爻辞 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。
上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、履 錯然、敬ノ之 无ノ咎、
【書き下し】初九は、履むこと錯然たり、之を敬すれば咎无し、
象曰、履 錯之敬、以 辟ノ咎也、
【書き下し】象に曰く、履むこと錯れりの敬は、以って咎を辟けしむなり、
履とは、もともとは靴のことを指しているので、足で踏むことの義とし、履み行うことの意とする。
錯然とは、いろんなことが入り混じっていることである。
さて、離は心の卦である。
心というものは形がなく、その善悪の跡は、必ずその人が履み行った様子を観察しなければわからない。
そこで、心と言っても、宗教にありがちな心性空漠上のことには言及せず、行実の上についてのみ教訓を書いたのである。
まず、初爻は、卦の初めにして、人々が事を為す始めの位とする。
もとより初爻は足の位なので、履み行うことの始めである。
およそ人の履み行う事は千差万別にして、錯然として雑乱な事であっても、その良し悪しには道がある。
その履み行う人が、一によくその離の心を柔順にして、その麗き順がうところの道と事とを正しくし、その用い扱うところを柔順に正しくして、これを敬し、これを慎むときには、どのようなことでも咎は避けられるのである。
だから、履むこと錯然たり、之を敬すれば咎无し、という。
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六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、黄離、元吉、
【書き下し】六二は、黄離なれば、元吉なり、
象曰、黄離 元吉、得2中道1也、
【書き下し】象に曰く、黄離なれば元吉とは、中道を得ればなり、
黄とは中央の土の色なので、中の字の義を喩えたのであって、その中というのは忠信の義である。
離とは、卦名である。
さて、まずこの離の卦の象には、火、心、麗(つ)く、明、照、焚、智などがあるが、それらの衆義を悉くに兼ね具えているのが、この卦である。
したがって、この衆義をひとつに合わせて、離の字を以って卦名としたのである。
火についてこれを諭せば、剛強の道を用いて火を侮り、傲慢な取り扱いをするときには、忽ちに必ず焚き滅っするという凶害が有る。
逆に、柔順の道を用いて、敬い慎む取り扱いをするときには、必ず暗がりを照らし、生ものを煮炊きして食事を調えるという大利益が有る。
人の心の火も、これまた同様である。
忠信ならば身を修め家を齊(ととの)え、国天下をも治められるが、忠信ではないときは、身を喪ぼし、家を敗り、国天下をも滅っするものである。
また、離を智とし、麗くとすれば、その智にも麗くにも、それぞれ邪正善悪の二途がある。
これも審らかにわきまえることが大事である。
もとより六二の爻は、離の全卦の六爻の中にても、柔順中正の徳を得て、成卦の主爻となっている。
だから、黄離なれば、元吉なり、という。
この黄の字には、柔順中正忠信文明などの衆義衆徳を悉く具足しているのである。
元吉とは、大善の吉ということである。
したがって、占ってこの卦この爻を得て、その人に黄離の徳が具足しているのであれば、大善の吉であることは勿論である。
しかし、その人が黄離とは言えないような人物であるのなら、大悪の凶になるのである。
繰り返しになるが、黄離であって初めて元吉なのである。
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九四━━━
九三━━━○
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初九━━━
九三、日昃之離、不2鼓ノ缶 而 歌1、則 大耋 之 嗟 凶、
【書き下し】九三は、日昃くの離なり、缶を鼓して歌わずして、則ち大耋のみ之嗟くは凶なり、
象曰、日昃之離、何 可ノ 久、
【書き下し】象に曰く、日昃くの離とは、何ぞ久しかる可きとなり、
日昃くの離とは、日が傾く時といったことである。
大耋とは、言うなれば超後期高齢者のことである。
この爻は内卦の極に居る。
これは、内卦の離の日がすでに終り、久しくなくして上卦の離の日に移ろうとするときであって、要するに、一日が終り、次の一日が来ようとする、という象なのである。
だから、日昃くの離なり、という。
これは、人の老が極まり、死に至ろうとするのに喩えているのである。
この時に遇い、この地に臨んでは、死生共に天命であると悟り、従容自得して、天を楽しみ命に委ねて、消息盈虚の道に安んじて、缶を鼓して歌い楽しむのがよい。
徒に自身が老いたことを憂い歎いても、何の利益もない。
それこそ至愚の極みである。
だから、缶を鼓して歌わず、則ち大耋のみ之嗟くは凶なり、という。
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九四━━━○
九三━━━
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初九━━━
九四、突如、其 來如、焚如、死如、棄如、
【書き下し】九四は、突如たり、其れ来如たり、焚如たり、死如たり、棄如たり、
象曰、突如 其 來如、无ノ所ノ容也、
【書き下し】象に曰く、突如として其れ来如とは、容する所无ければなり、
離は火の卦である。
九四の爻は、下卦が終わって、すでに上卦に移った始めである。
九四もまた陽爻にして不中正であり、寛容の度量がない。
したがって、その性は烈火の如くにして、突如として衝き上がる。
下卦の火が、忽ち上卦に衝き上がり、燃え広がる如くである。
これは、火を以って言えば、下卦より上卦に衝き上がることである。
また、爻を以って言えば、三より四に衝き上がることである。
突然思いがけず、衝き上がって来るのである。
だから、突如たり、其れ来如たり、という。
そして九四は、内外二つの火の間に挟まっているので、焚き立てられる患いがある。
焚き立てられたら死に、死んだら灰となって棄てられる・・・。
九四は陽剛にして不中正の志行があり、その性は陽剛烈火の如くであり、さらには上下二つの火の間に居るので、その凶害は甚だしい。
だから、焚如たり、死如たり、棄如たり、と重ねて深く戒める。
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初九━━━
六五、出ノ 涕 沱若、戚嗟若、吉、
【書き下し】六五は、涕を出すこと沱若たり、戚えいたむこと嗟若たれば、吉なり、
象曰、六五之吉、離2王公1也、
【書き下し】象に曰く、六五の吉なりとは、王公に離きたればなり、
沱若とは涙がどんどん流れる様子。
六五は柔中の徳が有り、尊位に居るわけだが、下に応じ助けてくれる忠臣はなく、孤独にして九四と上九との二陽の剛強者の間に麗=付いている。
これは甚だ危険で恐れるべき勢いである。
しかし、そもそも離明の主として君位に在り、柔順と貞正と文明と柔中と麗と照明と智の義などを悉く合わせ具えて、王公としての徳を身に付けている。
したがって、よく時の勢いを知ることも明らかなので、常に恐惧慎戒して、涙を流すのである。
このように、平生に憂い慮って慎み戒めるときには、自然にその危険な害を免れて吉に至るものである。
だから、涕を出すこと沱若たり、戚えいたろこと嗟若たり、吉なり、という。
上九━━━○
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初九━━━
上九、王用 出征、有ノ嘉、折ノ首、獲 匪2 其醜1、无 ノ咎、
【書き下し】上九は、王用いて出でて征す、嘉きこと有り、首を折つ、獲其の醜きに匪ざれば、咎无し、
象曰、王用 出 征、以 正ノ邦也、獲 匪2 其醜1、大 有ノ功也、
【書き下し】象に曰く、王用いて出でて征するは、以って邦を正すなり、獲にすること其の醜きに匪ずとは、大いに功有るなり、
王とは、六五の爻を指している。
首とは上九の爻を指していて、首領魁首などの義である。
上九の爻は、卦の極に居て、陽剛にして不中不正であり、さらには二五君臣位の外に在る。
これは、遠方に居て、王化に順い服すことなく、自身の剛強を以って我威を振るって人民を残害する横逆者である。
そこで、六五の王は、出でて、上九を征伐する。
だから、王用いて出でて征す、という。
六五柔中の君徳を以って、上九剛強の不中不正な者を征伐するのである。
これは有道を以って不道を征することである。
六五は天に順い人に応じる仁義の師なので、必ずや大いに嘉悦=よろこばしいことが有る。
そのよろこばしいこととして、その魁首を誅戮することを得るのである。
だから、嘉きこと有り、その首を折つ、という。
上九の爻は、人の身に配当するときには首とする。
したがって象を兼ね合わせて、首を折つ、という。
さて、六五陰弱なる者が上九の陽剛を獲にすることは、陰が陽を征することになるが、だとしても、決して醜いことではない。
有道を以って無道を誅し、仁を以って不仁を征し、国を正すのである。
とすれば、侵奪の咎などあるはずがないし、大いに功の有ることである。
だから、獲其の醜きに匪ざれば、咎无し、という。
前の卦=29坎為水 次の卦=31沢山咸
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