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前の卦=31沢山咸 次の卦=33天山遯

32雷風恒 らいふうこう

 

 巽下(そんか)震上(しんじょう)

八卦の(そん)の上に、(しん)を重ねた形。

(こう)は、久しい、常である、という意。
この卦は震の長男が上に位置し、巽の長女が下に位置している。
易では、男は尊く女は卑しいとし、これを天地の大経として、尊卑の位を正しくすることが大事であり、これを守ることこそが夫婦が家を治める根本だとする。
というと、男女平等に相応しくない、非常識だ、と言う声が聞こえそうだが、易で言う男尊女卑は、普通に私たちが考えている西洋風の男尊女卑思想とは違うのだ。

男性が、女性から尊敬されるよう努力することが、男尊女卑なのだ。
決して男性が女性に押し付けるものではない。
女性が自発的に男性に身を任せるよう、男性は努力することが大事だ、ということである。

女性が結婚相手を選ぶとき、たいていは、尊敬できる何かを持っている男性を探すではないか。
逆に男性は、女性に対して、尊敬できる何かは、特に求めない。
むしろ男性は、自分のことを棚に上げて、相手の女性がキレイか、可愛いか、といったことを重視する。
これが自然の摂理である。
キレイ、可愛いというのは、性欲が湧くか否かであって、性欲が湧く女性でなければ、興味が持てないのが男性である。
だから、より男性の性欲をそそるように、女性は化粧をし、キレイに着飾り、あるいはエステに行ったりして、自分を磨くことに執念を燃やす。
綺麗事では否定したいところだが、本音はそのはずである。
それが動物としての本能なのだ。

要するに男性と女性とでは、根本的に異性に対して求めることが違うのだ。
そこを勘違いすると、離婚に繋がったりもする。
とにかく結婚は、女性が相手の男性を尊敬できなくなると、終わってしまうのだ。

ついでに、夜の生活を考えてみよう。
女性は男性に身を委ね、男性を受け入れることで成立しているではないか。
それで女性を満足させられれば、女性はその男性を尊敬する。
しかし、男性が一方的な思い込みで、女性を愛撫したつもりになっているだけでは、女性はちっとも気持ちよくない。
そうであっても優しい女性ならば、愛情表現だからと、我慢して男性に応じ、感じているフリをする。
知り合って間もない頃は、それでも幸せを感じるだろうが、いつまでたってもそんなことを繰り返してだけいれば、やがて互いの心に溝ができ、夫婦仲も悪くなるものだ。
最悪なのは、そんな女性の演技を見抜き、感じないのはお前が悪い、と開き直る男性だ。
俗に不感症とか性の不一致といった言葉があるが、それらはすべからく相手の男性が下手なだけだ、と言っても過言ではあるまい。
下手なのに下手であることを自覚せず、ご都合主義で女性のせいにして、上手くなろうと努力しないのだ。
何事に於いても努力しない人間は尊敬に値いしない。
だからこそ夜の生活でも、女性から尊敬されるテクを身につける努力をすることが、男性は大事なのである。
そのためには夫婦間で話し合い、そういった本を一緒に読んだりしてみるのもよいだろう。
しかし女性からそんな提案はなかなかできるものではない。
だからこそ男性が先立ってお膳立てしなければいけないのであって、それが男尊女卑ということなのだ。

もちろん夜の生活だけではなく昼間もいろいろな面で、この人は頼りになる、と尊敬されるようでなければ、女性の心は離れてしまう。
だから結婚生活には、男尊女卑が大事なのだ。

また、太古の時代の中国では、女尊男卑の社会が点在していた。
そういう時代に編纂されたから、易は男尊女卑をことさら強く主張している面もある。
女尊男卑とは母系母権制社会のことで、父親の存在を無価値とし、すべての実権を女性が握る社会である。
そして、社会は結婚という制度を有するか否かで、男尊女卑か女尊男卑のどちらかになるのであって、よく言われる男女平等は、易の立場からすれば、絵に描いた餅に過ぎないのである。
女尊男卑の詳細については、男尊女卑と女尊男卑をご覧ください。

かなり脱線してしまったが、そろそろ話を卦の解説に戻そう。

さて、この雷風恒だが、外卦の震を長男とし動くとし行うとして、内卦の巽を長女として従うとし斉(ととの)えるとすれば、男性は外で働き、女性は内を守って従い斉える、ということになり、これこそ家庭を営む基本である。
また、男女夫婦は人倫の初めでもある。
夫婦があって、然る後に子孫があり、その子孫が綿々と続き、命が継承されて行くのである。
これこそ恒久の道である。
だから恒と名付けられた。
また、震の雷は陽気の動であり、巽の風は陰気の動である。
この雷風の二気が相与してこそ、万物は生育し、大自然の恒久の営みは続いているのである。
だから恒と名付けられた。
また、上卦の震を動くとし、下卦の巽を従うとすれば、これは上が動いて下が従う様子である。
上の君が動いて政治を行い、下の民衆が君命に従って国事に従事するのが、上下恒久の道である。
だから恒と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽剛が上ってこの雷風恒の九四となり、六四の陰柔が下ってこの雷風恒の初六となったのである。
陽の剛が上ろうとし、陰の柔が下ろうとするのは、これ天地恒久の道である。
だから恒と名付けられた。

なお、恒久とは変化がない、ということではない。
世の中は日々刻々と変化している。
ただ、変化には規則性がある。
その規則性が恒久不変だということである。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(こうなれば)(とおる)(よろし )(ただしきに)( なし)(とが )(よろし)(あるに)(ところ)(ゆく )

【書き下し】恒なれば、亨る、貞しきに利し、咎无し、往く攸有るに利ろし、

およそ天下の事、よくその道に恒久の心構えで勤しんでいるときには、なんでも亨通するものである。
ましてこの卦は、震を動く、巽を従うとすれば、従って動く様子である。
恒久の道を以って従って動けぱ、いつかは何かを遂げ成すものである。
だから、恒なれば亨る、という。

もとより人たる者のかりそめにも離れるまじく守るべきは、貞正の道である。
だから、貞しきに利ろし、という。
しかし、もし恒久の道に背き、恒常の道に違うときには、必ず咎有り罪有りとなるものである。
恒常の道とは、父子の親、君臣の義、夫婦の別、兄弟の序、朋友の信を疎かにしないことである。
この道を恒に守り修めるときには、何の咎もあろうはずがない。
だから、咎无し、という。

そして、すでに貞正にして、よく恒常の道を守り、その作業はよく恒久の徳を修め、なおかつ宜しきに従って動き務めるのであれば、何事をするのであっても、問題はない。
だから、往く攸有るに利ろし、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(こうは)久也(ひさしきなり )剛上( ごう のぼり ) (しこうして ) 柔下(じゅう くだる)雷風( らい ふう ) 相與( あい くみして ) (したがって ) (しこうして ) (うごき)剛柔( ごう じゅう ) 皆應(みな おうあるは)(こうなり)

【書き下し】彖に曰く、恒は、久きなり、剛上って而して柔下る、雷風相与し巽って而して動き、剛柔皆応あるは、恒なり、

恒の字の義は久の字の意である。
地天泰の交代生卦法によると、地天泰の初九が四爻に上って震雷となり、代わりに六四が初爻に下って巽風となったのがこの卦であって、坤地が震雷となり、乾天が巽風となったのは陰陽の二気が相与して従(巽)って動(震)いたからである。
さらには、この卦を構成する六本の爻は剛柔すべて応じ合っていて、これは恒久に大切にするべきことだから恒という卦名になったのである。

(こうは)(とおる)(よろし )(ただしきに)(なしとは )(とが )(ひさしければなり)其道( その みちに)也、(よろしとは )(あるに )(ところ )(ゆく )(おうれば ) (すなわち ) (あればなり ) (はじまること)也、

【書き下し】恒は、亨る、貞しきに利ろし、咎无しとは、其の道に久しければなり、往く攸有るに利ろしとは、終うれば則ち始まること有ればなり、

この卦の亨る、貞しきに利ろし、咎无しというのは、すべて其の道に恒久を以ってのことである。
往く攸有るに利ろしというのは、変易盈虚が恒久だからである。
日月が相代わり照らし、春夏秋冬寒暑が移り変わるのは、変易盈虚が生々として止まず恒久だからこそのことであって、この恒久の変易盈虚のことを、終うれば則ち始め有るなりと云うのである。

天地( てん ちの )(みちは)(ちょう ) (きゅうにして)(しこうして) ()(やま )日月( ひ づき ) ( えて )(てんを ) (しこうして) 能久( よく ひさしく ) (てらし)四時(しじ) 變化( へん かして)(しこうして) 能久( よく ひさしく) ( なす )

【書き下し】天地の道は、長久にして而して已まず、日月天を得て、而して能く久しく照らし、四時変化して、而して能く久しく成す、

大自然すなわち天地の道は過去から現在までとてつも長く同じことを繰り返しながら続いて止まることがない。
日や月は天の道を巡り、よく地上を照らし、季節を変化させ、よく変化の功用を成している。

聖人( せい じん ) (ひさしくして)其道( その みちに)(しこうして) 天下( てん か ) 化成( か せいす)( みて )( その ) (ところを)1ノ(ひさしくする)(しこうして) 天地( てん ち ) 萬物( ばん ぶつの)(じょうを)(べきなり )(みつ )

【書き下し】聖人其の道に久しくして、而して天下化成す、其の久しくする所を観て、而して天地万物の情を、見つ可きなり、

聖人は天地の道に則り倣い、よく其の道に恒久であることを以って、天下の人々を教化育成する。
天地万物の運遷変化、生々して止まない様子、その徳を恒久にすることの心意気、情は、実に見るべきものである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)雷風(らい ふうあるは)(こうなり)君子( くん し ) (もって ) (たつこと ) ()(かえ )(ほうを)

【書き下し】象に曰く、雷風あるは、恒なり、君子以って立つこと方を易えず、

雷と風があるのが恒である。雷と風があれば不安になるが、だからこそ恒の心が必要なのである。
君子ならばそんなときでも立つ位置の方角を変えないものであって、どんなときでも信念を変えないことが大事だと教える。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)(ふかきことを ) (つねにせんとす)(かたくすれば ) (きょうなり)( なし )(ところ )(よろしき)

【書き下し】初六は、浚きことを恒にせんとす、貞くすれば凶なり、利ろしき攸无し、

象曰(しょうに いわく)(ふかきことを ) (つねにするの)(きょうなりとは)(はじめより ) (もとむればなり ) (ふかきことを)也、

【書き下し】象に曰く、浚きことを恒にするの凶なりとは、始めより深きことを求むればなり、

およそ何かをするときには、まずは簡単なところから入り、徐々に難しい内容に進むのが基本である。
しかしこの初六の爻は、恒久の卦の初めに居て、自らは陰柔不才にして不中不正なのに、その陽位の志のみ昂ぶり、恒久の修行を捨て、始めから当然の如くに深いことを望む。
だから、浚きことを恒にせんとす、という。
これは、恒久の卦の初めに居て、速やかに成就することを企む者である。
したがって、すでに卦象の大義に(もと)り、甚だよろしくない。
それでもなお、そんな姿勢を改めず、貞固に固執し、始めから深いことを行うのであれば、凶であることは必定である。
だから、貞くすれば凶なり、利ろしき攸无し、という。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二(きゅう じは )悔亡( くい ほろぶ)

【書き下し】九二は、悔い亡ぶ、

象曰(しょうに いわく)悔亡(くい ほろぶとは)(よく ) (ひさしければなり) (ちゅうに)也、

【書き下し】象に曰く、悔い亡ぶとは、能く中に久しければなり、

九二は臣の位に在って、剛中の才を以って六五柔中の君を輔佐する象義が有る。
また五を夫の位とするときには、二は妻の位である。
二五陰陽相応じ相助けるという象義が有る。
臣が君を輔佐し、妻が夫を助けことは、これ恒常の道にして、善である。
だから、悔い亡ぶ、という。
悔いとは、この爻が不正であることから、その恒常の道を怠る可能性を恐れて言うものである。
しかし、同時に剛中の徳が有り、よく恒久恒常にその徳を守るので、恒常の道を怠る可能性は杞憂に過ぎない。
そこで、その恒常の道を怠る可能性の悔いは、亡び消滅するのである。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三(きゅう さんは)(ざれば )(つねにせ )其コ( その とくを) (あり )(うくること )之羞(これが はじを)(かたくすれば ) (はずかし)

【書き下し】九三は、其の徳を恒にせざれば、之が羞を承くること或り、貞くすれば吝し、

象曰(しょうに いわく)(ざるとは ) (つねにせ )其コ( その とくを)(なきとなり )(ところ )(いるる)也、

【書き下し】象に曰く、其の徳を恒にせざるとは、容るる所无きとなり、

徳とは、各人天性の中に具え得ているものである。
自分自身の固有の徳は、これを恒久のものとし、しばしば改変しないのがよい。
一度決めたら、それで貫き通せ、ということである。
仮に、その志その行がしばしば変わる時には、子に在っては不孝の子であり、臣に在っては不忠の臣であり、妻に在っては不貞の婦であり、兄弟に在っては不悌不敬であり、朋友に在っては不信であって、そのような者はどこへ行っても受け容れては貰えない。
もとより易の辞は、広く万般の義に融通して教えることを基本としているので、これは孝である、これは忠である、などと、直接的には言及しない。
したがって、広くその徳と言うのである。
今、九三は過剛不中にして、内卦巽の(さわ)ぐの卦の極に居るので、落ち着かず、その志も定まらない。
これでは、その恒常の徳である孝悌忠信を喪い、羞じを承けるのが当然の理であり、不善の極である。
だから、其の徳を恒にせざれば、之が羞を承けること或り、という。
このような態度を固持するようでは、さらに多くの(りん)すなわち辱めを受けるものである。
だから、貞くするは吝し、という。

なおこの文章は『論語』子路第十三22に引用されているので、『論語』の読者にはなじみ深いところだろう。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九四(きゅう しは)(かりに) ( なし)(えもの)

【書き下し】九四は、田に禽无し、

象曰(しょうに いわく)(ひさしくとも ) (あらざれば)其位( その くらいに)(いずくんぞ ) (えんとなり ) (えものを)也、

【書き下し】象に曰く、久しくとも其の位に非ざれば、安んぞ禽を得んとなり、

九四の執政大臣は陽剛の徳は有るが、陽位ではなく陰位に居るので、内面的には陰邪暗昧にして小人の阿り諂いを悦び、外面的には陽剛の行いを衒いその徳位を恒久にせんと謀る人物である。
そんな中、九四は初六と陰陽相応じている。
応じているとは、例えば、狩に行って運良く獲物を得るようなことである。
しかし今、九四の応爻である初六は、陰柔不才にして不中不正だから、卑賤在下の小民であって、九四執政大臣に応じて何をか輔佐できるような者ではない。
狩で得たとしても獲物=禽として喜ばしいものではない。
釣りなら、雑魚ばかりで本命が釣れない、ということである。
そもそも九四の自業自得、どうして価値のある獲物を得られよう。
だから、田に禽无し、という。
田という字は、かつては田んぼと同時に、狩をすることも意味した。

上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六五( りく ごは )(つねにせり)其コ( その とくを)(かたくすること)婦人( ふ じんは ) (きちなれども)夫子( ふう しには ) (きょうなり)

【書き下し】六五は、其の徳を恒にせり、貞くすること、婦人は吉なれども、夫子には凶なり、

象曰(しょうに いわく)婦人( ふ じんは ) (かたくすること ) (きちなりとは)(したがって )(いちに ) (しこうして ) 終也(おうればなり )夫子( ふう しは ) (せいす)( ぎを )(したがうは )( ふに ) 凶也(きょうなるとなり)

【書き下し】象に曰く、婦人は貞くすること吉なりとは、一に従って而して終ればなり、夫子は義を制し、婦に従うは凶なるとなり、

六五は恒久恒常の卦に在って、柔中の徳が有り、よくその徳を恒にする者である。
かの九三の爻の過剛不中にして、妄りに躁ぎ、その徳を恒にせざる者と相反する。
だから、其の徳を恒にせり、という。
元来六五の君は、柔中の徳があり、九二の剛中の大臣とは陰陽相応じ、九四の陽剛の大臣とは陰陽相比している。
このように、応じ、また、比しているのは、その徳を恒にしている君であればこそのことである。
ところが、今、六五は陰柔不正であるので、常を常として原理原則に縛られ、気転が利かないといった面がある。
それでも婦女であるのなら、貞節貞固を主として黙って従っていれば、それでよい。
しかし、夫子=君子たらんとする者は、そうはいかない。
夫子は自分で判断して動かないといけない場面もあり、そんなときは、貞節や原理原則に固執せず、臨機応変に義を制し、気転を利かせないといけない。
したがって、夫子であるのに婦女のように貞固に原理原則を守り従っているだけならば、時宜に対応できず、大凶なのである。
だから、貞くすること、婦人は吉なり、夫子は凶なり、という。

上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六(じょう りくは)(ふるう)(つねを)(きょうなり)

【書き下し】上六は、恒を振う、凶なり、

象曰(しょうに いわく)(ふるって )(つねを ) (あるは )(うえに)(おおいに ) (なきとなり)( こう )也、

【書き下し】象に曰く、恒を振るって上に在るは、大いに功无きとなり、

ここでの恒は、常久の義にして変動しないことを言う。
振とは、動揺の愈々急速な様子である。
今、上六の爻は、重陰不中にして、恒の卦の極に居る。
およそ物事は、極まれば必ず変化する。
止ることが極まれば必ず進むように、恒も極まれば必ず動くものである。
その上この爻は、上卦震の震動の卦の極でもあるので、その恒を守ることはできず、妄りに動いて常を失う者であるから、どんな功績を得ることもできないのである。
だから、恒を振う、凶なり、という。

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ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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