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前の卦=46地風升 次の卦=48水風井

47沢水困 たくすいこん

 

 坎下(かんか)兌上(だじょう)

八卦の(かん)の上に、()を重ねた形。

(こん)は、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。
易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

また、内卦の坎は一陽が二陰の間に陥り、二陰のために覆われている様子、外卦の兌は一陰が二陽の上に在り、これも二陽が一陰に覆われている様子である。
また、下の坎は陽卦、上の兌は陰卦であり、陰卦をもって陽卦を覆っている様子である。
また、陰は小人の道、陽は君子の道であり、陽を男子とし、陰を女子とすれば、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子である。
男子が女子に覆われるというのは、男性が色仕掛けで誘惑する女性の言いなりになっていることである。
これらは、困窮の至って甚だしいことである。
だから困と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の六二が往きて上爻に居て、上九が来たって二爻に居るのが沢水困である。
その上六は兌沢の主爻であり、九二は坎水の主爻である。
これは兌沢より坎水が漏れ下り困窮している様子である。
天地否は否塞して通らないことだが、今、僅かに剛柔交代すれば、忽ちこのように困窮してしまう。
だから困と名付けられた。
また、天地否は塞がるという意の卦であっても、乾の純陽が上に位置し、坤の純陰が下に居る。
それが今、妄りにひとたび交わり動いただけで、忽ちこのように剛明なる者が柔暗なる者に覆われてしまう。
だから困と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(こんは)(とおる)(ただしかるべし)大人( たい じんは ) (きちなり)( なし)(とが )(ありとも) (いうこと) ()(しんぜられ)

【書き下し】困は、亨る、貞しかるべし、大人は吉なり、咎无し、言うこと有りとも信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有りとも信ぜられじ、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(こんは)(ごう ) 揜也(おおわるるなり )

【書き下し】彖に曰く、困は、剛、揜わるるなり、

揜われるとは覆われると同じ意、この卦は、陽が陰に覆われ、、剛は柔に覆われ、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子であって、これでは困ったことになるばかりである。

(けんにして ) (もって ) (よろこぶ)(くるしんで ) (しこうして ) (ざるは )(うしなわ)( その ) (ところを)1ノ(とおる)其唯( それ ただ ) 君子( くん しか )乎、

【書き下し】険にして以って説ぶ、困しんで而して其の亨る所を失わざるは、其れ唯、君子か、

この卦を構成する坎は険難、兌は説(=悦)びだから、困の険難の時に遇っても従容和楽してこれに処す様子である。
困窮してもよくその正しき道をうしなわず、いつか困が去って亨る時が至るのを和楽して待つことが大事なのであって、それができるのは唯一君子だけであろう。

(ただしくせよ)大人(たい じんなれば ) (きちなりとは)(もってなり)( ごう ) (ちゅうなるを)也、

【書き下し】貞しくせよ、大人なれば吉なりとは、剛中なるを以ってなり、

この卦の九二と九五の陽剛の爻は、共に中を得ているので、大人の徳が有り、困苦厄窮の時に当たって、よく貞正の道を守って、ついには吉を得るのである。

(ありとも ) (いうこと ) (じとは )(しんぜられ)(たよれば )(くちに ) (すなわち ) 竆也(きゅうするなり )

【書き下し】言うこと有りとも信ぜられじとは、口に尚れば乃ち窮するなり、

およそ人は、困窮厄難の時に遇うと、必ず有力有福の人に向かって、その困窮をなんとか緩めて貰おうと、耳を伏せて尾を垂れて、恥を忍び辱めを堪えて憐みを乞い、思いつく限りのことを言おうとするが、そんなことをしても、まず心から信じて援助して貰えることはなく、いいように利用されるだけである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)(さわ ) (なきは)(みず )(こんなり)君子( くん し ) (もって ) (いたし )(めいを ) ( とぐ )(こころざしを)

【書き下し】沢、水无きは、困なり、君子以って命を致し志を遂ぐ、

沢に水がないのが困である。
水が欲しくて沢へ行ったら、涸れていて水が汲めず、困っているのがこの卦である。
君子であるのなら、望みは捨てないとしても、最悪の場合は運命だと諦めることも覚悟しておくべきである。
運がよければ雨が降って水を得られるかもしれないが、自分ではどうすることもできない状況である。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)(いさらい ) (くるしみ)株木( しゅ ぼくに)(いる )幽谷( ゆう こくに)三歳( さん さいまでも) ()覿()

【書き下し】初六は、臀株木に困しみ、幽谷に入る、三歳までも覿ず、

象曰(しょうに いわく)(いるとは)幽谷( ゆう こくに)(ゆうにして ) (ざればなり ) (あきらかなら)也、

【書き下し】象に曰く、幽谷に入るとは、幽にして明らかならざればなり、

昔は「しり」のことを「いさらい」とも言った。
およそ人が立っているときは、臀部は身の中程にある。
そこで、沢天夬の卦では九四の爻にて臀を言い、天風姤の卦にては九三の爻にて臀を言う。
これは、天風姤も沢天夬も、共に人が立って行くことを前提にしているからである。
これに対して、この沢水困の卦にては、臀を初爻にて言う。
およそ、人が座っているときは、臀が底下に在る。
そもそも困は、鉢植えの木を象った文字にして、根底幹枝共に畏縮して、自由に伸びることができない様子である。
株とは、土の上に在る木の根である。

さて、困の時に当たって、初六は陰柔不才にして不中不正であり、なおかつ下卦坎の険みの底に陥って出ることができない。
これは、木の株に座り、その臀部を(やぶ)るようなものである。
だから、臀株木に困しみ、という。
また、上卦の兌は谷とし幽とする卦であり、下卦の坎も穴とし幽とする卦である。
その上、陰爻もまた穴を意味する。
これは、幽谷に入っている様子でもある。
だから、幽谷に入る、という。

その幽谷に入ってしまったような険難に陥ると、初六は陰柔不才なので、自らその険みを脱し、困を免れる力がないどころか、不中不正なので思慮が浅く、容易に脱出の手がかりをすら、明らかに見出せない。
また、易で時間の経過を考えるときは、一年目が初爻、二年目が二爻、三年目が三爻といった具合になる。
このように初爻から数えると、三年目は三爻で、三爻はまだ下卦坎の険難の卦の一体である。
したがって、少なくとも三年目までは、坎の険難を脱出する手がかりすら見出せないのである。
だから、三歳まで不覿ず、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二(きゅう じは)(くるしむ)酒食( しゅ しょくに)朱紱( しゅ ふつ ) (まさに ) (きたらんとす)(よろし )(もちうるに)亨祀( こう しを )征吉(ゆくは きちなり)( なし)(とが )

【書き下し】九二は、酒食に困しむ、朱紱方に来たらんとす、亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(くるしむとは)酒食( しゅ しょくに)(ちゅうにして ) (あるとなり ) (よろこび)也、

【書き下し】象に曰く、酒食に困しむとは、中にして慶び有るとなり、

酒とは宴楽の義、食とは頤養の義を指し、心を楽しませることを酒に喩え、身を養うことを食に喩えているのである。
九二は、剛中の才徳は有るが、内卦坎の険みの主にして、上に応爻の援助はない。
これは、未だ君に知られず、君に遇されていない者である。
したがって、眼前に困苦の民がいても、彼らを賑わし養い、宴楽させることができない。
これが九二の君子の困しみである。
だから、酒食に困しむ、という。

この時に当たって、九五の応位も、また困の時の君上にして、輔弼する臣がいないので、応位の九二に援助を求めて来る。
そもそも、この九二九五は、共に剛中なので、同徳相応じ、九五の君が九二の臣に輔けられる義がある。
そこで、九五は九二に援助を求めて招聘する。
朱紱とは天子の飾りにして、九五君位の爻を指す。
だから、朱紱方に来たらんとす、という。

九二が九五の招聘に応じ、剛中の徳を以って仕える時には、必ずその徳を庶民に施すことを得て、その従来の志の困窮するところのことは、ひとときに脱することを得るという慶びが有る。
なおかつ、二五が同徳相応じるところの孚信を以って、誠敬を尽くして亨祀する時には、神人共に感じ(いた)って必ず多福を降し来たし、庶民の困の難みを救済することを得るのである。
したがって、招聘に応じて九五に征き仕えることが一番よいのであって、九二と九五が陰陽正しく応じていなくとも、咎はないのである。
だから、亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三( りく さんは)(くるしみ)(いしに)(よる )(しつ )(りに )(いりて)其宮( その みやに)()()其妻( その つまを)(きょうなり)

【書き下し】六三は、石に困しみ蒺※蔾に據る、其の宮に入りて、其の妻を見ず、凶なり、

象曰(しょうに いわく)(よるとは)(しつ )(りに )(のるなり)(ごうに)也、(いりて)其宮( その みやに)(ずとは)()其妻( その つまを)() (しょうなるなり )

【書き下し】象に曰く、蒺※蔾に據るとは、剛に乗るなり、其の宮に入りて、其の妻を見ずとは、不祥なるなり、

※蔾は、通本ではこの字だが、中州は草冠に梨という字で、茨など棘がある植物のこととする。
この字(図形として作成)→
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、通本の蔾で代用しておく。

石とは九四を指し、蒺※蔾とは九二を指す。
宮とは六三の居所、妻とは上六を指す。

今、困の時に当たって、六三は陰柔不才、不中不正にして、下卦坎の険みの卦の極に居る。
その上、応爻の援助はなく、九四の陽剛に承け、九二の陽剛に乗っている。
したがって、前に進もうとすれば九四の堅剛な石に遮られて進めず、後ろに退こうとすれば、九二の蒺※蔾の鋭利な棘に刺され阻まれて退くこともできず、進退共に窮まっているのである。
これは、困窮の至って甚だしい者である。
だから、石に困しみ蒺※蔾に據る、という。
まして六三は、九四の陽に承けると九二の陽に乗るという険みが有るだけではない。
自身の居所の六三の位もまた、坎の険みの極にして、あまつさえ上六の応位の妻が有るとしても、これもまた陰柔にして相応じてはいないので、その妻に会えない。
したがって、安んじるところがなく、援助もない。
困の至極、吉祥の真逆の不祥にして凶の最大なる者である。
だから、其の宮に入りても其の妻を見ず、凶なり、という。

上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九四(きゅう しは )(きたること) 徐々( じょ じょたり)(くるしむ)金車( きん しゃに)(やぶさかしけれども ) (あらん )(おわり)

【書き下し】九四は、来たること徐々たり、金車に困しむ、吝しけれども終り有らん、

象曰(しょうに いわく)(きたること) ( じょ  ) (じょたりとは)(こころざし ) (あればなり )(したに)也、(いえども )( ずと )(あたら )(くらいに)(あるなり ) (くみすること)也、

【書き下し】象に曰く、来ること徐々たりとは、志、下に在ればなり、位に当たらずと雖も、与すること有るなり、

金とは陽剛の喩え、車とは進み行くことの喩えであり、金車とは九二の陽剛を指す。
もとより九四は、執政宰輔の位に居て、陽剛の才が有るとしても、今は困の時に当たって、一人を以って天下の困を救済することはできない。
そこで、在下の賢者を得て、これと共に力を合わせて、天下の困を救済しようと志す。
しかし今、在下の剛明の才徳がある者は、九二以外にはいない。
その九二は下卦坎の険みの主にして、その身も険みに陥っているので、自家の困の険みも甚だしい。
なおかつ九二と九四の爻とは、応でもなければ比でもない。
象伝の「位に当たらず」というのこ、この九二と九四が応でも比でもないことを云っている。
したがって、呼んでも来ることは徐々として遅く緩い。
これは九四の困むところである。
だから、来たること徐々たり、金車に困しむ、という。

そもそも九四は執政の任に当たり、宰相の職に居るわけだが、このような天下の困厄のときに遇って、慌てて救済を他人に求め、補佐を在下の賢者に乞い、困を救済しようとするのは、普段からの備えを怠り、安易なことばかり考えていたからである。
このようであれば、天下後世から(いや)しめ笑われるものである。
九四は不中正なので、このような謗りを免れないのである。
しかし、一に天下のために賢者を求め、能力のある者に任せるのだから、時間はかかっても九二と九四と与してその事業を成功させることはできる。
だから、吝しけれども終り有らん、という。

上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )(はなきられ ) (あしきられ)(くるしむ)赤紱( せき ふつに)(すなわち ) (おもむろに ) (あらん )(よろこび)(よろし )(もちうるに)祭祀( さい しを )

【書き下し】九五は、劓れ刖れ、赤紱に困しむ、乃ち徐に説び有らん、祭祀を用うるに利ろし、

象曰(しょうに いわく)(はなきられ ) (あしきらるとは)(こころざし ) (いまだ/ざるなり)()也、(すなわち ) (おもむろに ) (あらんとは ) (よろこび)(もってなり ) 中直(ちゅう ちょくを)也、(よろしとは ) (もちうるに)祭祀( さい しを )(うくればなり )(ふくを)也、

【書き下し】象に曰く、劓れ刖るとは、志、未だ得ざるなり、乃ち徐に説び有らんとは、中直を以ってなり、祭祀を用うるに利ろしとは、福を受くればなり、

(はなきら)れとは、上に在る者の困難の喩えであって、君上の困である。
(あしきら)れとは、下に在る者の困難の喩えであって、下民の困である。
赤紱(せきふつ)は諸侯の飾りにして、九二を指しての喩えである。

今、困の時に当たって、九五は君の位に居る。
そもそも人君の主たる務めは、天下の憂いを以って自身の憂いとし、天下の困苦を以って自身の困苦とすることである。
これを以って、上下の困難厄窮を一身に集め、自身が刑罰を受けているかのように苦しむ。
だから、劓れ刖れ、という。

もとより九五の爻は、剛健中正の徳が有るとしても、今、天命困窮の時にして、とても一人では天下億兆の困を救済できない。
そこで、九二の賢者が下に在るので、援助を求めようと志すが、共に陽剛なので相応じ難く、なかなか得られない。
これが九五の(なや)むところである。
だから、赤紱に困しむ、という。

しかし、九五の君からすれば、九二以外に、応位の求めるべき者はいないので、九五は剛中の直徳を以って心を専らにし、志をひとつにし、礼を厚くして、懇ろに九二の賢者を求めるべきである。
そうすれば、九二もまた剛中にして同徳相応じる象義があるので、時間はかかるが、必ずや来て九五を補佐してくれる。
九二が来て、君臣が徳を合わせれば、天下の困窮を救済できる。
困窮から済われれば、大いに悦び楽しめる。
だから、乃ち徐に説び有らん、という。

さて、天下に君たらん人は、天下の困窮険難を見ては、一日片時も徒然として空しく過ごしてはいけない。
千慮百計して、以って困を済う方策を求めることは勿論であるが、粉骨砕身して人事人力を尽くしても解決しないことは、天地神明に祈り求めるべきである。
要するに、人事を尽くすだけでは足りないところを、祭祀を行い、天地神明に祈るのであって、そうすれば必ずや福を受けられるのであり、今がその時なのである。
だから、祭祀を用うるに利ろし、という。

上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六(じょう りくは)(くるしむ)葛藟( かつ るい )、于臲卼( げっ こつに)(ここに ) (うごけば ) (くいあり)(あれば )(くいあらたむること ) 往吉(ゆきて きちなり)

【書き下し】上六は、葛藟、臲卼に困しむ、曰に動けば悔いあり、悔いあらたむること有れば、往きて吉なり、

象曰(しょうに いわく)(くるしむとは)葛藟( かつ るいに)(いまだ/ざればなり )(あたら)也、(うごけば ) (くいありとは)(あれば )(くいあらたむること)(きちの ) 行也(みちたればなり )

【書き下し】象に曰く、葛藟に困しむとは、未だ当たらざればなり、動けば悔いありとは、悔いあらたむること有れば、吉の行たればなり、

葛藟は蔓を延ばす植物のこと。
臲卼は不安定で危険な様子。

上六は、困の全卦の至極に居て、陰柔不才不中にして応の位の援助もない。
したがって、日夜共に居所に困窮して安んじることができない。
まるで、葛藟が高く樹上へ延び上がったように、不安定で危険である。
喩えれば、上六は陰柔の葛藟にして弱力なので、己が身は自立できない者である。
とすると、九五の剛木に比し絡みつき、己が身を安定させるべきである。
そして、その分を守り、そこに止まり居ればよいのだが、陰柔小人の常として、時や道をわきえることなく、坐の下が暖まれば次第に欲を強くし、どんどん蔓を延ばし、ついには九五の木を離れて、なおも蔓を延ばし続け、手を出し足を垂れて、強い風に吹き動かされ、極めて不安定で危険な状態になるのである。
だから、葛藟、臲卼に困しむ、という。
象伝に「未だ当たらざればなり」とあるのは、時や道をわきまえていないことを云う。

今、この困難危険な状態のときに、思慮工夫をしてなんとか打開しようとしても、所詮は陰柔不才であり、自力ではどうすることもできない。
付け焼刃で何かやろうとしても失敗する。
まして、応爻の助けもない。
したがって、妄りに動けば、悔いる結果になるだけである。
だから、曰に動けば悔いあり、という。

そこで上六は自らの分を省みて、元来陰柔不才にして独立する能力がないことを自覚し、九五の大木に伏し従い居ることが吉の道に行くことなのである。
だから、悔いあらたむること有れば往きて吉なり、という。
往きてとは、延び過ぎた手足を曲げ縮め、九五を凌がないようにし、深く引き退き、慎み惧れてその分を守り、九五の比の大木の恩を忘ないよう、改心することを指す。

前の卦=46地風升 次の卦=48水風井

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01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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