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前の卦=58兌為沢 次の卦=60水沢節

59風水渙 ふうすいかん

 

 坎下(かんか)巽上(そんじょう)

八卦の(かん)の上に、(そん)を重ねた形。

(かん)は散らす、渙散、離散、といった意。
この卦は内卦の坎を水とし、外卦の巽を風とすれば、風が水の上を行く様子である。
風が水上を行くときには、必ず水を吹き(ちら)すものである。
だから渙と名付けられた。
また、内卦を自分とし坎を険難とし、外卦を相手とし巽を従うとすれば、自分に険難があり、相手がそれに従うことであって、これは相手が自分の悩みを渙す様子である。
これまもた渙と名付けられた所以である。
また、坎を水とし冬とし氷とし、巽を春とし風とすれば、厳寒の凍氷を春の風が渙散させる様子である。
だから渙と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の九四が内卦に来て二爻に居り坎の主爻となり、六二は外卦に往き四爻に居て巽の主爻となったのが、この風水渙である。
九四が来て二爻に居るというのは、天気が下って坎の雨となった様子であって、六二が往きて四爻に居るのは地気が上って巽の風となった様子である。
天地の気が塞がれているときには、風雨を以ってこれを渙散させるのは、雷雨をもって屯欝の気を解くのと同様である。
だから渙と名付けられた。
またこれを人事に譬えて国家政経の道を判断するときには、先ず天地否の卦の形を国家に道無く閉塞壊乱のときとする。
その打開策として、九四は内卦にやって来て二爻の臣位に居り、剛中の才徳を以って、九五の剛中の君を、同徳を以って相応じ助けるのである。
と同時に、六二が外卦に往き、四爻執政大臣の位に居て、柔正の徳を得て、九五の君と陰陽正しく比し親しみ、よく補佐するのであるる。
これは、二と四との二人の臣が共に力を合わせ、国家の否塞を開通させ、混乱を消散させる様子である。
だから渙と名付けられた。

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(かんは)(とおる)(おう )(いたる)有廟( ゆう びょうに)(よろし)(わたるに)大川( たい せんを)(よろし )(ただしきに)

【書き下し】渙は、亨る、王有廟に※假る、大川を渉るに利ろし、貞しきに利ろし、

※假は、沢地萃雷火豊と同様に、通本ではこの假(「仮」の正字)を使っているが、中州は亻(ニンベン)ではなく彳(ギョウニンベン)だとしている。
しかし、その字はJISにもユニコードにもないので、ここでは※假で代用しておく。

およそ天下の事物は、否塞して難渋するときは、必ずこれを渙散させないといけない。
その渙散させるときをもって、否塞していたのが亨通するのである。
要するに交代生卦法で、天地否から来たとするから、渙は亨る、というのである。

さて、王道の興廃は、まったく人民によるところである。
民衆は国の本である。
民衆の心が集まるときに国は興り、民衆の情が渙散するときに国は廃れる。
民衆を集め、その民衆の心を化服させるには、何を置いてもまず孝である。
その孝の道の高く盛んなものは、祖先に孝なるを以って至極とする。
『論語』学而第一9にも、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳は厚きに帰す、とある。
終わりを慎むとは、親の葬儀や祖先の祭祀を丁重に行うことである。
祖先の祭祀は至誠至敬を以ってすれば、祖霊が集まり、誠敬がないときには、渙散して祖霊は集まらないものとする。
だから水火既済の九五の爻辞には、東隣に牛を殺すは、西隣の禴祭(やくさい)に実あって其の福を受くるに如かず、とあるのである。
禴祭とは質素な祭りである。
形ばかりの大きな生贄を供える祭りよりも、供えは質素だが誠敬がこもっているほうが、福は受けられるものだ、ということである。
したがって、この風水渙の渙散の気運のときには、王者は渙散しようとしている祖先の霊を祭祀で集め、孝を尽くすのが大事なのである。
祖先に孝を尽くすことにより、風水渙の気運で渙散しようとしていた民衆の心もひとつに集まるのである。
だから、王有廟に※假る、という。
有廟とは、廟を(たも)つ、といったニュアンスで、廟に集めた祖霊を渙散しないように有つようにとの教戒が込められている。

大川を渉るに利ろし、というのは、海や大きな川を渉るには、船が必要である。
この卦は、坎の水の上に巽の木の船が浮かんでいる様子でもある。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

天下の否塞を渙散させて亨通させるも、大川を渉るも、共に貞正に行われることが大事である。
邪に事が行われるのであれば、災いを起こし、害を生じるものである。
大川という険難を渉るにしても、貞正に流れや風波を読まずに、いい加減な判断で行けば、身命はどうなるかわからないものである。
だから、貞しきに利ろし、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(かんは)(とおるとは)剛來( ごう きたって ) (しこうして) ()(きわまら)(じゅう) ( えて )(くらいを)(そとに )(しこうして ) (うえに ) (おなじくすればなり)

【書き下し】彖に曰く、渙は、亨るとは、剛来って而して窮まらず、柔位を外に得て而して上に同じくすればなり、

交代生卦法によれば、天地否は天地閉塞して亨通しないわけだが、九四の一陽剛が下り来て九二となり内卦坎の主となり、代わりに六二の一陰柔が上って六四となって宰相の位を外卦に得たのが、この風水渙である。
これは天気の下降と地気の上昇であり、これによって九二は大臣として九五の君と同徳相応じて天下の艱難を渙散させるので、九二剛中の作用は窮り尽きることなく、六四は柔正の徳を以って九五の君と陰陽相比して和同し、君上を補佐して天下の艱難を渙散させるのである。
だから否塞が開かれて亨通するのであって、渙は亨ると云うのである。

(おう )(いたるとは)有廟( ゆう びょうに)王乃( おう すなわち ) (あればなり ) (ちゅうに)也、

【書き下し】王有廟に※假るとは、王乃ち中に在ればなり、

王とは九五の君上の爻を指し、その君上の最も大切に(たも)たなければいけないのが宗廟である。
今、この九五の君は九二剛中の大臣とは同徳を以って相正しく応じ、六四柔正の大臣とは陰陽正しく比して、この両大臣に内外の政を委ね任じ、天下の億兆の艱難を渙散させる。
したがって九五の君が至治の徳を盛んにしてよく宗廟社稷を有持して安泰となるようにすることは、九五の君の剛健中正の至徳によることなのである。

(よろしとは )(わたるに )大川( たい せんを)(のりて )( きに ) (あるなり)( こう )也、

【書き下し】大川を渉るに利ろしとは、木に乗りて功有るなり、

またこの卦は、巽の木を坎の水の上に浮かべている様子であって、大川を渉るには、水の流れもあるので泳ぐのは極めて危険であり、安全を考えれば水に浮かべて進む舟や筏に乗らなけれならず、そうやってこそ無事に対岸に渉り終えるという功が有るのである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく) ( かぜ ) (ゆくは)水上( すい じょうを)(かんなり)先王( せん おう ) (もって )(こうし)(ていに)( たつ )(びょうを)

【書き下し】象に曰く、風水上を行は、渙なり、先王以って帝に亨し廟を立つ、

風は巽の象にして、また巽は季節では春に配されるので春風である。
水は坎の象にして、坎は冬とし氷とすれば、これは厳しい冬の氷凍である。
厳冬の凛冽たる氷凍も、春風の温暖の気を得て解けて流れて波の文を為して渙散する。
この意を込めて、風水上を行くは渙なりと云う。
今、渙散しようとする神霊を(ささ)(まつ)り、これを聚め止めて以って廟を立ててこれを安置すること、これは先王が鬼神に孝の祀りを為した道である。
したがって君子たらん者は、その渙散しようとする神霊を亨祭して聚めて廟を立て、これを安置するべきだと、教える。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)(もちいて ) (すくわれよ)( うま ) (さかんなれば ) (きちなり)

【書き下し】初六は、用いて拯われよ、馬壮んなれば吉なり、

象曰(しょうに いわく)初六( しょ りくの)(きちとは)順也(じゅんなれよとなり)

【書き下し】象に曰く、初六の吉とは、順なれよとなり、

この卦全体の義は渙散の象にして、六爻共に渙散の義なのだが、なお細かに分けると、下卦の三爻は坎の水の体にして、巽の風に吹き渙(ちら)される者とし、上卦三爻は、巽の風の体にして、坎の水を吹き散らす者とする。
とは言っても、巽の卦が坎の卦を渙散(ちら)すということではない。
巽を風とし坎を水とすれば、巽の風が坎の水を吹き渙(ちら)すの義であり、坎を冬とし水とし氷とし、巽を春とし風とすれば、厳寒凛列の水が凍るところに、春風が発し生じて氷も解けて温融に至るという義がある。
この義より転じて、坎の険(なや)みを解消渙散するの義とするのである。

さて、今は渙散の時に当たって、初六は陰柔不才にして、坎の険みの底に居る。
これは身に険みの切なる者とする。
しかし、陰柔不才なので、自ら険みを脱する能力はない。
幸いには、六四の巽の風の主なる者と応の位である。
彼の六四は、よく坎の険みを渙散することを為す者なので、速やかに往きて六四に順いその険みを散らしてほしいと乞い求めるべきである。
そうすれば、六四は必ずよく汝の険みを散らしてくれるというものである。
だから、用いて拯われよ、馬壮んなれば吉なり、という。
馬壮んとは、速やかに往くべきだということである。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二(きゅう じは )(かんのとき ) (はしれば )其机( その きに )悔亡( くい ほろぶ)

【書き下し】九二は、渙のとき其の机に奔れば、悔い亡ぶ、

象曰(しょうに いわく)(かんのとき ) (はしれよとは )其机( その きに )(えるとなり ) (ねがいを)也、

【書き下し】象に曰く、渙のとき其の机に奔れよとは、願いを得るとなり、

机とは上卦巽が、なんとなく(つくえ)の形(下の一陰が足・上の二陽が板)のように見えるからそう言うのであって、九五の爻を指している。
九二は今、渙の時に当たって、剛中の才が有るとしても、同時に下卦坎の(なや)みの主であるを以って、その身に険みの有る者である。
また、九五は剛健中正にして、上卦巽の風の一体に在って、九二の応位の爻である。
これは、よく九二の険みを散らすことができる者である。

さて、机とは、人の()()って身を安んじるところの物である。
とすると、九二の坎の険みの主であるところの者の、当に倚り(たの)んで険みを散じ、身を安んじるべきところこそ、九五の机である。
まして、その険みを渙散させる道は、少しでも速やかであることを善とする。
だから、渙のとき其の机に奔れば、という。
奔とは、走ることが特に速いことを言う。
これは、九二が迅速に九五に応じ往くべきであることを教えているのである。
九五に倚り庇めば、願いどおりにその険みを必ず脱することができ、悔いも亡ぶのである。
だから、悔い亡ぶ、という。
悔いとは身に険みがあることをいう。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三( りく さんは)(ちらさる)其躬( その みを )( なし)(くい )

【書き下し】六三は、其の躬を渙らさる、悔い无し、

象曰(しょうに いわく)(ちらさるとは)其躬( その みを )(こころざし ) (あれよとなり )(そとに)也、

【書き下し】象に曰く、其の躬を渙らさるとは、志外に在れよとなり、

渙の時に当たって、六三は陰柔にして内卦坎の険(なや)みの極に居る。
これは険みがその身に在る者である。
しかし幸いに、外卦六四の巽の風の主が比の位にあるので、その険みを渙散してもらうの象である。
もとより三も四も共に陰柔の爻なので、相比しないのを通例とするが、今は渙散の時にして、六三は坎の水の一体の爻、六四は巽の風の主である。
これを以って四の風より、三の身に在るところの坎の水の険みを吹き渙らすの義があり、両柔相比するの例とする。
これは、その応と比とは異なるが、初六の六四に渙散させられるのと、その義は同じであって、志をひとつにして六四に比し頼れば、渙散してもらえるのである。
だから、其の躬を渙らさる、という。

六三が己の身に険みがあることは、悔いである。
しかし今、六四に拯われることで、その険みの悔いがなくなるのである。
だから、悔い无し、という。

上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六四( りく しは )(ちらす)其群( その むれを)元吉( げん きちなり)(ちらせば)( あり )(おかのごときこと) (あらず )(つねの ) (ところに)1ノ(おもう)

【書き下し】六四は、其の群を渙らす、元吉なり、渙らせば、丘のごときこと有り、夷の思う所に匪ず、

象曰(しょうに いわく)(ちらす)其群( その むれを)元吉( げん きちとは)( こう ) 大也(だいなればなり )

【書き下し】象に曰く、其の群を渙らす、元吉とは、光大なればなり、

六四は柔正を得て、巽の風の主、成卦の主爻として、執政宰相の位に居て、九五の君とは陰陽正しく比し親しんでいる。
これを以って九五の君の寵愛深くして、その信用も絶大である。
これは、渙の時に遇って、天下万民の険みを渙散させるところの大忠臣、光輝く大英雄の爻である。
したがって、大善の吉である。
だから、其の群を渙す、元吉なり、という。
群とは天下億兆の群民のことである。

さて、六四の才徳は、よく天下群民の坎の険みを渙散させるので、群民はその徳に感じ懐き、その集まることは、まるで、そこに丘陵ができたかのようである。
これが、険みを散らして民の心を集める道である。
だから、渙らせば丘のごときこと有り、という。

そして、六四の宰相の為す手段は、尋常の者にはとても思いつかない大英雄の大作用である。
だから、夷の思う所に匪ず、という。

余談だが、私はこの爻辞の中の有丘という文字列が気に入り、学易有丘会と名付けたのである。

上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )(ちらさんとして ) (あせす)( その ) 大號(だい ごうにして ) (ちらさしめば)王居( おう おりて) ( なし)(とが )

【書き下し】九五は、渙らさんとして汗す、其の大号にして渙らさしめば、王居りて咎无し、

象曰(しょうに いわく)王居( おう おりて ) (なしとは)( とが )( せい ) 位也(いなればなり )

【書き下し】象に曰く、王居りて咎无しとは、正位なればなり、

汗とは人の身から出る液体にして、人身を労することが有る時に出るものである。
今、渙の時に当たって、九五は剛健中正の徳が有り、君の位に在って、天下の険みを己が身の険みとし、その険みを渙散しようと、汗を滴らして大いに苦労する君である。
だから、渙らさんとして汗す、という。

そもそも天下の政務は、千万無量であるとしても、その根本は、人を知るに在り、民を安んじるに在る。
しかし今、幸いに六四の賢宰臣がある。
六四は柔正の徳を備え、巽の風の主、成卦の主爻にして、非常の大手段を有し、天下群民の坎の険みを渙す大任に堪える賢宰臣である。
そこで、九五の君は、この六四に大号令を伝え、徳風教化を大いに天下に布き施させるのである。
このようにして、群民の険みを渙す時には、九五は自ら動かず、常のようにそのまま王位に居ても、少しも君位を辱めることはなく、道において咎はないのである。
だから、大号にして渙らさしめば、王居りて咎无し、という。

上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上九(じょう きゅうは)(ちらさんとして) 其血( それ ちあり)(さりて ) 逖出(とおくに いず )( なし)(とが )

【書き下し】上九は、渙らさんとして其れ血あり、去りて逖くに出ず、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(ちらさんとして ) 其血(それ ちありとは)(とおざからしむるなり )(がいに)也、

【書き下し】象に曰く、渙らさんとして其れ血ありとは、害に遠ざからしむるなり、

血とは傷害の喩えである。
水天需の六四、風天小畜の六四に血とあるのと同義である。
まず、上九は渙の卦の極に居て、険みを渙らすことの極にいる者とする。
もとより陽剛の才が有るとしても、不中不正なので、坎の険みを渙らすにも、大いに労苦奔走する者である。
なおかつ、天下の険みは、すべてが同じとは言えない。
必ず大小軽重浅深といった違いがある。
したがって、これを渙らすにも、また必ず大小軽重浅深の違いがある。
その中の、大いに深く重い険みを渙そうとする者は、その労苦することが最も大にして、その成功を得ることが最も難しいものである。
今、この上九の爻は、渙散の卦の至極に居るので、その渙らすべき険難も、当に至極なのである。
そこで、この上九の爻は、君命を奉じ、遠く外国へ往き、険みを渙らすの義とする。
特にその渙らす険みは、最も重く深く大にして、その渙らす者も渙らされる者も、共に傷害を蒙り、血を出すがごとくの時であり事である。
だから、渙さんとして其れ血あり、去りて逖くに出ず、という。

さて、己が傷害を被るのであれば、咎有りとするところだが、陽剛の才力を以って、終にはその渙散の成功を得るのである。
成功を得れば、咎はないに至る。
だから、咎无し、という。

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31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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