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前の卦=23山地剥 次の卦=25天雷无妄

24地雷復 ちらいふく

「旧約聖書」天地創造7日目に神が安息したことと、ユダヤ暦元年が西暦紀元前3761年であることを示すを卦。詳細はコチラ。

 震下(しんか)坤上(こんじょう)

八卦の(しん)の上に、(こん)を重ねた形。

(ふく)(かえ)る、復活という意。
この卦は十二消長のひとつである。
純陽の乾為天から、天風姤天山遯天地否風地観山地剥と、次第に陰柔が増長し、陽剛を消し滅ぼし、ついには純陰の坤為地となり果てたところに、今、乾為天の初爻の一陽剛が、奮然として復活して、その原位に来復したのがこの卦である。
だから復と名付けられた。
十二消長は、旧暦の一年十二ヶ月を陰陽の消長で表現し、十二の卦を配したものであり、この地雷復は、太陽の力が復活する冬至に配されている。
旧暦では、十一月を冬至とし、以後順に、十二月を地沢臨、正月を地天泰、二月を雷天大壮、三月を沢天夬、四月を乾為天、夏至の五月を天風姤、六月を天山遯、七月を天地否、八月を風地観、九月を山地剥、十月を坤為地とし、再び十一月の地雷復に戻るのである。
冬至を指して一陽来復というのは、この卦の形をそう呼んだのである。

また、八卦の組み合わせでみると、震の雷が坤の地の中に在る様子である。
雷は陽気が動くエネルギーであり、もともとは天に属するものである。
それが今、下って地中に入っている。
これは、いつか必ず地中を発出して、天に復帰するものである。
だから、復と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(ふくは)(とおる)出入( で いりともに) ( なく )(やまい)朋來( とも きたりて) ( なし)(とが )反復(はん ぷくするに) 其道( それ みちあり)七日( なのかにして ) 來復( らい ふくす)(よろし)(あるに)(ところ)(ゆく )

【書き下し】復は、亨る、出入りともに疾い无く、朋来たりて咎无し、反復するに其れ道あり、七日にして来復せん、往く攸有るに利ろし、

この地雷復は、一陽が復(かえ)り生じた卦であり、君子の道がこれから長じようとするときなのである。
だから、復は亨る、という。
また、震を動くとし、坤を順(したが)うとすれば、下卦の自分が動き、上卦の相手が順う様子であるが、これもまた、亨る、という根拠である。
しかしこの卦の陽は、初九の一陽剛のみであり、その勢いは微弱である。
したがって、元いに亨る、とは言えないのである。

そもそも陰陽消長は、出入共に少しの障り隔てはないものであり、天運の循環であるところの自然の流れである。
これに対して疾病は、陰陽の出入りが障り滞り、気血の不和より起こるものである。
したがって、陽が消滅し、今ここに再び来復したということは、疾病のときのような、陰陽の出入に障り隔たり滞りがあってのことではなく、まったく自然の流れなのである。
だから、出入りともに疾い无し、という。

また、この地雷復は、一陽初めて復り生じたのであって、今その勢いは微弱だが、次第に同朋の陽爻が来たって地沢臨となり地天泰となって行くわけである。
その来るところの朋は陽であり君子であるわけだから、朋来りて咎无し、という。
これが逆に、天風姤から天山遯天地否となるときは、陰邪な小人の朋が来るわけだから、咎有りということになる。

また、この地雷復は、元々純陽の乾為天より段々と陽が消滅して行き、ついに純陰の坤為地となってしまったところに、今再び元の乾為天の初九の一陽剛がその本位に来復したのであって、その一陽剛が(かえ)って来た意義は、陽であるがゆえに正しく大いにして、よく道に適うところである。
だから、反復するに其れ道あり、という。

さて、この一陽の復活だが、乾為天の初九が陰にとって代わられた天風姤から、天山遯天地否風地観山地剥坤為地、地雷復と、七卦にして、最下に陽が復(かえ)り来っている。
だから、七日にして来復す、という。
もとよりその来復するのは陽である。
だから七日という。
七は奇数なので陽の数であり、日は陽物だからである。
陽が来復することは吉であり、吉は速やかに来て欲しいと願うものである。
だから日にかけて七日と言ったのである。
地沢臨では、陰邪が来ることを、八月に至れば凶有らん、と示しているが、陰が来ることは凶であり、凶はすぐに来て欲しくないことである。
そして八は偶数なので陰の数であり、月も陰物である。
だから地沢臨では、地雷復とは逆に、少しでも遅くと、日ではなく月で言っているのだ。

また地雷復は、君子の道が長じ、小人の道が消えるときであって、下卦の自分が震で動けば、上卦の相手は坤で順(したが)うときでもあり、さらには順をもって動くという様子でもある。
そうであるのなら、何事でも、行うに問題はない。
だから、往く攸有るに利ろし、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(ふくは)(とおるとは)(ごう ) (かえればなり)

【書き下し】彖に曰く、復は、亨るとは、剛、反ればなり、

十二消長卦では、純陽の乾為天から天風姤、天山遯、天地否と次第に陽が消され剥され、さらに風地観、山地剥と消され剥され、ついに坤為地で純陰となったところに、忽ち乾為天の初九の一陽剛がその本位に復り来たことより、この地雷復の卦となったわけだが、これは陽剛の復ることであって、その陽の復るは君子長じ、君子の道が長じることだから、万事亨通するのである。

(うごいて ) (しこうして ) (もって )(じゅんを ) (ゆく )是以(これを もって) 出入( で いりともに) ( なく)(やまい)朋來( とも きたりて) ( なし)(とが )

【書き下し】動いて而して順を以って行く、是を以って出入ともに疾无く、朋来たりて咎无し、

内卦の震を動くとし行くとし、外卦の坤を順とすれば、動いて順を以って行くという功徳が有るので、出入りともに疾いや険みはなく、同類の陽剛の賢い朋が来て助けてくれるので咎は無い。

反復(はん ぷくするに) 其道( それ みちあり)七日( なのかにして ) 來復(らい ふくするは)(てんの ) 行也(みちたればなり )

【書き下し】反復するに其れ道あり、七日にして来復するは、天の行たればなり、

さらには道の正きに反り復ることは、実によく道に適っているので、七日にして来たり復ることを得るのである。
七日というのは、乾為天から一陽ずつ消され剥されて七番目が地雷復だということによるのだが、とにかくこのような功徳が有るのは、天行すなわち天の道だからである。
天の運行により一日があり四季の移り変わりがあり、年が巡るのであって、その天の運行の、特に冬至の部分を示したのがこの地雷復という卦なのである。

(よろしとは )(あるに )(ところ )(ゆく )(ごう ) 長也(ちょうずればなり)復其(ふくは それ ) (みることなるかな)天地( てん ちの )(こころを)乎、

【書き下し】往く攸有るに利ろしとは、剛長すればなり、復は其れ天地の心を見ることなるかな、

一陽剛が下に復して長ずるのだから、君子たる者は、何事でも行うに宜しいのである。
このようなことから復は、天地の心を表現しているのだと言えよう。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)(かみなり ) (あるは)地中( ち ちゅうに)(ふくなり)先王( せん おう ) (もって) 至日( し じつには)( とじ )(せきを)(しょう ) (りょをして) ()(ゆかしめ)(きみも ) (ざりき )(かえりみたまわ )(ほうを)

【書き下し】象に曰く、雷、地中に在るは、復なり、先王以って至日には、関を閉じて、商旅をして、不行しめず、后も方を省みたまわざりき、

至日とは冬至の日のことを云う。古は冬至の日には関門を閉じて往来を止めた。
これは僅かに復り来た微陽を養い守り、厳殺凛然の天威を畏れ避けたのであって、そのために商売で旅をしている人々の往来も止め、后=君上も四方への巡狩を止めたのである。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

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初九━━━○

初九( しょ きゅうは)(ずして )(とおから ) (かえり)( なし )(いたること )(くいに)元吉( げん きちなり)

【書き下し】初九は、遠からずして復り、悔に祇ること无し、元吉なり、

象曰(しょうに いわく)(ずして )(とおから ) (かえるとは)(もって ) (おさめるとなり )(みを )也、

【書き下し】象に曰く、遠からず復るとは、以って身を修めるとなり、

この卦は乾の初九の一陽剛が、坤の群陰の中から忽ち元の位に復るという義なので、六爻共に道に復ることの得失を以って辞が付けられ、教え戒めを示している。
初九は復の卦の最初なので、道に復る始めにして、速やかな者とする。
なおかつ陽明剛正なので、ひとたび過ちが有ったとしても、速やかに改めて道に復る者である。
だから、遠からずして復り、という。
遠からず、というのは、深からず、といった意味であり、一旦は過ちが有っても、道を去ってもすぐそばで迷っている程度なので、改心して道に復り戻るのも速やかなのである。
およそ人というものは、聖人でない限り、過失のひとつやふたつは必ず有るものである。
その過失があったとき、速やかに気付いて改めるのが賢いのであって、そうしていれば、大した問題もないものである。
それが、しばしば過ち、あるいは、過ったらなかなか改めないときは、大きな問題に発展したりして、後悔することにもなるのである。
今、この初九の爻は、過ちを繰り返さず、速やかに道に復り、身を修めるので、後悔するようなことにはならないで済むのである。
だから、悔に祇ること无し、という。
祇の字は至るという意である。
過ちがあっても速やかに道に復るから悔に至らないのであって、これこそ大善の吉の道である。
だから、元吉なり、という。

ところで、ここでは、悔无し、ではなく、悔に祇ること无し、と、いささかまどろっこしい言い方になっている。
これは、悔无し、が、最初から過ちのないことの義だからである。
過ちを犯したからこそ、悔いに至るか至らないかが問題になるのである。
要するに、悔に祇ること无し、は、一旦は道を履み違えて咎も有るけど、改めて正しい道に復るので、悔いに至ることはないのである。
過ったままならば問題だが、道に復るので、大なる咎には至らないのである。

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初九━━━

六二( りく じは )(よくす )(かえることを)(きちなり)

【書き下し】六二は、復ることを休くす、吉なり、

象曰(しょうに いわく)(よくするの ) (かえることを)(きちとは)(もってなり )(くだるを )(じんに)也、

【書き下し】象に曰く、復ることを休くするの吉とは、仁に下るを以ってなり、

休とは善良の義にして、称美の辞である。
六二の爻は中正を得て、初九成卦の主爻とは陰陽正しく比している。
これは道に復ることを善くする者である。
だから、復ることを休くす、吉なり、という。

なお、初九は単に正を得ているだけなのに元吉という辞があるのに対し、この六二は中正を得ている爻なのに、却って吉とだけある。
これは、両者に次のような違いからである。
初九は成卦の主にして卦中の唯一の陽の剛明なる爻であって、道に復ることの最初の者である。
六二は中正を得てはいるが陰柔にしてなおかつ成卦の主でもなく、道に復ることもまた初九の次であり、初九が道に復るのが迅速であるのを見て、自らも下の初九のように、仁の道に復るのである。
だから、初九には元吉とあり、六二には単に吉とだけあるのである。

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初九━━━

六三( りく さんは)(しばしば ) (かえる)(あやうけれども ) ( なし)(とが )

【書き下し】六三は、頻復る、獅ッれども咎无し、

象曰(しょうに いわく)(しばしば ) (かえるの)(あやうしとは)(ぎとして ) (なきとなり )(とが )也、

【書き下し】象に曰く、頻復るの獅オとは、義として咎无きとなり、

六三は陰柔不才不中不正なので、しばしば道を履み違えて過失を生じる。
しかし、今は復のときであり、性善の徳が尽き亡びたわけでもないので、しばしばその過失を悔いて道に復る。
だから、頻復る、という。
しかし、しばしば過ちを犯すのは危険である。
としても、性善の徳を失わず、しばしばその過ちを悔いて道に復るので、道義として咎は免れる。
だから、獅ッれども咎无し、という。

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六三━ ━
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初九━━━

六四( りく しは )(ちゅう ) (こうにして ) (ひとり ) (かえる)

【書き下し】六四は、中行にして独り復る、

象曰(しょうに いわく)(ちゅう ) (こうにして ) (ひとり ) (かえるとは)(もってなり ) (したがうを )(みちに)也、

【書き下し】象に曰く、中行にして独り復るとは、道に従うを以ってなり、

六四はニ爻から上爻までの五陰爻の中の、丁度真ん中の爻にして、ひとり初九成卦の主爻に正しく応じている。
したがって六四は、五陰の中に混じって居ても、他者に流されず、柔正を得て、よくひとり道に従い復る者である。
だから、中行にして独り復る、という。

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初九━━━

六五( りく ごは )(あつし )(かえるに)( なし)(くい )

【書き下し】六五は、復るに敦し、悔无し、

象曰(しょうに いわく)(あつし )(かえるに)(なしとは )(くい )(ちゅうあって ) (もってなり )(みずから ) (かんがえるを)也、

【書き下し】象に曰く、復るに敦し、悔无しとは、中あって自ら考えるを以ってなり、

敦とは篤厚の義である。
今、復の卦の道に復る時に当たって、六五は柔中の徳が有り、君の位に居る。
これは、道に復ることの篤い君である。
だから、復るに敦し、という。
このようであれば、柔中の徳を以って自ら考えて民を懐柔し、国を治めるので、悔が有ることはないものである。
だから、悔无し、という。

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初九━━━

上六(じょう りくは)(まよえり) (かえるに)(きょうなり)(あらん)災眚( さい せい )(もちいて ) (やらば )(いくさを)(おわりに ) (ありて)大敗( たい はい )(およばん)( その) 國君( こく くんに)(きょうなり)(いたるとも)十年(じゅう ねんに)()(あたわ )(せいすること)

【書き下し】上六は、復るに迷えり、凶なり、災眚有らん、用いて師を行らば、終りに大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、十年に至るとも征すること克わじ、

象曰(しょうに いわく)(まようの) (かえるに)(きょうなりとは)(はんすればなり)君道( くん どうに)

【書き下し】象に曰く、復るに迷うの凶なりとは、君道に反すればなり、

この卦は道に復るということから卦名が付けられたのであって、六爻ともにその復ることの遅速得失を以って象義を為している。
このうちの初九は、陽明剛正にして卦の初めに居るので、道に復ることが至って速やかな者であって、このようであるのなら、仁と称され、道と誉められよう。
一方、この上六は、陰暗柔弱にして卦の終りに居るので、道に復ることが至って遅く迷い、遂にはその身を終わるまでも復ることを知らない者とである。
このように初九と上六とは、反対にして、初九は復ることの速やかなることを以って元吉とし、上九は復ることが遅いことを以って、凶とする。
もとより上六は、始めより終りまで、道も仁も知らないのであって、暗い中に始まり、迷いの中に終わる者である。
少しでも仁や道を知っていれば、このような状態を悔い改めようとの念も有るところだが、情欲の海に沈み、暗昧の中を迷い行き、君たるの道に反して、道も義も知らずに生涯を終わる者である。
だから、復るに迷えり、凶なり、という。
そして、爻辞のこれより下の部分は、この、復るに迷えり、の結末を書いているのである。

およそ凶害が来ることは、その形状は種々あるとしても、道を失ってのことより大なるはない。
その道を失う者には、天の災いと人の眚が並び至るものである。
だから、災眚有らん、という。
眚とは自らが原因となって引き起こす災難のことである。

さて、戦争を行うときの道は、公の道を以って私情なるを征し、大義を以って不義なるを伐し、順を以って逆を討ち、正しきを以って邪を誅することである。
このようであるのなら、天も(したが)い人も順うので、令も行われて衆人も服し従う。
その結果として、よく暴を除き、残を(はら)い、敵に克ち、乱を治めることを得るものである。
今、この上六は、大にこれに反している。
まず、自己はすでに道を失い、陰柔暗昧の志行にして、却って無道不義の軍隊を興そうとしている。
これは天に逆らい人に背いているのである。
このようなときには、令も行われず、人民も服せず、その軍隊は必ず大に敗退するものである。
その敗退は、徒に軍隊を喪うのみではない。
必ずやその国君の位にも及ぶものである。
だから、用いて師を行らば、大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、という。
国君とは、その君の国と自身とを共に指すのであって、国を喪い宗廟社稷をも滅するこを戒めているのである。
そのような戦争なのだから、何年費やしても勝てるわけがない。
だから、十年に至るとも征すること克わじ、という。
十とは極数の名にして、日を積み年を重ねて十年の久しきに至るとも、終りに軍功を成し得ることはできない、ということである。

前の卦=23山地剥 次の卦=25天雷无妄

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01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火 

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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