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前の卦=20風地観 次の卦=22山火賁

21火雷噬嗑 からいぜいこう

 

噬嗑 震下(しんか)離上(りじょう)

八卦の(しん)の上に、()を重ねた形。

噬嗑(ぜいこう)は、噛み合わせる、という意である。
この卦は来往生卦法によれば、元は山雷頤(さんらいい)より来たものとする。
山雷頤は()(=おとがい)すなわち口の形の卦であり、その頤口の中へ九四の一陽爻が内卦の外から入り来て、上下を隔てて障りをなしている様子である。
頤の中に物があり、隔て障りをなすときには、必ずこれを噛み砕き、その後に上下相合うことを得るものである。
だから、噛み砕いて合うという意で、噬嗑と名付けられた。
ちなみに、口は、上の歯は動かず、下の歯(顎)だけが動いて、口の中の物を噛み砕くものである。
この卦は、上卦の離は付着、下卦の震は動くとすれば、九四の一陽爻は上の歯に付着していて、それを下の歯が震で動いて噛み砕く様子である。
だから、噬嗑と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

噬嗑( かみ あわして ) (とおる)(よろし )(もちいるに ) (うったえをきくに)

【書き下し】噬み嗑して亨る、獄えをきくに用いるに利ろし、

噬み嗑して亨る、というのは、直ちに亨ることではない。
口の中に物があれば、それを噛み砕いた後に亨る、ということである。
自分と相手との間に何かがあり、それが障りとして両者を隔て、和合できないような場合は、口の中に物があるのと同じようなことである。
だから、その物を噛み合わせて砕いてしまえば、その後に、両者は心が通じ、和合もできようというものである。
獄とは、牢獄のことであり、罪人を入れて置く場所である。
罪人とするか否かは、訴えを聞いて、その理非曲直を断じて決するものである。
そこで、この場合の獄の字は、訴えを聞いてその理非曲直を断じることを、指し示すのである。
そもそも訴えは、自分と相手との間に障壁があり、両者を隔て塞ぎ、彼我上下相合うことができないから、その情も互いに乖離し、不和となり、起こるのである。
今、訴えを聞くというのは、頤の中の一物を噛み砕いて、上下相合わせるようなものである。
とすると、訴えを聞く人は、威厳と文明を兼ね備えていなければ、その任に耐えないものである。
しかしこの卦は、震の威厳と離の文明を兼ね備えている。
そして、六五の君の爻は柔中の仁徳がある。
その威厳と文明と仁徳は、訴えを聞くにあたっては、とても重要なことである。
文明でなければ、相手の言いなりになってしまい、偽りを察し、理非曲直を分かつことができない。
威厳がなければ、侮られ軽視され信服されない。
仁徳がなければ、明徳威断に過ぎて、人々はビクビクしていなければならない。
この卦には、これら重要なことが全部揃っているわけだが、訴えを聞くためには、その罪状により、牢獄を用いることもある。
火雷噬嗑は、最上最下の二陽爻は剛実であり、中は空虚の間に九四の一陽があるが、これは牢獄の中に一人の囚人がいる様子でもある。
だから、獄を用いるに利ろし、という。
また、交代生卦法によると、元は天地否から来たものとする。
天地否の九五が下にやって来て、初爻の位に居り、初六が上に往き、五爻に居るのが、この火雷噬嗑である。
天地否のときには、坤は純陰、乾は純陽であり、両者は否塞して理非も分らない様子だが、これが今、剛柔分かち動き、明らかになったのが火雷噬嗑である。
また、来往生卦法によれば、元は天雷无妄から来たとする。
天雷无妄のときは、上卦の乾は剛強なだけで明徳がないが、今、内卦の外から一陰がやってきて、六五となり火雷噬嗑となると、五爻は離明の主となり、柔中の徳も有することになったのである。
もとより訴えを聞く者は、剛決であることを要するが、それだけではなく、文明も仁徳も必要である。
この三つが揃ってこそ、適正な裁きができるのである。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)頤中( い ちゅうに ) (あるを )(もの ) ( いう )噬嗑( ぜい こうと)噬嗑( かみ あわして ) (しこうして ) (とおるとなり)

【書き下し】彖に曰く、頤中に物有るを噬嗑と曰う、噬み嗑して而して亨るとなり、

山雷頤の空っぽの口の中に一陽爻が外からやってきて九四となり、口の中に物が有る象になったのが、この噬嗑であって、その口の中の物は、噛み合わせて砕いて小さくすれば、喉を通(亨)る。

剛柔( ごう じゅう ) (わかち)(うごいて ) (しこうして ) (あきらかなり)雷電( らい でん ) (ごうして ) (しこうして ) (あきらかなり)

【書き下し】剛柔分ち、動いて而して明なり、雷電合して而して章なり、柔中を得て而して上行す、位当たらずと雖も、獄えをきくに用いるに利ろしとなり、

交代生卦法によると、この卦は天地否から来たものとする。
剛柔分かちとは、剛柔すなわち乾坤純卦の真ん中を分かつことを云うのだが、今この卦にては、天地否の上卦の乾を分かちて真ん中の九五が初の陰と交代して初九となり、五爻が六五となった、ということである。
動いて而して明らかなりとは、天地否より交代して震動離明の噬嗑の卦となることを得たことを云う。
雷電合して而して章かなりとは、その震の雷と離の電(稲光)と相合して物事がきちんと章明(あきら)になる、ということである。

(じゅう) ( えて )(ちゅうを)(しこうして ) 上行(じょう こうす) (いえども )(ずと )(あたら )(くらいに)(よろしとなり ) (もちいるに ) (うったえをきくに)也、

また、来往生卦法によれば、この卦は天雷无妄から来たものとする。
天雷无妄の上卦は乾の剛強のみにして、明の徳を欠いているが、今一陰爻が外より上り行きて六五となって離の文明の主爻となり、柔中の徳を得たのである。
これによって剛決と文明と柔中との三徳が備わったのだが、これが柔中を得て而して上行す、ということである。
位とは六五の君位のことで、当たらずとは陰爻にして陽位に居ることを云う。
以上のことを以って、獄えをきくに用いるに利ろし、とする。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)雷電(らい でんあるは)噬嗑( ぜい こうなり)先王( せん おう ) (もって ) (あきらかにし )(ばつを)(ただせり )(ほうを)

【書き下し】象に曰く、電雷あるは、噬嗑なり、先王以って罰を明らかにし、法を勅せり、

この卦には震雷の威厳が有り、離電の文明が有り、なおかつ柔中の仁徳が有るので、先王はこの卦の徳性徳義に則って、刑罰を明らかにするべきだとして、法律等を制したのだ、と教える。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九( しょ きゅうは)(はかしめて ) (あしかせを ) (めっす )(あしを)( なし)(とが )

【書き下し】初九は、校を屨めて趾を滅す、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(はかしめて ) (あしかせを ) (めっするは )(あしを)(ざるとなり ) (いかしめ)

【書き下し】象に曰く、校を屨めて趾を滅するは、行かしめざるとなり、

校とは木で作った拘束具のことで、ここでは足枷を意味する。
趾を滅するとは、足を切断し、歩行困難でどこへも行けないようにする刑罰である。
さて、この卦の六爻の辞の義は、上爻以外は刑を用い施す役人のこととして説明する。
そもそも刑とは、その罪状によって重さが変わるものであり、基本は公明正大の天意に則る国憲にして、ほんの僅かの偏私暗昧なことがあってはならない。
したがって、足を切ることが決まったら、そのとおり切るのである。
初爻は人体にたとえると足の位置なので、足に対する刑罰を言う。
だから、校を屨め趾を滅す、という。
今、初九の役人は、陽剛にして陽位に居り、正を得ているので、その罪と罰とが、納得できるものなのであって、罪人はその罪に心服する。
これは咎のない道である。
だから、咎无し、という。
ここで言う咎无しとは、訟えを聞き、その是非を判断して決める罪と罰が適正であるから、道において咎がないということである。

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二( りく じは )(かむがごとし )(ふを )(めっすも )(はなを)( なし)(とが )

【書き下し】六二は、膚を噬むがごとし、鼻を滅すも咎无し、

象曰(しょうに いわく)(かむがごとし )(ふを )(めっすとは )(はなを)(のればなり )(ごうに)也、

【書き下し】象に曰く、膚を噬むがごとし、鼻を滅すとは、剛に乗ればなり、

元来この卦は、頤中(口の中)に一物が有る象なので、これを齧合(けつごう)するという義によって、噬嗑と名付けられたものである。
したがって、ニ爻から五爻までは、その頤中のこととして、噛み合せるという義を以って辞が付いていて、その噛むところの肉の剛柔堅軟にて、その爻の徳性象義を分別している。
膚とは柔軟にして骨もない切り肉のことであり、至って噛みやすいので、力を用いない喩えである。
六二もまた刑を用い施す役人である。
もとより六五は、柔順中正の徳を以って(うった)えを正しく聞き、刑を行うので、罪有る者がその罪に心服することは、膚肉を噛むがごとくに容易い。
だから、膚を噬むがごとし、という。
その上、六二は中正を得ているので、鼻を切り落とすといった軽い刑罰であっても、その刑と罰は適正である。
だから、鼻を滅すも咎无し、という。
なお象伝では六二を、刑罰を受ける者として捉え、六二は陰柔不才を以って初九陽剛の上の乗っているので、初九の陽剛に見栄を張ろうと、ややもすると陰陽正しく応じていない六五を侮り、自分のために利用することを考え、膚を噬むように容易く罪悪を犯してしまい、鼻を滅せられるのだ、としている。
易の解釈には二面性があることの一例である。

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三( りく さんは)( かみ )腊肉( せき にくを)( あう )(どくに)(すこしく ) (りんなれども ) ( なし)(とが )

【書き下し】六三は、腊肉を噬み、毒に遇う、小しく吝なれども、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(あうとは )(どくに)(くらい ) (ざればなり )(あたら)也、

【書き下し】象に曰く、毒に遇うとは、位当たらざればなり、

六三の辞も、また獄えを聞く役人のことである。
ただし、六三は不中不正なので、刑罰を施すとき、おいそれとは罪人がその罪に心服しない。
これを服従させて観念させることが難しさは、堅い腊肉を噛むがごとくである。
そして、人の行儀心術の上にては、不中不正の志行より毒となるものは少ない。
今、この六三の爻は、その不中不正なのだから、その堅い腊肉を噛んで毒に当たるごとくの難儀をするのである。
だから、腊肉を噬み、毒に遇う、という。
刑を施す役人としては、罪人が観念せず、その罪を不服とするのは、恥辱である。
そのため、罪人を納得させるためにいろいろと苦労するのである。
しかし、その苦労の結果、漸くきちんとした罪状を得て、罪人は刑と罪が相当なものであることに観念するので、その任を遂げられ、咎はないのである。
だから、小しく吝なれども、咎无し、という。

上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四(きゅう しは )( かむ )乾胏( けん しを )(えたり)金矢( きん しを )(よろし )(くるしんで ) (ただしきに ) (きちなり)

【書き下し】九四は、乾胏を噬む、金矢を得たり、艱しんで貞しきに利ろし、吉なり、

象曰(しょうに いわく)(よろし )(くるしんで ) (ただしきに ) (きちなりとは)(いまだ/ざるなり ) (おおいなら)也、

【書き下し】象に曰く、艱しんで貞しきに利ろしとは、未だ光いならざるなり、

胏とは骨つきの干し肉のことである。
金とは剛堅の義と喩えである。
矢とは直であるという義の喩えである。
この九四の爻もまた、訟えを聞く役人である。
しかし、不中正なので、罪人の服し難きことに、乾胏の堅い肉を噛むがごとく苦労するのである。
だから、乾胏を噬む、という。
もとより獄えを聞くには、まず剛直であることが大事である。
役人が剛でなければ民は畏れず、直でなければ民は服さないものである。
九四は陽爻なので、剛直だと言える。
だから、金矢を得たり、という。
ただ、不中正ではあるので、その徳は未だ大い光ることはない。
だから、その不中正を戒めて、艱しんで貞しきに利ろし、という。
最後の、吉なり、というのは、別に得ることが有るということではなく、苦労があっても貞しくしていれば、その職任を失わない、ということである。

上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六五( りく ごは )( かむ )乾肉( けん にくを)(えたり)黄金( おう ごんを)(かたくすれば ) (あやうし)( なし)(とが )

【書き下し】六五は、乾肉を噬む、黄金を得たり、貞くすれば獅オ、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(かたくすれば ) (あやうし)(なしとは )(とが )(えるなり )(あたることを)也、

【書き下し】象に曰く、貞くすれば獅オ、咎无しとは、当たることを得るなり、

乾肉とは、骨のない干し肉である。
黄とは中央の色にして、中の義を言う。
金は堅剛の義である。
六五は獄えを聞く君である。
としても、六五は中を得ているが、正を得ていないので、六二の中正を得て膚を噬むがごとくの容易さには及ばない。
しかし、四と三の不中不正の爻と比較すれば、容易である。
だから、膚よりは堅く、腊肉や乾胏よりは柔らかいということで、乾肉を噬む、という。
そもそも獄えを聞く者は、中の徳=黄が有って剛=金なるを尚ぶ。
今、六五は中の徳が有り、陽剛の位に居る。
だから、黄金を得たり、という。
もとより獄えを聞くの道は、民の情偽(真実と嘘)を尽くすに在る。
その両端を捨てて、その中を取るのがよい。
偏固なる時は、民の情偽を尽くすことはできず、獅「。
だから、貞くすれば獅オ、という。
貞は固執の義である。
また、この六五の爻は中にして、陰=柔だが、陽=剛の位に居るので、剛柔両面が備わっていて、剛にも過ぎず柔にも流れずの離明の主にして剛柔がその宜しきに当たっている。
これは獄えを聞くにおいて、咎となるようなことがない様子である。
だから、咎无し、という。

さて、易の文の慣例では、金は剛堅の義なので陽剛の象に取るものである。
しかしこの爻は、陰柔でありながら、黄金という言葉がある。
これは、卦爻の徳と力との関係による。
まず、この爻は五の君位にして、至尊至貴の位なので、諸余の爻と比擬するべきではないのである。
なおかつ、五は陽位である。
したがって、その爻の徳と位とに就いて、金というのである。
また、この爻が変じれば、外卦は乾となる。
これらの義が有るので、金の象に取るのである。
ちなみに、火風鼎の六五も、陰柔でありながら金鉉とあるが、これも同義である。

上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九(じょう きゅうは)(になって ) (くびかせを)(めっせり )(みみを)(きょうなり)

【書き下し】上九は、校を何って、耳を滅せり、凶なり、

象曰(しょうに いわく)(になって ) (くびかせを ) (めっせすとは )(みみを)(きくこと ) (ざるなり ) (あきらかなら)也、

【書き下し】象に曰く、校を何って耳を滅すとは、聡くこと明らかならざるなり、

校を何うとは、首に枷をつけることである。
耳を滅すとは、耳を切り取る刑である。
さて、六爻中で、ただこの上九の爻だけは、直ちに刑を受ける罪人とする。
上九は無位の地でありながら、小人にして高く卦の極に居るので、これを、上を侮り、法を犯す者、とする。
それが、この刑を受ける理由である。
校を何って、耳を滅せり、というのは、象によるものであって、必ずしも罪の軽重を論じているのではない。
最上爻は頭の位置であって、頭部への刑罰と言えば、古代には耳を切り落とすのが一番ポピュラーなので、そう書いているに過ぎない。
およそ人の愚昧にして高く卦極に居て罪を犯し刑を受けるのは、何事もきちんと聞かないから明らかでなく、そんな罪を犯してしまうのであって、凶である。
だから、校を何って、耳を滅っせり、凶なり、という。

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ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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