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前の卦=44天風姤 次の卦=46地風升

45沢地萃 たくちすい

 

 坤下(こんか)兌上(だじょう)

八卦の(こん)の上に、()を重ねた形。

(すい)とは、集まる、という意。
この卦は、九五の君と九四の宰相と、共に剛明の才徳があり、下の衆陰がこの二陽の徳に集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、水地比の聖君と雷地予の賢臣とが、同徳をもって相助け集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌を悦ぶ、坤を民衆とし順うとすれば、上を主体に言えば、君主が悦んで民衆が順う様子であり、下を主体に言えば、民衆が悦んで順う様子となる。
悦んで順うのであれば、皆が相集まる。
だから萃と名付けられた。
また、一人のこととして言えば、悦んで順うのであって、また、対人関係で言えば、自分が順い相手が悦ぶことであり、これは共に相集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、沢が地上にある様子だが、沢は水が集まっているところであって、だから萃と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは地沢臨から来たものとする。
地沢臨は沢水坤地の下に在るわけだが、その沢水が地上に上ったのが、この沢地萃である。
これは水気が地上に集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、坤の母と兌の少女とが相集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌の少女が愛嬌を振りまいて、大勢の民衆が集まった様子である。
だから萃と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(すいは)(とおる)(おう )(いたる)有廟( ゆう びょうに)(こうするに ) (もってす)大牲( たい せいを)(きちなり)(よろし )(みるに )大人( たい じんを)(よろし )(ただしきに)(よろし )(あるに )(ところ)( ゆく )

【書き下し】萃は、亨る、王有廟に※假る、享するに大牲を用てす、吉なり、大人を見るに利ろし、貞しきに利ろし、往く攸有るに利ろし、

※假:通本は仮の正字体の假とするが、中州はその偏をイではなく彳が正しいと指摘する。
しかしそれは、パソコンで使うJIS、UNIコード、共に規格外の字なので、ここでは止むを得ず、假で代用しておく。

およそ物事は、相集まってしかる後に亨通するものである。
萃は物事が集まった様子である。
だからまず、萃は亨る、という。
有廟とは、先祖を祭祀するところにして、有は尊称である。
そもそも神とは、祭祀するときには、そこに集まり、祭祀しないときにはそこから散じるものである。
そこで六十四卦では、集まるという意の沢地萃と、散じるという意の風水渙の二卦に、鬼神を祭祀するときのことを書いているのである。
風水渙は既に散じたものが祭って集まることを解説し、沢地萃は集まるという卦の意義について、祭ることを解説しているのである。

さて、天下を治める道の肝要は、民心を集めることが第一である。
その民心を集めることは、自分が孝を尽くすのが先決である。
その孝を尽くすのは、近きより遠きを追うのが先決である。
遠きというのは、先祖のことであり、先祖を丁重に敬うことが大事だ、ということである。
『論語』学而第一9にも、終わりを慎み遠きを追えば、則ち民の徳は厚きに帰す、とある。
今、君上がよく孝を先祖に致すこと厚ければ、鬼神は必ず感じ(いた)って来臨し、民も必ず化して集まるものである。
これを王者の萃という。
要するに、自分の先祖を敬ってこそ、人は他人から信頼されるのであって、自分の先祖を蔑ろにすれば、目先の利益では人を集めたとしても、その人間性を心からは信頼されないものだ、ということである。

その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に※假る、亨するに大牲を用ってす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。

今は萃=集まるときである。
民衆は、天下の賢明な大人たちが集まって政治を行う様子を見ればこそ、悦んで順うものである。
したがって、九四の賢臣から言えば、九五の大人たる君主に謁見するに利ろしく、九五の君主から言えば、九四の大人たる賢臣に接見するに利ろしいのである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

君臣上下共に相集まるときには、貞正であることが大事である。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも沢地萃は、九四と九五の二陽剛賢明の君臣が、大いに天下の人心を集めるという意だが、九四九五は外卦なので、要するに外卦に集まる様子である。
往く攸有るに利ろしというのは、内卦を現在地としたときの往く攸すなわち外卦の九四九五に集まるに利ろし、と諭しているのである。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(すいは)聚也(あつまるなり )(したがって ) (もって ) (よろこび)( ごう ) (ちゅうにして ) (しこうして ) (おうあるは)(すいなり)

【書き下し】彖に曰く、萃は、聚まるなり、順って以って説び、剛中にして而して応あるは、萃なり、

萃は聚=集まるという意である。
下卦坤を順うとし、上卦兌を説ぶとすれば、順って以って説ぶ様子であり、剛中すなわち九五陽剛が中を得て、六二と応じているので、応じ集まる意があるから、この卦を萃という。

(すいは)(とおるとは)(あつまって ) (しこうして ) 亨也(とおるなり  )

【書き下し】萃は、亨るとは、聚まって而して亨るなり、

卦辞に萃は亨るとあるのは、集まってしかる後に亨るということである。

(おう )(いたる)有廟( ゆう びょうに)(こうするに ) (もってす)大牲( たい せいを)(きちなりとは)(いたせばなり)孝享( こう きょうを)也、

【書き下し】王、有廟に※假る、享するに大牲を用ってす、吉なりとは、孝享を致せばなり、

九五の聖君と九四の賢臣は、当世に相遇い相萃まって、終わりを慎み遠きを追うの孝の道を以って、天下の人心を萃め、以って祖考に孝の祭りを捧げ享するので、鬼神も感じ格ってよく福を下し、吉なのである。

(よろしく )(みるに)大人( たい じんを)(よろしとは ) (ただしきに)(あつまるに ) (もってせよとなり )(せいを)也、

【書き下し】大人を見るに利ろしく、貞しきに利ろしとは、聚まるに正しきを以ってせよとなり、

およそ集まるの道には、二通りあり、不貞正を以って相集まることは皆凶悪の道である。
したがって、一に貞正に従事することを要するのであって、正の字を以って貞の字を釈し、必ず正しくせよ、不正のことには集まってはいけない、と、深く教え戒めたのである。

(よろしとは )(あるに )(ところ)(  ゆく )(したがえよとなり)天命( てん めいに)也、

【書き下し】往く攸有るに利ろしとは、天命に順えよとなり、

往く攸とは、するべきこと、集まることを指す。
九五の聖君のするべきことは、九四の賢臣と相萃まり、孝の道を以って天下の民心を萃め、徳化を布くことである。
九四の賢臣のするべきことは、九五聖主の下に相萃まり、仁孝の至治を補佐して徳政を施すことである。
万民のするべきことは、聖主賢臣の徳化に説んで順い、利貞の道に相萃まることである。
これは君臣上下共に天命に順うの義にして、その吉たることは言うに及ばないが、もしこれに反する者は、天命に逆らうことであって、大凶であることを察するべきである。

( みて )( その ) (ところを)1ノ(あつまる)(しこうして) 天地( てん ち ) 萬物( ばん ぶつの)(じょうを)( べし)(みつ )矣、

【書き下し】其の聚まる所を観て、而して天地万物の情を、見つ可し、

その集まる所の義をよく観察すれば、そこに天地万物の情を知り得るのである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)(さわ ) (のぼるは)(ちに )(すいなり)君子( くん し ) (もって ) (えりおさめ )戎器(じゅう きを)(いましむ)不虞( ふ ぐを )

【書き下し】象に曰く、沢、地に上るは、萃なり、君子以って戎器を除め、不虞を戒む、

この卦は二陽剛が外卦に萃まるを以って象義をなしている。
地沢臨の易位生卦法によれば、下卦の兌沢の水気が悉くに九五に上り萃まったものとし、上ったのは沢の水気だから、沢、地に上るは萃なりと云う。
この如くに下民の兌沢の気が皆九五君徳に上り萃まるのであれば、太平至治の象である。
かつ九五九四の二陽剛のほかは、卦中に陽爻がないので、天下中に君徳に化服しない者がいない象である。
しかし全卦を以って一天下として観れば、太平無事の時風にして、外卦二陽剛は甚だ美麗壮観だが、内卦は坤の陰虚空貧にして、その実が無い象がある。
今は太平無事でも、いつどのような変化があるかわからないものであり、その時のために、戎器=武具の手入れをして、万が一の時に備えるべきである。
除=えりおさめるとは、古くなったものを新しいものに交換すること、不虞は、悪いことが起きる可能性を考えないこと。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)(あれども)(まこと) ()(おえ )(すなわち ) (みだれ ) (すなわち ) (あつまる)若號( もし さけべば) 一握( いち あくして ) (なさん )(わらいを)(なかれ )(うれうる)(ゆくは) ( なし)(とが )

【書き下し】初六は、孚有れども終えず、乃ち乱れ乃ち萃まる、若し号べば一握して笑いを為さん、恤うる勿れ、往くは咎无し、

象曰(しょうに いわく)(すなわち ) (みだれ ) (すなわち ) (あつまるとは)其志(その こころざし ) 亂也(みだるればなり )

【書き下し】象に曰く、乃ち乱れ乃ち萃まるとは、其の志、乱るればなり、

今、四陰が二陽に萃まる時に当たって、初六は九四の正応である。
しかし九四は臣、九五は君であり、君を捨ててまでして、正応の九四の臣に萃まるのは、孚の道ではない。
したがって、初六に孚が有り、九五に萃まろうと欲しても、正応の九四に萃まらざるを得ないのだから、九五に萃まろうと欲する孚を遂げ終えることは不可能である。
だから、孚有れども終えず、という。
このように、初六はその志を遂げられないので、心が乱れ、半ば九四に萃まろうとしつつ、それでも半ば九五に萃まることを欲する。
だから、乃ち乱れ乃ち萃まる、という。

今は九四に隔てられて、九五の君に萃まることはできなくても、志を堅固にして九五に萃まることを欲し、それがために叫ぶに至る如くであれば、必ずいつかは九五に謁見して、喜び笑うことができるものである。
だから、若し号べば一握して笑いを為さん、という。
一握とは、相手と会って握手をすることを指す。

初六は九五の応位ではないので、強いて往けば咎が有りそうにも思えるが、今は萃の時であって、臣を以って君に萃まるのである。
何の咎もないに決まっているのであって、往くことを躊躇して憂い恤うることは何もない。
だから、恤うる勿れ、往くは咎无し、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二( りく じは )引吉(ひけば きちなり)( なし)(とが )(まことあらば ) (すなわち ) (よろし )(もちうるに )(やくを)

【書き下し】六二は、引けば吉なり、咎无し、孚あらば乃ち禴を用うるに利ろし、

象曰(しょうに いわく)(ひけば ) (きちにして ) (なしとは)(とが )(ちゅう ) (いまだ/ざればなり )(へんぜ)也、

【書き下し】象に曰く、引けば吉にして咎无しとは、中、未だ変ぜざればなり、

今、四陰が二陽に萃るの時に当たって、初は四の正応にして、三は四の正比である。
これはみな九五の君に萃まれない、あるいは萃まらない者である。
そんな中、この六二のみ柔順中正にして、四に応じず比せず、九五の君に正応している。
これは、吉にして咎のないことである。

しかし六二は、下卦に在って大臣の位に居る。
その下卦坤の同体中の初と三とを引き連れて九五の君に萃まらず、初や三を九四の権臣に萃まらせるのは、下に在る大臣の職任においては、咎のあることである。
したがって六二の大臣は、中正の徳を常に変じさせることなく、同じ下卦坤の体中にある初と三の二陰爻を引き連れて九五の君に萃まらせることこそが、吉にして咎のないことなのである。
だから、引けば吉なり、咎无し、という。

禴とは薄い祭りのことである。
六二は中正にして君に孚の有る者である。
君に孚の有るときは、必ず神にも孚を以って接する。
孚が有って祭祀するのであれば、供え物が少ない薄い祭りであっても、鬼神は必ず感じ格るものである。
だから、孚あらば乃ち禴を用うるに利ろし、という。

そもそも神とは、集ればそこに在り、散ればそこにいないものである。
この沢地萃は集るの卦なので、神霊を集めて祭祀を行うことにも言及する。
爻において見れば、五は天神の位にして、二は五の応位なのでその祭主とする。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三( りく さんは)萃如( すい じょたり) 嗟如( さ じょたり)( なし)(ところ)(よろしき)(ゆけば) ( なし)(とが )(すこしく ) (はずかし)

【書き下し】六三は、萃如たり嗟如たり、利ろしき攸无し、往けば咎无し、小しく吝し、

象曰(しょうに いわく)(ゆけば ) (なしとは)( とが )(うえに ) 巽也(したがえるなり )

【書き下し】象に曰く、往けば咎无しとは、上に巽えるなり、

萃の道は、九五に集るのを正とする。
これを以って、六三もまた、九五に萃まろうと欲するが、九四に隔てられる上に、五は三の応比ではないので、直ちに集るのが難しい。
萃如として九五に集りたくても、障害があって集れず、嗟如として憂い歎いているのである。
だから、萃如たり嗟如たり、という。
このまま九五に集らず、九四に比する時には、萃の時の道に違う。
道に違うことが、よいわけがない。
だから、利ろしき攸无し、という。
もし、六三が九五に往き萃まる時には、応比の位ではないが、臣を以って君上に萃まり巽い順うのだから、咎はない。
だから、咎无し、という。
象伝に、上に巽がえるなり、とあるのは、六三、九四、九五で巽となり、六三はその巽の入り従うの主だからである。
ともあれ六三は、陰柔不中正なので、心は弱く、九四に親比している。
そこで、初めより憤然として志を決して九五に萃まることは不可能なので、後に往きて九五に萃まろうとする。
しかし、そういう態度は、辱められ、後ろ指をさされるというもの。
だから、小しく吝し、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四(きゅう しは )大吉(だい きちにして)( なし)(とが )

【書き下し】九四は、大吉にして、咎无し、

象曰(しょうに いわく)大吉(だい きちにして)(なしとは)( とが )(くらい ) (ざればなり )(あたら)也、

【書き下し】象に曰く、大吉にして咎无しとは、位当たらざればなり、

この卦は九四と九五の二陽爻が、ともに剛明の才徳が有る。
このように、君上と宰相とがともに剛明ならば、天下の臣民はその徳化に服従しないはずがない。
万民は悉く君徳に萃まるものである。
これこそ、大吉である。
大吉とは、大いに得るという義であって、大いに民心を得る、ということである。
大いに民心を得たら、公正を以って国家のため君のために尽くすことが大事である。
そうすれば、咎はない。
しかし九四は位が不当すなわち不正不中なので、民心を得るを以って己の徳、己の功と自負し、自家の威権を盛んに張り、君の家を蔑視する意も生じやすい。
そうなる大なる咎である大悪大凶の道である。
だから、そうならないように戒めて、大吉なり、咎无し、という。
ここでの咎无しは、咎のないように慎め、ということである。

上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )(すいのとき ) (たもつ )(くらいを)( なし)(とが )(ざれども ) (まこととせられ ) 元永(おおいに ながく ) (つねあれば)悔亡( くい ほろぶ)

【書き下し】九五は、萃のとき位を有つ、咎无し、孚とせられ匪れども元いに永く貞あれば、悔い亡ぶ、

象曰(しょうに いわく)(すいのとき ) (たもつとは )(くらいを)(こころざし ) (いまだ/ざればなり ) (おおいなら)也、

【書き下し】象に曰く、萃のとき位を有つとは、志、未だ光いならざればなり、

四陰が二陽に萃まるときに当たって、九四は臣の位なので、これを萃め有つときには、国家のためではなく、自分のためでしかないのであって、大いに咎がある。
しかし、この九五は君の位なので、これを萃め有つのは国家のためでもあるのであって、何の咎もない。
だから、萃のとき位を有つ、咎无し、という。
とは言っても、九四の大臣は威権を盛んにして、君と民との間に在るので、九五の君の徳言徳行はきちんと下民に通じない。
九五には、それが九四の忠不忠によるものなのかを見極めるほどの度量がないので、未だ志が光大だとは言えない。
これを以って下民は、九五に恵心が有ることを知り難く、君を信頼できず、なかなか孚としない。
これは、九五にとっては、悔いの残ることである。
そうであっても九五は、大いに永く貞常の徳を有して、民を恵む志が間断ない時には下民もいつかは君徳を孚として、九四の門に集まっていた者も悉く九五に萃まり来るものである。
孚とされれば、悔いは亡ぶ。
だから、孚とせられ匪れども、元いに永く貞あれば、悔い亡ぶ、という。

上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六(じょう りくは)齎咨( せい し ) 涕洟( てい いすれば)( なし)(とが )

【書き下し】上六は、齎咨涕洟すれば、咎无し、

象曰(しょうに いわく)齎咨( せい し ) 涕洟( てい いすとは)(いまだ/ざればなり ) (やすんぜられ )(うえに)也、

【書き下し】象に曰く、齎咨涕洟すとは、未だ上に安んぜられざればなり、

齎咨涕洟とは、歎き悲しみ泣く様子である。
今は萃の時である。
上六は陰柔不中にして、兌口の主である。
したがって、強いて九五の君に比し萃まろうとする。
これは、重陰不中姦佞の小人であって、巧言令色を以って君上に取り入って信用を得、君寵を利用して威勢を逞しくしようと画策する者である。
しかし、この九五は剛健中正なので、よく徳を守って姦佞陰邪の小人を防ぎ斥ける。
これを以って上六の小人は、君辺に萃まる必要のない者とされ、安んじることができない。
上六は、このときに当たって己の身の安泰を求めるのならば、巧言令色佞媚姦謀を以って人を欺き身を立てようとして道に背き義に悖ることの宿罪前非を痛く悔いて、厳しく改め、嘆き悲しみ泣き、正しきに復ることである。
そうすれば、これ以降は罪咎を免れるというものである。
もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。

前の卦=44天風姤 次の卦=46地風升

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ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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