爻辞 〜文王の子で魯の国祖、周公旦の作と伝わる。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、濳龍、勿ノ用、
【書き下し】初九は、濳竜なり、用うる勿れ、
爻辞はまた象辞とも言い、卦中の爻の意義を書いた文章で、文王の子、周公旦の作と伝わる。
象曰、濳龍 勿ノ 用、陽 在ノ下也、
【書き下し】象に曰く、濳竜用うる勿れとは、陽下に在ればなり、
象曰以下の文章は、象伝、小象、爻伝と呼ばれる爻辞を解説したもので、孔子の作と伝わる。
さて、その爻はそれぞれ、陽ならば九、陰ならば六と呼ぶ。
乾為天はすべて陽爻だから、どれも九と付く。
そもそも九とは、老陽の称である。
易は八卦の属性を数で表現するとき、少陽を七、少陰を八、老陰を六とし、老陽を九とする。
根拠は、陽を三、陰を二として計算することにある。
老陽は乾のことで、乾は陽三本で構成されているから、三+三+三で九、
少陽は震、坎、艮のことで、それぞれ陽一本に陰が二本だから、三+二+二で七、
少陰は巽、離、兌のことで、それぞれ陽二本に陰一本だから、三+三+二で八、
老陰は坤のことで、坤は陰三本で構成されているから、二+二+二で六、
ということである。
易は、陰極まって陽になり、陽極まって陰になると考える。
爻辞とは、簡単に言うとその爻が変化しようとしているときの対処を書いたものである。
したがって、陰陽それぞれが極まった老陽老陰の数の九、六を以って、その爻を呼ぶのである。
また、初というのは、最下が始まりだからである。
易の卦は、占うとき、下から積み上げて行くものだから、最初に得られるのは最下の爻である。
したがって最下を初と言い、上に向かって順に、二、三、四、五の爻とし、最上を上と言う。
竜は通常「りゅう」と読むが、正式には「りょう」と読む。
漢字の音読みには、大きく分けて漢音と呉音の別があるが、呉音は言わば方言であって、漢音が正式なのである。
しかしながら日本には最初、呉音で漢字が入って来たことから、その呉音で読まれることが多い。
竜を「りゅう」と読むのも呉音であり、漢音では「りょう」となる。
中州が生きた江戸時代には、学問を志す者ならば、易を初めとする中国古典は漢音で読むべきだ、とされていたので、中州も、世俗では呉音で慣れ親しんでいたとしても、敢えて漢音を用いた。
漢数字の六も、呉音では「ろく」だが、漢音では「りく」と読む。
ただし読みやすさ分りやすさを考慮して、ここでは基本的には漢音で読みつつも、あまりに違和感が大きい字は、今日慣れ親しんでいる呉音や慣用音のままで読むことにした。
さて、爻辞の解説に入ろう。
竜は陽物にして、大小自在に変化し、地に潜み、水に躍り、飛んで天に在るときは雲を起して雨を成す。
実に霊変不測の神物である。
また、乾は天であり、天の徳は雨をもって主とするのだが、その雨を自由に操るものこそ竜である。
だからこれを乾の卦の六爻に喩え、君子の徳に擬えたのである。
潜むとは、隠れ伏すということである。
六画卦における三才は、上爻と五爻を天位、四爻と三爻を人位、二爻と初爻を地位とする。
ただし初爻は地下の位でもある。
初九は、竜が地下に潜み隠れて、未だ地上に出ていないときである。
だから、潜竜と云い、象伝の陽在下は、このことを述べている。
君子ならば、身を立て名を顕すのには、用いるべきではないときである。
だから、用いる勿れ、という。
言うなればこの初九は控え選手、二から上はレギュラー選手で、初九は実力的にはレギュラー選手と同等だが、残念ながら今はレギュラー選手が気力体力とも充実していて、控え選手の出番はない、ということである。、
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、見龍 在ノ田、利ノ見2大人1、
【書き下し】九二は、見竜田に在り、大人を見るに利ろし、
象曰、見龍 在ノ田、コ施 晋也、
【書き下し】象に曰く、見竜田に在りとは、徳の施し晋きなり、
九二は地上の位置である。
初九の潜竜が地上に現れたのである。
だから、見るる竜、という。
田とは地の上面にして、百穀を発生し、人命を養育し、功徳利益莫大な、よい土地の称である。
大人とは九五の爻を指す。
九五の爻は君の定位であり、二の爻は臣の定位である。
この卦は二五君臣の爻、ともに剛中の徳が有るを以って、同徳相応じているものとする。
およそ易は、陰陽相応じるを以って、相応じ相助けるのが通例である。
しかしこの卦は、二五ともに同じ陽剛にして、相応じ相助けるのである。
なぜなのか?
それは、この卦が乾の純陽剛健の卦であり、乾の円満進動の時を示しているからであり、爻を以って言えば、二五ともに剛中の徳が有る。
以上のことから、同徳を以って相応じ相助けるとするのである。
このように、両剛相応じているとするのは、他に山天大畜の九三と上九、沢水困の九二と九五、雷火豊の初九と九四、巽為風の九二と九五、兌為沢の初九と九四および九二と九五、風水渙の九二と九五、水沢節の九二と九五、風沢中孚の九二と九五などがある。
なお、この乾為天の九二の爻には、三才の義も具わっている。
見竜とは、天の時を得たことである。
在田とは、地の利を得たことである。
利見大人とは、人の和を得ることである。
およそ君子という者は、まず自分自身によく九二の如き才徳を具え、九二の如き時を得たならば、九五の如き目上の有徳有位の大人に会って、その徳業を天下に普く施すのがよろしく、だから象伝に、徳の施し晋きなり、とあるのだ。
吉という字はないが、吉であることは明らかである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三
、君子 終日 乾乾、夕 タ若、 无ノ咎、
【書き下し】九三は、君子終日乾め乾めて、夕らタ若たれば、獅、けれども咎无し、
象曰、終日 乾乾、反復 道也、
【書き下し】象に曰く、終日乾め乾めてとは、反覆の道なり、
ここでの君子は、学者を指す。
この爻は三才に配すると人位である。
だから竜とは言わず、君子と称する。
終日は「ひねもす」と訓じているが、江戸時代には「しゅうじつ」と音読みすることが一般的ではなかったのだろう。
乾乾とは、健々というが如く、勉めて止まない様子である。
夕は「よもすがら」と訓じるが、これは夕方だけを指すのではなく、終夜=夜を徹してということであり、終日に対しての言葉である。
タ若とは、畏れ敬い慎むことである。
この爻は、陽剛を以って陽位に居て正を得ている。
その上、内卦の極位に在って、進むことに尖鋭な者である。
したがって、終日勉め努めて休むことない様子である。
だから、君子終日乾乾、という。
しかし、この爻は過剛不中である上に、内卦外卦の改革遷転の位置であり、人位改革の危き地である。
気ばかり焦り、徒に上を狙う傾向がある。
したがって、そういう過失がないように畏れ敬い慎み、常に自修自省を心がけるべきだとして、夕べにタ若たれば、獅、けれども咎无し、という。
象伝の反復の道とは、自修自省のこと。
上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九四、或ノ躍、在ノ淵 无ノ咎、
【書き下し】九四は、躍ること或り、淵に在れば咎无し、
象曰、或ノ躍 在ノ淵、進 无ノ咎也、
【書き下し】象に曰く、躍ること或り淵に在りとは、進むも咎无きとなり、
この爻に竜と言わないのは、三爻と同じ人位だからである。
そしてこの九四は、陽爻にして陰位に居るわけだが、陽爻であることから進もうとし、陰位であることから退こうと思い止まる。
進むもうとするときは、まず足を上げるものである。
しかし、思い止まって退こうとすれば、その足を下げる。
躍るというのは、進もうとして足を上げ、退こうと思い止まってその場に足を下ろすことである。
したがって、躍ること或り、というのは、進もうとして思いとどまる、ということである。
或いは、というのは、決断がつかない様子である。
もし、進めば、忽ちに九五の君の位を犯し凌ぐことになり、そんなことをすれば咎有りとなる。
だから退いて、淵に安んじ守ることがよい。
そうすれば咎は无い。
また、深き淵に安んじ守ることは、その身は退くわけだが、却ってその徳は盛んに進むことになる。
およそ徳に進むことは人事中にて咎無きの最たることである。
だから象伝に進无咎とあるのだ。
そもそも淵というのは、水の深いところであって、竜が安んずるところである。
爻辞では、直接に竜とは言わないが、竜を想定しているから淵に在れば、という言葉になるのである。
初爻は、未だ仕えない時、二爻は出て仕えるとき、三爻は仕えて公事に努め励む時、この四爻は人臣の極位にして威厳富貴殆ど君の位に迫る時である。
だからこそ、これ以上進もうとすれば君上から咎められ、退き安んじていれば咎は无いのである。
上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、飛龍 在ノ天、利ノ見2大人1、
【書き下し】九五は、飛竜天に在り、大人を見るに利ろし、
象曰、飛龍 在ノ天、大人 造也、
【書き下し】象に曰く、飛竜天に在りとは、大人の造わざなるなり、
飛とは、地を離れて天を行くことであり、五爻は天位だから、そうあるのである。
竜が飛んで天に在るときは、よく雲を起こし雨を成す徳がある。
もとより天の徳は、雨を成すことを以って第一の功とする。
伝説の河図の天一の水というのも、要するに雨のことである。
万物の中で、よく天に代わって雨を成すのは竜より他にはない。
だからこの乾為天に竜を擬えたのである。
しかし、潜む〜躍るといったときには、未だ雨を成すことはできない。
この九五の時を得て、初めて天を飛び、雨を施すことができるのである。
これは、聖人位に在って、雨を仁とし、よく仁の恩恵を世の中に溢れさせることの比喩である。
だから、飛竜在天、と云い、仁の恩恵を世の中に溢れさせることこそ大人のなせる業であるからこそ、象伝に、大人の造わざなるなり、と云う。
飛ぶというのは、その時を得、その勢いを得た、ということである。
このときの九五の君がするべきことは、九二のような剛中の才徳がある君子を、挙げ用いることである。
大人というのは、その自分より下にある九二の君子の賢者を指す。
だから、大人を見るに利ろし、という。
大人とは、本来は五爻の君子を指す言葉だが、位が下だからと見下すのではなく、才能がある者は自分と同等だと考えるのが、仁の君主だから、敢えて九二を指して大人と言ったのである。
上九━━━○
九五━━━
九四━━━
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初九━━━
上九、亢龍 有ノ悔、
【書き下し】上九は、亢竜なれば悔い有り、
象曰、亢龍 有ノ悔、盈 不ノ可ノ久也、
【書き下し】象に曰く、亢竜なれば悔い有りとは、盈てるものは久しかる可からずとなり、
亢とは進み上がることの過極な様子である。
上九は陽剛にして、乾の健やかにして進むの卦極に居て、退き守る道を知らず、なおも進もうとしているときである。
だから、亢竜、という。
およそ、進むことだけを知り、退くことを知らない者は、いつか必ず失敗して後悔するものである。
だから、亢竜ならば悔い有り、と戒めているのである。
と同時に、亢竜の如くにせず、退き守れば、悔いるようなことはない、という教訓も込められているのである。
今は乾の健やかに進むの卦の極で生気に盈ち溢れていても、それは永く続かないのが天地自然の定理である。
だから象伝には、盈てるものは久しかる可からず、とあるのだ。
上九━━━○
九五━━━○
九四━━━○
九三━━━○
九二━━━○
初九━━━○
用九、 見 羣龍、 无ノ首 吉、
【書き下し】用九は、見われたる群竜、首无きがごとくにすれば吉なり、
象曰、用九、天コ、 不ノ可ノ爲ノ首也、
【書き下し】象に曰く、用九は、天徳なり、首と為す可からざるなり、
用九とは、本筮法や中筮法で占い得たとき、すべての爻が老陽すなわち爻卦が乾のときをいう。
なお、略筮法で占うときには、この用九の爻辞は使う機会がない。
さて、この用九は、全爻計六竜が群がり動いて現れ出て、それぞれ雲を起こし、雨を作す勢いである。
こんなに勢いが強く盛んなのはよくない。
自重して、恐れ慎み退き守るべきである。
そもそも竜の威猛の勢いは首(=かしら)に在る。
今、六爻が全部変じて坤の柔順となれば、群竜の威猛盛んだった者が、忽ちに首を隠して順徳を守る様子となる。
人間も、この群竜の威猛強盛なときの如くの状況に出遇ったら、速やかに天徳に則り習い、竜が首を隠すように、坤の柔順の徳に退き守るのが吉である、との教えである。
天徳とは、昼夜の交代、寒暑の往来、四時の序、変化動通、盈虚消息を考えて行動すること。
だから、見われたる群竜、首无きがごとくにすれば吉、と云い、象伝に、天徳なり、首と為す可からず、という。
最後の卦=64火水未済 次の卦=02坤為地
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