学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など

Eメール究極の易経解説究極の易経解説トップへ

前の卦=45沢地萃 次の卦=47沢水困

46地風升 ちふうしょう

 

 巽下(そんか)坤上(こんじょう)

八卦の(そん)の上に、(こん)を重ねた形。

(しょう)は進み昇るという意。
易位生卦法によれば、もとは風地観から来たものとする。
風地観は、巽の大木が坤の地の上に在り、その大木を見上げている様子だが、この地風升はその巽の大木が下って坤地の中にある形である。
これは地中に木を生じる様子である。
しかし、そんなことはあるわけがない。
したがって、その大木の種子が地中に蒔かれた様子であって、蒔かれた種子はやがて発芽して上へ上へと成長し、いつか大木となる。
だからその上へ上へと成長することを期待し、進み昇るとして、升と名付けられた。

また、巽を風とし、坤を地とすると、風が地中にある様子だが、風は本来地上にあるものであって、今は地中にあるとしても、洞窟がそうであるように、いつか必ず地上に出で上るものである。
だから升と名付けられた。

また、運移逆生卦法によれば、初六の一陰は成卦の主であり、坤地の上へ発し上ろうとしているのであって、昇り上がればいつか二陽爻の上に出て地沢臨となる。
ものが下に在って、未だ上らざるときは、進み上ることを臨むものである。
すでに進み上って地沢臨となったときには、上ることを達成したことになる。
この地風升は、上るという意ではあるが、すでに上り進んだということではなく、これからまさに上ろうとしている様子である。
だから升と名付けられた。

また、巽は従、坤は順だから、従順な様子である。
多くの場合、従順であればいつか必ず上り進み、逆らえばそれまでである。
だから升と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(しょうは)元亨(おおいに とおる)(よろし)(みるに)大人( たい じんを)(なかれ)(うれうる)(みなみに ) (ゆきむかえば ) (きちなり)

【書き下し】升は、元いに亨る、大人を見るに利ろし、恤うる勿れ、南に征きむかえば吉なり、

今、上り進むときに当たって、自分は巽にして従い、相手は坤にして順(したが)う。
このようであれば、自分も相手も互いに滞り支障を来たすことはなく、その事は大いに通じるものである。
また、九二剛中の才徳をもって六五柔中に応じ助けわけだから、これもまた大いに亨通することを示唆する。
だから、元いに亨る、という。

そもそもその道で上り進むことは、大人を見るのでなければ難しいものである。
例え自分が巽順でも、相手が小人だったら無意味である。
だから、大人を見るに利ろし、という。

恤うる勿れというのは、今すぐに願いが叶わなくても焦らないようにと、慰めているのである。
上り進むことは、誰しもが速やかであって欲しいと願うものだが、一朝一夕にして成り遂げることは、およそ不可能である。
地中に蒔かれた種子も、時が至れば、必ず地上に芽を出すように、よく巽順であれば、後日必ず時が至り、上り進むものである。

南に往きむかえば吉なり、というのは、初爻を北、上爻を南とするからであって、初六が二陽剛を越えて上=南に往くから、そう言うのである。
なお、南方は離明の方位であり、その道を上り進みたいと欲するのなら、必ず明の道に向かい進むようにという教えの喩えである。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(じゅう ) (もって )(ときを ) (のぼるは)(しょうなり)

【書き下し】彖に曰く、柔、時を以って上るは、升なり、

柔は初六の一陰を指す。この初六は内卦巽の主体であって、地風升の上るの主、成卦の主である。
運移生卦法によれば、この初六はいつか時を得て上り進んで二陽爻の上に出て地沢臨となる、ということから、この卦は升と云うのである。

(したがって ) (しこうして ) (したがう)( ごう ) (ちゅうにして ) (しこうして ) (おうあり)是以(これを もって ) 大亨(おおいに とおる)

【書き下し】巽って而して順う、剛中にして而して応あり、是を以って大いに亨る、

八卦の組み合わせで解釈すれば、巽と坤だから、巽従(したが)ってさらに坤順(したが)うという徳がある。
また、爻象を以って観れば、九二の臣が剛中の才徳有って、よく六五の君に正しく応じて公室を補佐している様子である。
このような功徳が有れば、大いに亨るものであって、大の字を以って元亨の元に代えて、わかりやすく解説しているのである。

(よろし )(みるに )大人( たい じんを)(なかれとは ) (うれうる)(あらんとなり ) (よろこび)也、(みなみに ) (ゆきむかえば )(きちなりとは)(こころざし ) 行也(おこなわれんとなり)

【書き下し】大人を見るに利ろし、恤うる勿れとは、慶び有らんとなり、南に征きむかえば吉なりとは、志、行われんとなり、

初六の一陰爻が二陽爻を越えて地上へ上り進む時には、地沢臨の卦となるわけだが、その臨の卦となる時が、すなわち上り達することである。
臨には「臨み視る」という義があり、これは上より下を視ることであり、上下相臨み視ることであり、下より上を望み視る義もある。
我より大人を見ようと望むことは、臨を乞い望むことである。
慶び有らんとは、その臨となって大人に臨まれる時のことを云うのである。
志が行われるとは、臨と成り遂げた時を云う。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)地中( ち ちゅうに ) (しょうずるは)( きを )(しょうなり)君子( くん し ) (もって ) (じゅん ) (とくあって ) (つんで )(しょうを ) (もって ) ( こう ) (だいにすべし)

【書き下し】象に曰く、地中に木を生ずるは、升なり、君子以って順徳あって小を積んで以って高大にすべし、

地中に木を生ずるというのは、木の種子を地中に蒔き植えることである。
蒔かれた種子はは坤上の養育の徳によって、日夜に発生の気を受けてやがて殻を割って芽を出し、茎を伸ばして枝を生じ、葉を茂らせ、花を咲かせ、果実を結ぶに至るのであって、これが升進栄達の時である。
これらの義は全く坤土順徳が養育して生じ成すの大功徳である。
そこで君子はこの卦の象を観て、まず己が順徳の度量を、限りない大地のように広大にして、種子という小さなものが、大切に育てれば高く聳える大木となるように、天下億兆の衆生を順徳を以って、国家を支える梁や棟の材となるように養育するべきである。

『論語』為政第二4には、「吾十有五にして学に志す」とあるが、まさにこの卦の象によるものである。
八卦と数の関係により、坤には基本的に八という数が配されているわけだが、陰すなわち偶数の極みとして十も配されていて、五は巽に配される数である。
したがって十有五は、孔子がこの地風升の象を観て読み取った年齢であって、種子を蒔くことを学問に擬え、将来国家を支える梁や棟の材となることを志すときだとして、学に志す、と言ったのである。
続く「三十にして立つ」は火地晋、「四十にして惑わず」は雷地予、「五十にして天命を知る」は風地観、「六十にして耳に順う」は水地比、「七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」は山地剥に由来している。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六(しょ りくは)(まこととせられて ) (のぼる)大吉( だい きちなり)

【書き下し】初六は、允とせられて升る、大吉なり、

象曰(しょうに いわく) (まこととせられて ) (のぼる) ( だい ) (きちなりとは)(うえと ) (ごうすればなり ) (こころざしを)也、

【書き下し】象に曰く、允とせられて升る大吉なりとは、上と志を合すればなり、

初六は升り進むの時に当たって、下卦巽順の主、成卦の主、進み升るの主爻である。
今は升の時なので、初六は、六五の君のところに升り、朝覲(ちょうきん)するへぎであるが、柔弱巽従の主なので、直上の九二の諸侯に比して居る。
九二は陽剛にして権勢盛大である。
したがって、このまま九二に比従し、遂に六五の君所に升り朝覲することを忘れる時には、升の卦の義に違い、甚だ凶である。
もとより初六は、九二に密比するを以って、衆爻より、九二に比従するかと疑われる。
しかし、初六は成卦の主にして、升り進むの主爻なので、決して六五の君所に升り朝覲することを忘れ怠る者ではない。
これを以って、六五と陰陽正しく応じている九二と志を合わせて六五の君所に升り朝覲すれば、終に衆爻の疑い散じて、その忠信の志を允とされるのである。
これは升り進むの大いに善なる者である。
だから、允とせられて升る、大吉なり、という。

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二(きゅう じは )(まことあれば ) (すなわち ) (よろし )(もちうるに )(やくを)( なし)(とが )

【書き下し】九二は、孚あれば乃ち禴を用うるに利ろし、咎无し、

象曰(しょうに いわく)九二(きゅう じの )(まこと)(あるなり) (よろこび)也、

【書き下し】象に曰く、九二の孚、喜び有るなり、

升り進むの時に当たって、九二は剛中の才徳を以ってして、六五柔中の君に相応じている。
これは、宜しく六五の君所に升り朝覲し、国家を輔弼して、忠信誠実の孚を尽くすべき爻であることを意味する。
と同時に、九二が忠信の孚を以ってしてするべきは、神明を祭ることである。
そもそも、よく孚有って神明を祭る時には、供え物が豊厚でなくても、神明は必ず感じ(いた)って、咎のないものである。

この卦は、二五陰陽相応じていて、五は天位に在るので神明の象とし、二は下に位するので祭主の象である。
これは沢地萃の六二、沢水困の九二とその義は同じことである。
ただし、この地風升の卦の中にては、ただ九二九三の爻のみ陽剛にして、その勢い甚だ強盛である。
また、六五の君と六四の宰相とは、共に陰柔にして、その威は軽く権も薄い。
これを以って、ややもすれば九二の剛臣は、上に叛いて忠信の孚を尽くさない惧れ疑いもある。
としても、人はこれを欺くとも、神明は欺かないものである。
まして神明は、忠信至誠でなければ、感じ応じ来り格ることはないのである。
そして、神明も感じ格るような忠信至誠の人であれば、君に叛くことがあるはずがない。
したがって、これに誠敬を用いて神明を祭る如くにして、君に叛くことがないようにと諭しているのであって、叛かなければ九二は六五と共に喜び合えるのである。
だから、孚あれば乃ち禴を用うるに利ろし、咎无し、という。

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三(きゅう さんは)(のぼるがごとし)虚邑( きょ ゆうに)

【書き下し】九三は、虚邑に升るがごとし、

象曰(しょうに いわく)(のぼるとは)虚邑( きょ ゆうに)(なければなり )(ところ )(さまたげる)也、

【書き下し】象に曰く、虚邑に升るとは、礙げる所无ければなり、

今、升り進む時を得て九三の爻は剛明の才力が有るので、六五の君に升り朝覲することは、上に一陽剛の抑え阻む者もないので、恰も虚邑(人のいない村)に進み行くが如くに容易い。
だから、虚邑に升るがごとし、という。
ただし、この九三の爻もまた下卦の極に居て、陽剛にして勢い強く過剛不中なので、その勢いに任せて富強を(たの)み、六五の君を犯し凌ごうとする志が有る時もある。
その時には、大いに咎が有るものである。
そこで、六五に升り朝覲することが最も容易であることを教え示すことで、決して君に叛くことがないようにと諭しているのである。

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六四( りく しは )王用( おう もちいて ) (すすめまつる)岐山( き ざんに)(きちなり)( なし)(とが )

【書き下し】六四は、王用いて岐山に亨る、吉なり、咎无し、

象曰(しょうに いわく)王用( おう もちいて ) (すすめまつるとは)岐山( き ざんに)(じゅんなればなり )(ことに)也、

【書き下し】象に曰く、王用いて岐山に亨るとは、事に順なればなり、

王とは周の先王のことを指すのだが、個人は特定していない。
岐山とは周の故郷であって、ここで亨祀するのは殷の世の諸侯だった時のことである。
諸侯でありながら王と称するのは、周の天下になった後に、先君をみな王と追号したからである。

もとよりこの爻の辞は、周公旦(文王の子で、殷を滅ぼした武王の弟、孔子の生国魯の国祖)が周の天下になった後に書いたものであり、王と追号するの礼を以ってこれを王と称したのであって、実際は殷の臣にして方伯だったときの事なので、六四の臣位の爻の辞としているのである。

さて、この六四の先王は柔順にして正を得ているので、上は君家に順にして下は万国万民に順であると共に、どのような事にも順をもって行い、よく天子を奉載し、諸侯を懐柔し、賢哲を尊尚し、己を虚しくして誠を尽くす者であり、なおかつ升の時に当たってはその誠実の至りが神明に升り達する者である。
だから、王用いて岐山に亨る、吉なり、咎无し、という。

上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六五( りく ごは )(ただしくして ) (きちなり)(のぼらしめん )(かいに)

【書き下し】六五は、貞しくして吉なり、階に升らしめん、

象曰(しょうに いわく)(ただしくして ) (きちなり)(のぼらしめんとは )(かいに)(おおいに ) (えるとなり ) (こころざしを)也、

【書き下し】象に曰く、貞しくして吉なり、階に升らしめんとは、大いに志を得るとなり、

六五は升の時に当たって、柔中の徳を以って君位に居る。
これは位階の極にして、更に升り進むべきところはない。
とすると、後は諸侯を升って来させるだけである。
諸侯を升って来させるとは、諸侯が来服して升り朝覲することを指す。
この時に当たって六五の君は、柔中の志を得てよく己を虚しくして、その徳を貞正にして諸侯と接すれば、外藩や遠くの諸侯も悉く来て陛階に升り来服するものである。
だから、貞しくして吉なり、階に升らしめん、という。

そもそもこの卦は、全体は二陽四陰にして、その二陽は下卦に在る。
したがって、上に威権は薄く、下に勢力盛んな時である。
これを以って、二三の両陽剛が君家を軽んじ君所に朝覲しないことを恐れる。
この時に臨んでは、六五の君は、勉めてその徳を貞正にして、天下に待するのがよい。
そうしていれば、外藩の諸侯、遠くの強臣も、自然にその徳に感じ化して、君所に升り、朝覲するものである。
吉とは、九二と九三の両陽剛が升り来て朝覲することを指す。
升階とは、九二と九三の方伯等が朝覲して玉階に升ることを指す。

上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六(じょう りくは)(くらし )(のぼるに)(よろし)(ざるの)(やま )(つねあるに)

【書き下し】上六は、升るに冥し、不息るの貞あるに利ろし、

象曰(しょうに いわく)(くらくして ) (のぼるに)(あるは)(うえに)(しょうして ) (ざるなり)( とま )也、

【書き下し】象に曰く、升るに冥くして、上に在るは、消して富まざるなり、

上六の爻は、升り進む時に当たって卦の極に居て、なおも升り進もうとする。
これは、名利に耽って止まることを知らず、貪って飽くことのない者である。
このようなことでは、いつか大なる敗れに遇い、すべてが水の泡に消えて、富も失うことにもなろう。
そもそも升るの道は、その節に止まるを貴しとする。
それでもなお厭うことなく升り進んで止まり休むことを知らないのならば、それは升の道に冥いからである。
だから、升るに冥し、という。
升るに冥ければ、悔吝に至り凶害を得ること必定である。
常に貞正を心がけ、止まる時を知ることが大事である。
だから、不息るの貞あるに利ろし、という。

前の卦=45沢地萃 次の卦=47沢水困

究極の易経解説 メニュー

01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

究極の易経解説トップへ
このページのトップへ

学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など
最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
Copyright Heisei12th〜Reiwa2nd(2660〜2680) (C)2000〜2020 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します