危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 皇紀と古事記日本書紀のヤバイ関係!
このページは動画「危険な古代史〜危険な古代史〜古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け1」を文章化したものである。
西洋人の視点で考える現代の歴史学とは異なり、奈良時代の日本人の視点で読み解くものなので、文章だけでは伝わりにくい面もあり、動画にしたのが、動画で観ただけでは伝わりにくい面もあるので、動画では端折った部分も加えて、ここに文章化した。
なお、読みやすさを考慮して、漢字は原文も含めて可能な限り新字体を使い、引用文にある歴史的仮名遣いもなるべく現代仮名遣いに直すことにした。
数字も本来ならばすべて漢数字を用いるべきなのだが、横書きで漢数字は読み辛い面もあるので、前後の文脈を勘案いつつアラビア数字に置き換えた箇所もある。
〇 皇紀を使うと見えないものが見えて来る!
日本には、日本の始まりを書いた『古事記』『日本書紀』という書物がある。
その『古事記』『日本書紀』に書かれた歴史はどこから真実なのか?
神武天皇の実在が疑わしいのは言うまでもないが、継体天皇以降の、聖徳太子、大化の改新、壬申の乱あたりの話は信じてもよいのではないか?という判断から、学校教育でも、その辺から恰も歴史的事実であるかのように教えている。
政治的宗教的な配慮で、そうなっているのだろう。
私もかつては、まあ、そんなものだろうと思いつつ、昔は半年を一年としていた時代があって、古代天皇が百歳を超える長寿だったと伝承されていたのではないか、といった空想古代ロマンな学説を楽しんでいた。
しかし、あるとき事態は一変した。
古事記と日本書紀には、推理小説の謎解を彷彿とさせるトリッキーな数字の仕掛けが組み込まれている、ということを見つけたのだ。
その数字の仕掛けとは、日本書紀にある古代の天皇の即位元年、崩御の年、崩御時の年齢と、古事記にある崩御時の年齢、そして古事記序文最後にある撰進の日付を皇紀で一覧表にまとめたときに、姿を現すのだ。
それがこの表である。
表示する要素が多く、スマホだと画面が小さくて観にくく、心苦しいが、一番上が日本書紀の各天皇の元年を皇紀すなわち神武天皇の元年を起点とした暦法で算出したもの、次が各天皇の漢風諡号=名前、次いで崩御の年、崩御時の年齢、その下が古事記に記載の崩御時の年齢、左端が古事記序文の最後にある>撰進の日付である。
なお年齢のうち、※印のものは、本文ではなく分注として記載されたものである。
大きな画面で御覧になっている方は、この表をじっくり見ていて、何か、おや?って感じるところがないだろうか?
数字が多く、すぐにはわからないかとも思うが、しばらく眺めて目が慣れてくると、あれ?と思うところがあるはずだ。
お時間があれば、この先を読む前に、ご自身で探してみるのも 一興かと思う。
さて、話を先に進めよう。
スマホでも見てすぐわかるように、必要な個所だけを抽出した表にする。
〇 パスコードは137と731
まず、1神武天皇。
日本書紀では崩御時の年齢は127歳としているが、古事記では137歳としている。
とんでもない長寿で常識的にはあり得ない数字だ。真面目に取り上げるのがバカバカしくも思える。
その1神武天皇の次の2綏靖天皇からしばらくは、古事記では45歳、49歳と、常識的にあり得る数字が続く。
しかしまた、10崇神天皇が168歳、11垂仁天皇が153歳と、あり得ない長寿だ。
そして、この古代天皇の年齢は、1神武天皇がそうであるように、大抵の場合、古事記と日本書紀で異なっている。
なぜ、このような長寿なのが、なぜ両書で異なっているのか、まったくわかっていない。
が、とにかくそんな中で注目したいのは、11垂仁天皇の次の12景行天皇である。
12天皇は日本書紀では106歳だが、古事記では1神武天皇と同じ137歳となっている。
都合、古事記では137歳で崩御したとする天皇が二人いるのだ。
古事記だけを見ていると、ふ〜ん、そうなんだ、で終わってしまうところだが、この景行天皇の日本書紀による元年を見ると、事情は一遍する。
元年は731年、137歳を逆にした数字なのだ。
これは偶然だろうか?
それとも何か作為的なものなのだろうか?
私は判断がつかないまま、ふと古事記序文の最後に記された撰進の日付けを見た。
そこには和銅五年正月二十八日とあるのだが、この和銅五年は、計算すると皇紀1372年になるのだ。
西暦だと712年であり、西暦に660を加算すると皇紀になる。
1372という数字の並びは、古事記には137歳の天皇が二人いる、ということを暗示しているかのようにも思えた。
しかもそのうちのひとりの12景行天皇の日本書紀による元年は、この137を逆にした731年である。
次の票のレモン色でマークした部分がその数字の一致箇所である。
しかも数字の一致はこれだけではなく、ほかにもある。
12景行天皇の次の次、14仲哀天皇を見てほしい。
14仲哀天皇の日本書紀による元年は852年、崩御時の年齢は、古事記日本書紀共に52歳で、この数字は元年の852の下二桁である。
しかも14仲哀天皇は、古事記日本書紀に本文として記載された崩御時の年齢が同じになっている唯一の天皇なのだ。
さらに、古事記撰進の日付の、和銅五年正月二十八日から数字だけを見ると、五正二八だ。
正は数字とは言えないが数字があるべき位置にあるので五ニ八と一緒に取り上げる。
この五正二八を並べてみると、五と二が正しいという字に隣接していて、八が遠くにある。
これを、五と二が正しく必要な数字で八はいらないから遠ざけろ、と示唆しているものとすれば、528と852で数字の順番は違うが、14仲哀天皇の元年の852から、8を遠ざけると崩御時の年齢の52歳になる、ということと繋がる。
次表のうぐいす色でマークした部分である。
これには、何やら推理小説に出て来る暗号のようなトリッキーな雰囲気を感じないだろうか?
各天皇の元年や和銅五年を、皇紀ではなく、西暦に換算すると、どこにもこんな数字の一致は現れない。
西暦で表を作るとこんな感じになる。
仮にこの数字の一致が偶然だとすれば、西暦で表を作ったときにも、やはりどこかに、このような数字の一致を見いだせるはずだ。
しかし西暦だと、どこにも何も見いだせず、皇紀を使って初めて見つかるのだ。
だから西暦一辺倒で使う今の歴史学では、誰も気付かなかったのだろう。
とにかく、こんな数字の一致は偶然ではなく、日本書紀の編纂者の舎人親王と、古事記の編纂者の太安萬侶が示し合わせて、作為的に仕込んだのでなければ、あり得ないことだ。
これまでの研究では、日本書紀は、奈良時代の歴史を書いた続日本紀に、養老四年、西暦720年に日本書紀が撰進されたとあり、古事記は序文最後の撰進の日付の和銅五年が西暦712年なので、まずデモ版として古事記が太安萬侶によって編纂され、その八年後に舎人親王によってきちんと形を整えた日本書紀が編纂されたのだろう、と考えられているわけだが、このような数字の一致があるからには、古事記と日本書紀は同時に作られたのであって、恰も古事記は日本書紀の八年前に作られたものであるのかのように偽装した、ということでなければあり得ないハナシだ。
しかも、古事記と日本書紀の、どちらか一方の記述だけでは、この両書にまたがるトリッキーな数字の仕掛けはわからず、両書を突き合わせて初めてわかる仕組みになっている。
なんでそんな手の込んだ仕組みを作ったのだろうか?
単なる悪戯でこんなことをするものだろうか?
少なくとも日本書紀は国の正史として編纂された書物である。
何らかの意図、読者に対するメッセージを込めたのでなければ、こんなトリッキーな仕掛けは作らないはずだ。
そのメッセージとして最も考えられることは、このトリッキーな数字の奥には、我々が知る古代史の常識を根底から覆すような、何かとんでもない秘密が隠してある、ということではないだろうか。
とにかく、これから少しずつ、その太安萬侶と舎人親王が密かに伝えようとしたことについてを、書いて行く。
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