
これは、道を失っているというほどではなく、我が志と行いを観較べて、善ならば進み勉め、不善ならば退き止るだけの見識はある、ということである。
だから自分で考えて、進退すべし、という。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六四( りく しは )( みる )(くにの)(ひかりを)(よろし )(もちいるに ) (ひんたるに)(おうに)

【書き下し】六四は、国の光を観る、王に賓たるに用いるに利ろし、

象曰(しょうに いわく)(みるとは )(くにの)(ひかりを)(たっとべるなり ) (ひんたるを)也、

【書き下し】象に曰く、国の光を観るとは、賓たるを尚っとべるなり、

この爻は六三よりもまた一段進み上がったわけだから、その見識もまた一段進んでいる。
したがって、人を観る見識が備わっているものとする。
だから、国之光を観る、という。
これは、他国に往き、その国の風俗を観て、その政教の善否を知ることである。
その国が治まっていれば、その徳化は必ず風俗に現れるものである。
これを観て、治乱を省み察するのである。
さて、六四は高く外卦に進んで、九五の君に近づいている。
これは賓客となって、王に見える象である。
だから、王に賓たるに用いるに利ろし、という。

なお、王に賓たるところの者は諸侯であるが、四爻は通常執政宰相の位置とする。
しかし、その執政権臣の義を捨て、外藩諸侯の天子に賓客たる者としている。
それは、この卦が四陰の小人が頻りに勢い長じて、既に九五の君の爻も消し落とそうとするときを示すからであって、そのまま解釈すると、六四執政の臣は権勢盛んにして、九五の君を凌ぎ犯そうとしていることになるのである。
これは深く忌み重く憎むところである。
したがって、その義を転じて賓客とし、解釈しているのである。
賓客ならば君に近づいても権軽く威薄いので、君主を凌ぎ犯すことはない。
また、宰相執政とするときには威権の門となるので、必ず凌ぎ犯す畏れが有り、甚だしいときは弑逆に至ることもある。
したがって権臣の義を捨て、賓客諸侯としているのである。
要するに、この六四の爻は、放っておけば忽ちに九五の君の爻を消し滅するところの臣なのであって、それを警戒し、婉曲に自重を促そうと、賓客としているのである。

余談だが、お馴染みの言葉に、観光というのがある。
これは、この「国の光を観る」から作られたものである。
現代では遊びの見物を観光というのが普通だが、本来的には真面目な、今で言う視察のことを指して観光と言ったのである。
そもそも、この「国の光を観る」には、遊び半分の見物気分はない。
今の観光は、かつて、明治時代あたりには遊覧と呼ばれていた。
当時は、今の観光旅行のことも、遊覧旅行などと呼ばれていた。
それがいつの頃からか、観光が遊びの見物を意味するようになった。
観光と言いつつ、遊んでいた役人が多かったからだろうか・・・。

上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )( みる )我生( わが せいを)君子( くん しなれば) ( なし)(とが )

【書き下し】九五は、我が生を観る、君子なれば咎无し、

象曰(しょうに いわく)(みるとは )我生( わが せいを)(みるなり )(たみを)也、

【書き下し】象に曰く、我が生を観るとは、民を観るなり、

五は四よりもまた一段上なので、その見識もまた優れている。
としても、元来九五は君位なので、諸余の爻とその階級の高下を比較するべきものではない。
だから、その義は用いずに、我が生を観る、という。
ただし、六三の我が生を観るとは、同文だがその義は異なり、この九五のは、人を以って自分を観ることである。
そもそも君となる者は、まず我が身の行跡をよく識ることを第一とする。
すべからく国家の安危治乱は、君上の行いによって決まるものである。
しかし、自分を以って自分を観ることは、至って難しい。
そこで億兆の上に在る君主は、自分の行跡をきちんと観るために、まずは天下の民の風俗を歴観しなければいけない。
天下の風俗が善良にして君子の風儀が顕然としていれば、これは自分の行跡が善である徴と知り、なおも日新の徳を修め積むことが大事となる。
もし、天下の民の風俗が不善であるのなら、これは自分の行跡が不善であることを知り、強く厳しく恐惧して、新たに改めなければならない。
だから、君子なれば咎无し、という。
天下の風俗が君子ではないときには、君上の責任は重く、大なる咎があるという義である。

上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上九(じょう きゅうは)( みる )其生( その せいを)君子( くん しなれば) ( なし)(とが )

【書き下し】上九は、其の生を観る、君子なれば咎无し、

象曰(しょうに いわく)(みるとは )其生( その せいを)(こころざし ) (いまだ/ざるなり )(たいらかなら)也、

【書き下し】象に曰く、其の生を観るとは、志未だ平らかならざるなり、

上九は剛明の才徳が有るので、高く観の卦の極に居て、古今の事実を歴観している。
これは、その見識が高大にして、真に王者の師範であることに堪える者である。
その上九の師範が、九五君上の行跡の是非を審らかに観ようと欲するのであれば、まず天下の民の風俗を観ることである。
天下の人民の風俗が、すべからく篤実君子の風俗ならば、君主の行跡は善良にして、師範としての自分の教導の道において、咎は無いと言える。
もし、天下の人民の風俗が篤実君子の風俗とはほど遠いものであるときは、師範としての自分の教導が未だレベルに達した平らかな状態ではなく、大なる咎が有ることを自覚しないといけない。
だから、其の生を観る、君子なれば咎无し、という。
其のというのは、九五の君主の爻を指して言う。

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ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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