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前の卦=30離為火 次の卦=32雷風恒

31沢山咸 たくざんかん

「旧約聖書」ノアの洪水神話を構成する3卦(坎・離・咸)のひとつ。詳細はコチラ。

 艮下(ごんか)兌上(だじょう)

八卦の(ごん)の上に、()を重ねた形。

(かん)は、物と物とが相対して、その心念合一になることを言う。
平たく言うと、感じる、ということである。
そもそも天地の間の物は、相咸じないということはない。
その相咸じる中でも、男女の情欲より咸じることの激しいものはない。
その男女の中でも、少男少女は、特に咸じることが甚だしく、モテようとして、あるいは二人だけの世界に埋没して、周囲の顰蹙を買うようなことをやらかすこともある。
『論語』季子第十六に、(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り、とあるが、これは少年の咸じることの甚だしいことにより、女性の気を引こうと自らを派手にしたり、派手なものに魅かれて、礼を失うことを恐れ、深く戒めたものである。
言うなれば、チャライことはするな、といったことである。
咸じるとは、思慮なく感覚的に感じていることである。
例えば、可愛い女の子を見て可愛いと感じ、カッコイイ男の子を見てカッコイイと感じることや、満開の桜を見て綺麗だと感じることなどが、咸じるということになる。

さて、この卦は、艮の少男が兌の少女の下にいる。
これは少男少女が相交わり、互いに咸じ合っている様子である。
だから咸と名付けられた。

もとより万物の相対する者は、すべからく相咸じる者である。
山は地の高い場所、沢は地の低い場所であり、この両者は高いと低いとで相対している。
これを、山沢相対する、という。
易位生卦法によれば、この沢山咸は、山沢損から来たものとする。
山沢損の艮山が下り、兌沢が上ったのがこの沢山咸である。
しかし、山沢の実体が上り下りするわけがない。
動いたのは気であって、艮山の気が下り、兌沢の気が上がったのであって、これにより、二気が交わり咸じたのである。
だから咸と名付けられた。
なお、気が上り下りして相交わるというのは、地天泰風雷益水火既済の三卦と同じ例である。

また、ひとりのこととして観るときは、兌を悦ぶとし、艮を止まるとし、悦んで止まる様子とする。
人々が、その事その物を悦び、その悦ぶところに心を止めることが、咸ということである。
だから咸と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の上九が下り来て九三となり、六三が上り往きて上六となったのが、この沢山咸である。
上九が下り来たのは、天気が下って交わる様子であり、六三が上り往くのは、地気が上って交わる様子である。
これは天地が交わり咸じる様子である。
だから咸と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(かんは ) (とおる)(よろし )(ただしきに)(めとるに ) (おんなを)(きちなり)

【書き下し】咸は亨る、貞しきに利し、女を取るに吉なり、

およそ天下のことは、互いに心念合一の咸じ合う域に達していれば、亨通しないことはない。
また、その道を悦んで、その事を心に止めるときには、これも亨通しないことはない。
だから、亨る、という。
ただし、咸というのは、感覚的に感じ合って意気投合しているだけであって、まだ具体的な効用事業に感じ合っているわけではない。
だから、元いに亨る、とまでは言えず、単に、亨る、という。

そもそも天下のことは、すべて善悪正邪の両方を具えているわけだが、特に咸の道は、情欲意念が強い。
正しきに咸じれば善となるが、正しくないことに咸じれば不善となる。
だからこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

さて、男女夫婦の道は、家道の大経であり、夫が初めに唱えれば、婦が随い和して、和楽するものだが、そもそもはこの咸より始まることである。
男女夫婦が互いに咸じなければ、和楽することもない。
またこの卦は、悦んで止まる様子であるが、これは婦が悦んで夫の家に止まる、ということでもある。
だから、女取るに吉、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)咸感(かんは かんなり)也、柔上(じゅう のぼって ) (しこうして) 剛下( ごう くだる)二気(にき) 感應( かん おうして)(もって ) 相與( あい くみす)

【書き下し】彖に曰く、咸は感なり、柔上って而して剛下る、二気感応して、以って相与す、

咸は感じるということ。
交代生卦法によると、この卦は天地否から来たのである。
天地否では天地が閉塞して陰陽が交わることがなかったのが、今、下卦坤地の六三の一陰柔が上り往きて上六となって兌の主爻となり、代わって上卦乾天の上九の一陽剛が下り来て九三となって艮の主爻となったのである。
六三が上ったのは地気の上昇、上九が下ったのは天気の下降であり、これが陰陽二気が交わり感じ応じたということであって、これは上下が互いに好み合い心を通じた様子だから相与すと云ったのである。

(とどまって ) (しこうして ) (よろこぶ)(おとこをもって ) (くだる )(おんなに)是以(これを もって ) (とおるなり)(よろしきなり ) (ただしきに)(めとるに ) (おんなを)吉也(きちなるなり )

【書き下し】止まって而して説ぶ、男をもって女に下る、是を以って亨るなり、貞しきに利ろしきなり、女を取るに吉なるなり、

上卦の艮は止まる、下卦の兌は説(悦)ぶであり、上卦の兌の少女の下に艮の少男が降った様子である。
およそ天下の事物は、心をその事その物に止めて、その道を悦ぶことで感じるのである。
悦びを感じれば、何事も亨るし、その事に不正がなく正しければ宜しいし、結婚も吉なのである。

天地( てん ち ) (かんじて)(しこうして) 萬物( ばん ぶつ ) 化生( か せいす)聖人( せい じん )(かんぜしめて )人心( じん しんを)(しこうして) 天下( てん か ) 和平( わ へいす)

【書き下し】天地感じて、而して万物化生す、聖人人心を感ぜしめて、而して天下和平す、

天地二気が感じ合って万物が生まれ育って来たように、聖人は人々の心と共感し合って天下を治めたからこそ平和になったのである。

( みて ) ( その ) (ところを)1ノ(かんずる)(しこうして) 天地( てん ち ) 萬物( ばん ぶつの)(じょうを ) (べきなり ) ( みつ )矣、

【書き下し】其の感ずる所を観て、而して天地万物の情を見つ可きなり、

したがってその感じる所を観て、天地万物の情を見定めることが大事なのである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)山上(やまの うえに ) (あるは )(さわ ) (かんなり)君子( くん し ) (もって ) (むなしくして ) (おのれを ) (うくべし )(ひとに)

【書き下し】象に曰く、山の上に沢有るは咸なり、君子以って己を虚しくして人に受くべし、

山の気が下り交わり、沢の気が上り交わったのがこの卦の象である。
虚とは咸の本体であって、およそ天下の事物は中虚でなければ感じることはないのである。
簡単に云えば、自分の心に隙間あるいは余裕といった部分がなければ何も感じない、ということであって、心に隙間(余裕)を空けて素直に人を受け入れることが感じることの根本なのだ、ということである。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六( しょ りくは) (かんじて) ( それ ) (あしのおやゆびなり)

【書き下し】初六は、咸じて其れ拇なり、

象曰(しょうに いわく)(かんじて) ( それ ) (あしのおやゆびなりとは)(こころざし ) (あればなり )(そとに)也、

【書き下し】象に曰く、咸じて其れ拇なりとは、志、外に在ればなり、

およそ咸じるということは、いろいろな事物に対してあるが、これを推し究めるときには、我が身より近く親しいことはない。 したがって、咸の六爻は、これを人身に配当して、辞を書いている。
初爻は咸の始めにして、人の身に取れば、足の位である。
なおかつ初六陰柔は外卦の九四の爻に陰陽正しく応じているので、その志は九四陽剛に咸じ往きて応じて扶助を得ることに在る。
が、そもそもその心に咸じるところが有るときは、その身は忽ち動いてその咸じるところに至るものであるが、その身を動かそうとする時には、必ず足より始めるものである。
その足を進めるには、必ず()(=足の親指)に力を入れることから始める。
人間が歩行するときは、必ず足の親指に力を入れて踏み出すものである。
だから、咸じて其れ拇なり、という。

なお、この爻には吉凶の辞がないが、それは、初爻が咸の初めにして、まず最初に少し咸じただけだからである。
その咸じたことの善悪によって、吉凶を異にするので、ここでは予めに吉凶の辞を書いていないのである。
今はまだ善なのか悪なのか判然としないレベルで咸じただけである。
例えば、声をかけられて振り向いただけ、といったようなものである。
良い話があるなのか、悪い話なのか、あるいは・・・???
それが明らかにならなければ、善悪吉凶はわからないものである。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二( りく じは )(かんじて) ( それ ) (こむらなり)(きょうなり)(おれば ) (きちなり)

【書き下し】六二は、咸じて其れ腓なり、凶なり、居れば吉なり、

象曰(しょうに いわく)(いえども ) (きょうと ) (おれば ) (きちなりとは)(つつしめば ) (ざるとなり ) (がいあら)也、

【書き下し】象に曰く、凶と雖も居れば吉なりとは、慎めば害あらざるなり、

初を()(=足の親指)とし、三を(もも)とし、二はその中間に在る。
これは(こむら)(脛の後ろ側の膨らんだ部分、ふくらはぎ)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを慎み、九五正応に咸じるようにすれば害はない、という義を込めての垂戒である。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三(きゅう さんは)(かんじて) ( それ ) (ももなり)(しっして) ( それ ) (したがう)(ゆくは ) (はずかし)

【書き下し】九三は、咸じて其れ股なり、執して其れ随がう、往くは吝し、

象曰(しょうに いわく) (かんじて) ( それ ) (ももなりとは)(また ) (ざるとなり )(おら )也、(こころざし ) (ありとは ) (したがうに )(ひとに)(ところ )(しっする ) 下也(ひくければなり )

【書き下し】象に曰く、咸じて其れ股なりとは、また処らざるとなり、志、人に随うに在りとは、執っする所、下ければなり、

九三は(こむら)の上に居る。
これは(もも)の位置である。
この爻は、上に上六の応爻があれば、宜しくこれに咸じるべきことが正しい道だが、近くに咸じやすいので、上六の遠くには疎くして、近い六二に咸じ比す。
これは九三が過剛不中なためである。
だから、咸じて其れ股なり、という。
股もまた、足に随がって動き止まるものなので、進退共に足によるところの者である。
およそ陽が求め咸じるところの者は陰である。
九三に最も近いのは六二である。
したがって九三は、この六二の陰爻に咸じ、自らの陽剛の徳に処らず、これに執着し、束縛されて、六二が動けば共に動き、六二が止れば共に止る。
これは、まったく内に自守堅確の貞操なく、進退共に外見聞の情欲に執着して随う様子である。
自身の天稟の明徳を捨てて、陰暗な情欲に服従し、上位に在る身を以って、下位の六二に随がうのである。
要するに、己に如かざる者に服従するのである。
これは鄙吝(ひりん)醜辱(しゅうじょく)の極みである。
だから、執して其れ随がう、往くは吝し、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九四(きゅう しは )(ただしくして ) (きちなり) 悔亡( くい ほろびん)(しょう ) (しょうとして) 往來( おう らいせば)(とも ) (したがわんのみ ) (なんじが ) (おもいに)

【書き下し】九四は、貞しくして吉なり、悔い亡びん、憧憧として往来せば、朋爾が思いに従がわんのみ、

象曰(しょうに いわく)(ただしくして) (きちなり) ( くい ) (ほろびんとは)(ざるなり ) 感害(かんじて がいせ)也、(しょう ) (しょうとして ) 往來(おう らいすとは)(ざるなり)光大( こう だいなら)也、

【書き下し】象に曰く、貞しくして吉なり悔い亡びんとは、感じて害せざるなり、憧々として往来すとは、光大ならざるなり、

三の爻を股に当てれば、四は必ず腹か胸の位である。
しかしこの爻の辞には、胸とも腹とも言わず、心の義を以って書いている。
これは、胸や腹が心の居場所だとしてのことである。
さて、その心というものは、内に位置して形のないものなので、見ることも捉えることもできない。
したがって、思いと言って、その義を表現しているのである。
その思いというものは、心の発現するところにして、心の作用である。
その心の体は寂然不動であり、心の用は咸じて遂に通じるものである。
したがって、その心の作用に至っては、億兆無量にして善悪邪正、明暗浄穢、混沌錯雑にして、ひと呼吸の間に、千転万変、起滅跡なくして、決して予めに思い(はか)ることも、計算することもできない。
ただし、その心の主が正しく寂然である時には、その思うところの意は、自然に誠となるものである。
心正しく意が誠になる時には、その作用である思い咸じるところのものも、自然に正中の道理に符合し、感じて害せざるものである。
だから、この義を教えて、貞しくして吉、悔い亡びん、という。

この貞の字は、貞正の本義であることは勿論にして、貞恒貞固の義をも兼ね備えている。
貞正の正の字は、一に止と書くから、一に従い、止まるに従う、ということである。
一とは天の公の義、その天の公の道に従い止まって、少しも私利私欲がないことを正と言う。
貞恒の恒とは、正字体では恆と書き(偏の忄は心、旁は二の間に舟に似た形がある)、忄=心に従い、二に従い、舟に従うということである。
二は天地陰陽の二気、舟は二気の運行を象っている。
二気の運行は万古から間断なく続いている。
したがって、心を取り守ることが、二気の運行のように間断ないのが、恒の徳である。
貞固の固は、堅固節操の義にして、凛乎として動揺せず、確乎として気を抜かないことである。
この爻辞の貞の字には、この三義三徳を合わせ具えているのである。
要するに、心の本原が貞正なときには、その咸じるところは即ち天性の自然に発して、少しも人為の妄想の交わることはないので、悔いもないのである。

憧憧とは、行って絶えない様子である。
したがって、意思が定まらない義とする。
往来とは、進退というのとほぼ同義であり、憧憧として往来せば、思慮工夫を以って咸を求めることを喩えたものである。
そもそも、咸の道というものは、天地自然の無垢な状態のままに咸じることである。
それを今、思慮工夫を以って咸を求めようとしている。
これでは、自身の知識思慮の及ばないことについては、何も咸じられない。
例えば、おカネに執着している人が、おカネにはいろんなことを咸じるとしても、自然の美しさには何も咸じないか、おカネに換算しての価値しか咸じないように。
このように思慮工夫を以って咸じるときは、その範囲が光大ではなく、とても狭いのであって、人事で言えば、僅かに自身の朋類のみが思い従い咸じ、その他の人々には、全く通じることも咸じることもないのである。
いわゆる、内輪受けはするが、世間的には評価されない、ということである。
だから、憧憧として往来せば、朋爾が思いに従わんのみ、という。
爾とは九四を指し、朋とは九四の応爻の初六を指す。

上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )(かんじて) ( それ )(ばいなり)( なし)(くい )

【書き下し】九五は、咸じて其れ※晦なり、悔い无し、

象曰(しょうに いわく)(かんじて) ( それ )(ばいなりとは)(こころざし ) (ざるなり ) (おおいなら)也、

【書き下し】象に曰く、咸じて其れ※晦なりとは、志、大いならざるなり、

※晦は、正しくは月毎=にくづきに毎と書くのだが、この字はJIS規格及びユニコードにないので、やむを得ず※晦で代用しておく。

(ばい)とは、心と口の中間に在る想像上の場所であって、九四の心で咸じ、その咸じたことを上六の口から声に出して言おうと欲する間のことである。
その咸じることの邪と正とは、九四の心の在り方によるのであって、この九五の※晦が与るところではない。
九五の※晦は、心と口との中間にして、咸じることなく声を発することもない位である。
したがって、善悪是非共に、九五は関与せず、例えその九四が咸じたことが悪いことであっても、悔いることもないのである。
だから、咸じて其れ※晦なり、悔い无し、という。
ただし、九五は剛健中正の君位である。
とすると、その君が、自身の心の安らぎのみを楽しみ、天下億兆の飢寒に無関心な様子でもある。
側近がしっかりしていれば、それでも問題はないが、このような君としての志、君徳が薄く小さいわけである。
今はそれでよくても、将来何があるかはわからないものである。
もっと君徳を大きくするよう修養しなければいけない。

上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六(じょう りくは)(かんじて) ( それ ) () (きょう ) (ぜつなり)

【書き下し】上六は、咸じて其れ輔頬舌なり、

象曰(しょうに いわく)(かんじて) ( それ ) () (きょう ) (ぜつなりとは)(あぐるとなり)口説( こう せつを)也、

【書き下し】象に曰く、咸じて其れ輔頬舌なりとは、口説を滕ぐるとなり、

輔頬舌とは、頬と舌を動かすこと、要するに口を動かすことである。
上六は首の位にして、兌の口の主爻に当たっている。
元来陰柔不中にして、全卦咸の極に居て、兌口の主なのだから、口先ばかりの阿り諂いの言葉を並べ滕げて咸を求める者である。
だから、咸じて其れ輔頬舌なり、という。
おもねりへつらいの言葉ばかりを並べて話をすることを以って人を悦ばせ、知計を以って咸を求めることは、小人の常套手段にして、君子の大いに憎み賤しむところである。
したがって、君子への警鐘を込めて、その蔑みから敢えて口とはせず、輔頬舌と書いたのである。
凶とは書いてないが、これが凶であることは、当然である。

前の卦=30離為火 次の卦=32雷風恒

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01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火 

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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