爻辞 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○
初六、繫2于金柅1、貞 吉、有ノ攸ノ往 見ノ凶、羸豕、孚 蹢躅、
【書き下し】初六は、金柅に繋がるべし、貞しくして吉なり、往す攸有らば凶に見わん、羸豕、孚に蹢躅たり、
象曰、繫2于金柅1、柔道 牽也、
【書き下し】象に曰く、金柅に繋がるべしとは、柔の道は牽かるべければなり、
この爻の辞は、三節に分かれている。
まず、初めより貞吉までを一節とする。
金とは陽剛の喩え、柅とは糸を紡ぎ巻く道具のことであり、金柅で九二を指す。
さて、九二の金柅に依りかかるべき者は初六にして、これは陰柔の糸である。
小人が君子に仕えることや、妻が夫に仕えることは、糸が柅に巻きつくときのように、陰柔は牽かれ順い仕えることを道とする。
九二陽剛は金柅であり、初六陰柔は糸である。
したがって、初六が柔順の道を以って、固く九二の金柅に繋がり巻きつき、よく貞正を守る時は、吉の道である。
だから、金柅に繋がるべし、貞しくして吉なり、という。
要するに、この一節は、初六の陰柔の小人なり妻なり糸なりが、九二の君子なり夫なり金柅なりに柔順に仕え従うべきことを教えているのである。
続く見凶までの一節は、君子に教え戒める辞である。
この卦は、陰が浸み長じて陽を消し尽くす時の始まりである。
陰が長じて陽が消されることは、五陽の君子の消害されることであり、君子にとっては凶である。
だから、往す攸有らば凶に見わん、という。
往す攸とは、陰が浸むことを言う。
陰が浸むことあれば、陽の君子にとっては凶である、ということ。
要するにこの一節は、初六の陰爻を、今はたったの一本だと侮らず、深く怖れるべきことを示しているのである。
末段の一節は、陰邪小人の利害をいう。
羸とは疲れて弱々しいといった意、豕(いのこ=猪の子)は汚く躁がしく劣った動物にして初六の小人に喩える。
初六は一陰柔で微弱なので、羸豕=疲れて弱々しい豕、という。
孚は、それに違いないことを言う。
蹢躅とは、無節操に飛び跳ねることであって、その勢いが強壮であることを言う。
初六の豕は、今は疲れているかのように弱々しく見えるが、いつかは浸み長じて元気一杯蹢躅として飛び跳ねるに違いない。
だから、羸豕孚に蹢躅たり、という。
これは、今は至って微弱な初六の一陰であっても、放置していれば、ついには大害を引き起こす、という喩えであって、君子はそうならないよう、しっかり防御の備えをせよ、と、深く警鐘しているのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━
九二、包 有ノ魚、无ノ咎、不ノ利ノ 賓、
【書き下し】九二は、包に魚有り、咎无し、賓にも利ろしからず、
象曰、包 有ノ魚、義 不ノ 及ノ賓也、
【書き下し】象に曰く、包に魚有りとは、義として賓に及ぼさざれよとなり、
魚は陰物にして初六の象である。
包とは、九二が初六の魚を包み置くという義である。
魚は美味な物にして、小人が佞言甘語を以って媚び諂うことに喩えている。
これは、沢天夬の九五の辞に、上六の小人の佞媚を山羊に譬えているのと同類である。
そもそも小人が姦邪な佞語甘言を以って美味しそうな魚を勧めるとしても、君子がよく自ら守って、その包みは開かず食べないときには、その毒に遇い、禍いに陥ることはない。
今、九二は剛中の徳を以って、その魚を食べず、包まれたままにして置く。
だから、包に魚有り、咎无し、という。
もし、初六の小人を比し親しみ、その魚を食うときには、忽ちに災害の毒を受けることになるのである。
このような小人の陰邪な媚び諂いの魚は、自分が食べないだけではなく、上四陽の君子の賓客にも勧めるべきでなく、義としてもそんなことをしてはいけないのである。
だから、賓にも利ろしからず、という。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━
九三、臀 无ノ膚、其行 次且、 无2大咎1、
【書き下し】九三は、臀に膚无し、其の行くこと次且たらば、獅ッれども大なる咎は无し、
象曰、其行 次且、行 未ノ牽也、
【書き下し】象に曰く、其の行くこと次且とは、行けども未だ牽かれざればなり、
この卦は初六のみが陰なので、他の五陽爻は共にこの初六の一陰を求める。
そこで、落ち着いてその場に居られない。
まるで、臀部に膚肉がなく、座っているのが痛くて、すぐに立ち上がってしまうように。
だから、臀いに膚无し、という。
しかし九三は、初六と応でもなければ比でもないので、行き求める筋合いではなく、行っても初六が九三に牽かれ親しむようなことはあろうはずがなく、行こうとしても容易には行けず、無理して行こうとすれば危険でもある。
このまま諦めれば、多少の気迷いはあったとしても、大きく咎められることはない。
だから、其の行くこと次且たらば、獅ッれども大なる咎は无し、という。
次且とは、やりたいけどできない、といった意。
なお、臀无膚、其行次且は、沢天夬の九四と同じであり、この部分の詳解は沢天夬の爻辞の書いているので、ここでは省略する。
ちなみに、この天風姤は、沢天夬を上下転倒させた卦であって、天風姤の九三は、逆方向から見ると沢天夬の九四なのである。
このような関係があると、爻辞に同じ言葉を共有する場合があるのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
九四、包 无ノ魚、起ノ凶、
【書き下し】九四は、包に魚无し、凶を起こす、
象曰、 无 ノ 魚 之 凶 、 遠 ノ 民 也、
【書き下し】象に曰く、魚无きの凶とは、民に遠ざかればなり、
魚は初六の一陰を指す。
九二の辞には、包有魚とあるが、これは初六の魚を食べずに、包の中にそのままにしてあることである。
この九四の場合は、その包の中の初六の魚を食べてしまったのである。
九二は初六の比爻にして、九四は応爻なので、共に小人と親しくする接点がある。
それなのに、なぜ、食べる食べないの違いがあるのか。
それは、九二は剛中の徳が有るので、それが陰邪な媚び諂いによることだと察知し、君子ならば食べるべきではないと考えて止まり、この九四は不中正だから、深く考えずに食べてしまうのである。
初六の小人から魚を貰っても、そのまま手を付けず食べなければ問題ないが、食べてしまえば、魚の毒に当たり、小人の害を被るのである。
だから、包に魚无し、凶を起こす、という。
初六の陰邪な魚を食べることで、自ら凶を起こす、という戒めである。
そもそも九四は執政の大臣の位であり、これは君徳を輔け、陰陽を調和せさ、善政を布き、徳化を施して、天下の民に仁沢の恩雨を施すのがその職分であり任務であり、その心術行義は一に公明正大、無私無邪を以って道とするものである。
しかし今、この九四の宰相は不中正なるを以って、忽ちに初六の魚の包みを破ってこれを食べてしまうわけだが、これは姦曲佞邪の小人の甘言巧語を喜び食らうことである。
九四が自分から凶を起こして小人の魚の毒に当たってしまうだけならまだよいが、宰相大臣が毒に当たるのは、自身一人の痛み悩みではなく、天下万民が共に皆、その毒に苦痛悩乱することである。
例えば、邪な企みで近寄って来た小人からの贈り物を喜び、その見返りに民の思いを遠ざけて、その小人に有利な法律を作り、その法律のおかげで民が苦しむことになり、民の心も遠ざかり、国内に不穏な空気が流れる危険がある、ということである。
上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
九五、以ノ杞 包ノ瓜、含ノ章、有ノ隕ノ自ノ天、
【書き下し】九五は、杞を以って瓜を包めり、章を含むべし、天より隕ること有り、
象曰、九五、含ノ章、中 正也、有ノ 隕ノ自ノ天、志、不ノ舍ノ命也、
【書き下し】象に曰く、九五は、章を含めりとは、中正なればなり、天より隕ること有りとは、志、命を舎てざるなり、
杞とは、瓜を包み入れる容器である。
瓜は初六を指す。
瓜は味わい甘美な物にして、小人が佞語を以って媚び諂うに喩える。
九五の君は剛健中正にして、初六小人は種々の甘言、媚びた態度を以って瓜を献上するが、その瓜を包みのまま放置して食べない。
だから、杞を以って瓜を包めり、という。
もとよりこの卦は、陰が陽を消し、小人が君子を害するときが来たことを示す卦である。
そういう時運なので、何事の改革や、事業を始め興すにしても、利ろしくない。
したがって、自己の章(魅力)をも内に含んで発露せず、当面は旧徳を守り、時勢を計り考え、小人を抑え斥けることに全力を傾けるべきなのである。
だから、章を含むべし、という。
さて、この天風姤の卦は沢天夬の転倒卦にして、今、初六の一陰は、沢天夬の上爻の天の位より、この天風姤の初爻の地の位に隕ちて来たという象である。
だから、天より隕ること有り、という。
その初六は今、無位卑下の一陰微弱なる者だとしても、なおよく畏れ戒めて、九五は志を堅持し、よく天命を守り慎んで捨て置かないことである。
上九━━━○
九五━━━
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初六━ ━
上九、姤 其角、吝 无ノ咎、
【書き下し】上九は、姤のとき其れ角なり、吝なれども咎无し、
象曰、姤 其 角、上 竆 吝、
【書き下し】象に曰く、姤のとき其れ角なりとは、上に窮して吝しとなり、
角は、剛強の喩えにして、上九の象である。
今は姤の出遇うという時にして、五陽が共に一陰を求め遇おうとしている。
これは、陰陽の定情である。
ただ、独り上九は、卦の極に窮まって居るので、初六に応も比もないのは勿論だが、その居り処も初六から至って遠く、その姿は見えもせず、声も聞こえない。
したがって、初六に遇おうと求める気持ちはない。
また、上九の爻は、二五君臣の外に居るわけだが、それは郊外の鄙びたところに居て、世情に無関心な者である。
その郊外に居て世俗に無関心な様子を喩えて、角という。
角は、頭から突き出ていて、そこは痛みも痒みも感じない。
このように世情に疎いのは吝ではあるが、そうであるからこそ、初六の一陰の害に交わるという咎もないのである。
だから、姤のとき其れ角なり、吝なれども咎无し、という。
前の卦=43沢天夬 次の卦=45沢地萃
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