危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章
第十章 暗号が示す全歴史
ここでは暗号が示す全歴史をまとめておく。
〇 古代母系母権制社会
≪この部分は第五章、第六章のまとめ≫
古代日本は代々女帝たちが支配する母系母権制社会だった。
彼女たちは肉体と魂は別物だと信じていて、年老いて死期が近づくと、まず、蝮に噛ませて自殺した。
するとその末娘が母の肉を食べ、血を飲むことで、母の魂が自分の体内に宿ったものと信じた。
いわゆる宗教儀式としての食人、カニバリズムということでしょう。
その後、多くの男性と肉体関係を持ち、妊娠を待ち、女の子が生まれると、その子を母の蘇りだと信じて育てた。
生まれたのが男の子だった場合は、母の魂が乗り移らなかったものとして、改めて妊娠を待った。
この女帝たちは胎児を神とし、その胎児から生まれた自分も神だとして、いわゆる神懸りのようなことをしてお告げを下し、社会を支配していた。
対する男性は、女帝の息子であっても自ら子を産むことはできないので蘇りは不可能なこともあり、生涯母や姉妹などの管理下で、言わば半人前としてしか扱われなかった。
言うなれば男尊女卑の反対、女尊男卑の社会である。
それでも性的には満足していたからか、特に不満を持つこともなく、暮らしていた。
暗号が示す系図の最初の孝昭女帝は、女帝たちの腹の中の胎児の象徴、
続く孝安女帝は、具体的に何名かは不明だが、とにかくその母系母権制社会で食人による蘇りを続けていた代々の女帝たちのことで、日本は歴史の始まりから、女帝が支配していたのだった。
〇 ヤタによる宗教改革
≪ここから第七章1の再掲≫
女帝たちが食人による蘇りを当然のこととして実行していた世の中で、ある時、とんでもないことを言い出した人物が出て来た。
崇神女帝の息子のヤタという人物で、表向きの垂仁天皇のことである。
何がきっかけかはわからないが、そのヤタは、次のように考えた。
蘇りなんかウソだ、神懸りも神のお告げも妄想に過ぎない、ということに気づき、神の掟やお告げに縛られるのではなく、大自然の営みに倣い、人の情を最優先に。思いやりを以って社会を治めるべきではないか、思いやりがあれば年老いて醜くなっても嘲笑されることはなく、死んでも折に触れて思い出され、永遠に人々の心の中に生き続けるから、冷静に死を詩として受け入れるべきだ。
やがてヤタは、この考えを母親の崇神女帝に提言した。
漢語で言えば垂仁すなわち「仁を垂れた」ということで、まだ論語などが伝わる前だった。
ヤタは母親の信頼が厚かったのか、崇神女帝はこのヤタの話に説得され、蘇りを止め、冷静に自然な死を受け入れる決心をした。
それと同時にヤタは、父親を特定することも考え、崇神女帝の姪、自分の従妹にあたる女性に、暫く自分以外の男性と夜を共にしないように頼んた。
子というものは、自殺した母の肉を食べ、血を飲んでも、その母の魂の蘇りではなく、母親と父親の血=遺伝子を受け継いだ子が生まれるのだと証明し、男と女が対等な世の中にしたかったのだろう。
ヤタが思いやりのある優しい男性だったからか、従妹はヤタの願いを聞き入れて他の男から遠ざかり、その結果、やがてヤタを父親とする女の子が生まれました。
その女の子こそ、日本初の父親を特定できる人物だった。
そうこうしているうちに時は経ち、蘇りのための自殺を行わなかった崇神女帝は、目が微かにしか見えない老女となり、ついに、ヤタに後を託して自然死を迎えた。
皇紀907年丁卯歳=西暦247年のことで、これが日本で最も古い、年を確定できる出来事だった。
これ以前は、代々蘇りをする女帝たちが支配していた、ということしか伝わっていなかったのだ。
したがって崇神女帝こそが、日本で一番古い個人を特定できる人物だったのであって、このことを教えるために表向きの歴史では、10崇神天皇を「初国知らしし天皇」としたのだった。
崇神という漢風諡号は、神を崇め祭るという意だが、これは崇神女帝が、息子ヤタの言うとおりに、神懸りを止め、神をただ崇め祭るだけの存在としたと共に、崩御した崇神女帝のことを忘れず、子孫の心の中に永遠に生き続けさせるために、崇め祭る存在の神とした、ということである。
その崇神女帝が崩御すると、ヤタが日本初の男性の王として即位し、神懸りではなく、仁を垂れて、理性に基づく思いやりを大切する社会にしようとした。
だから表向きの漢風諡号は垂仁とされたのだ。
しかし男性が王であること、神懸りを行わないこと、蘇りを否定されたことなどから、ヤタを王と認めない人々も少なくなく、国中が大混乱になった。
その結果、足かけ5年後の皇紀911年辛未歳=西暦251年、ヤタは何者かに殺害されてしまった。
この混乱を止めるために、崇神女帝の母親の蘇りで、ヤタの子を産んだヤタの従妹が、昔ながらの神懸りと蘇りを復活させるということで女帝として即位し、その結果、漸く混乱は治まった。
再び神懸りを行い、神のお告げに応じる世の中に戻したので、この女帝の表向きの存在である14応神天皇の漢風諡号は、「神に応じる」という意味になる応神とされたのである。
崇神女帝が崩御した皇紀907年=西暦247年頃のことを中国側資料から探ると、丁度、魏志倭人伝の卑弥呼の時代に当たる。
卑弥呼の次に男王が立つと国中が混乱し、卑弥呼の宗女壱与が即位すると国が治まった、というところだ。
まるで、卑弥呼が崇神女帝、次の男王がヤタ=垂仁男帝、宗女壱与が応神女帝であるかのようではないか。
ただし魏志倭人伝では、日本が母系母権制社会であるとは書いてないし、日本も中国と同じような父系父権制社会で、たまたまその頃だけ女王が治めていた、といったふうに書いているので、全面的にその記述を信用することはできないが…。
〇 大神神社と神道の始まり
ところで、垂仁の仁ということから考えると、このヤタが神懸りではなく、神を崇め祭る存在として思いついたのが、山を神として祭ることだったようである。
神とは、それまでは食人で蘇ることで永遠に生き続け、お告げを下す女帝たち自身だったわけだが、同様に永遠な存在を身の回りから探したのだろう。
その結果気づいたのが山や森だった、ということではないだろうか。
山は不動にして昔からその場所にあり、今後も同じようにそこにあり続けるだろうし、森には樹齢百年を超える木々が生い茂っている。
また、川は常に海に向かって流れ続け、太陽、月、星も、毎日毎晩、決まった法則に従って現れることを永遠に繰り返している。
その永遠の中で、虫や鳥、動物は生まれ、そして死ぬことをくり返し、何も変化しない。
人もそんな永遠の中で、鳥や動物のように素直に死を受け入れ、大自然の様子に倣って社会も治めるべきだ、と考えたのだろう。
そしてヤタがこの考えを思いついた場所が、たまたま
三輪
山の麓、今の
大神
神社付近だったのだ。
女帝たちは単なる神、大自然の営みと比較すれば、とても小さな存在に過ぎない。
だから大自然を偉大な神とし、今の三輪山をその代表として、女帝たちより偉大だという思いを込めて大神とした、ということである。
まだ神社や神道という言葉はなかった時代、もちろん定まった祭式も何もなかったわけだが、これが神社神道の始まりだったのだ。
だから神道には、神のお告げによる教義といったものがないのだ。
言うなれば大自然の営みに倣う、ということが教義になるのかもしれないが、とにかく神のお告げから社会を切り離すのが、神道だったのだ。
しかし神のお告げから人々を完全に切り離すのは至難の業で、害がない程度のお告げは黙認したほうがよいとの判断から、古事記日本書紀の神話ができたのだろう。
ヤタの表向きの存在の11垂仁天皇のA列は14䷍
火天大有
で、この卦は☰
乾
(天)の上に☲
離
(火)がある形だが、同時に☰乾(天)は円すなわち輪、☲離(火)は数の三を意味するので、三輪という文字列とも繋がる。
したがって古事記日本書紀編纂時に、11垂仁天皇をA列が14䷍火天大有の位置と決めたことが、大神神社という名称を生んだのであって、ヤタが考えを巡らしつつ眺めた山を三輪山と呼び、大神と書いて「おおみわ」と読むことにし、古事記の表面上では、10崇神天皇が夢のお告げにより、疫病退散のため
意富多多泥古
に命じて、
三諸
山=三輪山の麓で
意富美和
大神を祭らせた、というヤタとは無関係の物語を創作し、こっそり偉大なヤタを称えた、ということだったのである。
しかしそんな素晴らしいヤタの考えも、当時としてはあまりに進歩的過ぎて賛同者はごく限られ、大多数からは非難され、結局ヤタは何者かに殺されてしまった。
するとヤタを父とする子を産んだ従妹の応神女帝が代わりに即位し、仕方なく昔ながらの神懸りによる神のお告げで世の中を動かすようにした。
その結果、漸く混乱は治まり、元とおり平和になった、ということである。
その後、応神女帝は、慣例どおり年老いて醜くなる前に、掟に従って昔ながらの蘇りのための自殺をし、ヤタの血を引いていたとしても、末娘が母の肉を食べ、血を飲み、手あたり次第に男性と夜を共にし、やがて女の子が生まれると、その子を母の蘇りだとした。
ただし、一旦ヤタにかき乱されてしまった掟を立て直すためには、そのまま昔のように蘇りを復活さるだけでは足りず、新たな権威の象徴が必要だっただろうことは、容易に推測できる。
この辺は暗号が不鮮明で断定はできないのだが、おそらくその新たな権威の象徴が各地にある大小様々な前方後円墳だったのであって、ヤタが大自然の山を神としたことに対抗し、中央政府の女帝だけではな、各地の豪族の長たる女性たちも、食人による蘇りでそれぞれの地域の神となる象徴とて、人工的な山を造り、そこに魂が抜けた遺体を葬るようになった、ということのようである。
このように、仁が否定され、神懸りと蘇りが復活したからと言って、ヤタの賛同者が全くいなくなったわけではなかった。
中央が無理なら地方でと、密かにヤタの考えに基づく宗教改革の拠点が作られたようである。
その拠点が後に出雲大社や八幡神社となったのだ。
八幡神社の祭神は応神天皇だが、暗号ではヤタの同志として、ヤタを父親と確定できる子を産んだ応神女帝のことである。
応神女帝はヤタが殺害された後、国中の混乱を治めるために、神懸りや蘇りを虚構だとわかっていても、仕方なく復活させたわけだが、いつかヤタの改革を実現してほしい、と、同志に託したのだろう。
ヤタのヤの音を伸ばしてヤータ→ヤハタとし、八幡の字を当てて音読みすれば「はちまん」になるではないか。
ヤタという音を持つ言葉は、他にも三種の神器のひとつ
八咫鏡
、神武天皇の道案内をした
八咫烏
があるが、これらもヤタの目指した社会を実現する、という意味を込めつつ、歴史の真実を表面上からは読み取れないようにするために、古事記日本書紀編纂に際して作られたものだったのだ。
〇 ヤタ殺害以降の歴史年代
さて、垂仁男帝殺害以降の年代は次のとおり。
応神女帝はヤタ=垂仁男帝が何者かに殺害された後、約23年間在位し、皇紀934年甲午歳=西暦274年に、掟にしたがって蘇りのために自殺した。
暗号が示す皇統譜では、応神女帝に続く景行女帝の位置は、複数を一人にまとめたわけだが、解読の結果その数は七人であって、仮にA〜Gと呼び、それぞれの親子姉妹関係と蘇りの自殺年である崩年を履中女帝の前の成務女帝までまとめると左図のようになる。
景行女帝としてまとめられた七人は、表向きの継体天皇の出自記事「応神五世の孫、母の振媛は垂仁七世の孫」と、景行天皇の妃や子の名前から、このように四世代で七人となる系図が導き出され、蘇りのための自殺年は、日本書紀の景行天皇の記事のうちの、年が不連続となる計七ヶ所の干支から割り出された。
景行の最後、景行G女帝から続くのは、景行Gの娘の仁徳女帝で、さらに、仁徳の妹の仁賢女帝、仁賢の娘の顕宗女帝、顕宗の娘の成務女帝、成務の妹の履中女帝と続き、それぞれの蘇りのための自殺年=崩年は左図に示したとおりである。
この崩年の数字は、崇神、垂仁、応神と同様に、古事記の崩年干支や日本書紀にある数字や干支の矛盾から導き出されたものである。
特筆すべきは仁徳女帝から履中女帝までが、宋書倭国伝にある、いわゆる倭の五王の讃、珍、済、興、武と、親子関係、時代が完全に一致するのだ。
ただし宋書では、日本が母系母権制社会で、この五王が女性だとは書いていない。
中国からしてみれば、蛮夷の島国がどんな社会であれ、相応の貢ぎ物さえ出せば、強大な中国がバックにいるとする称号を与えるのは、吝かではなかったのだろう。
女帝たちは、ヤタの理念に基づく社会を造ろうと画策する勢力が徐々に増えつつあるのを警戒して、中国からの称号で箔をつけたかったのだろうが、やがて履中女帝のときに神武男帝が分裂し、以後二王朝が並立するようになる……。
〇 クーデターで二王朝に分裂
≪ここから第八章1の再掲≫
皇紀1135年
乙卯
=西暦475年
成務女帝崩により、履中女帝が即位。
この頃になると九州や出雲で、ヤタの意志を受け継ぐ人々により、母系母権制社会脱却に向け、女帝に対する抵抗運動が頻発し、履中女帝と娘の反正はその征討のために奔走するようになった。
その様子に成務女帝の息子で、履中女帝の甥に当たる神武が、機は熟したと考え、ついに女性と男性が対等になれる社会を造ろうと、立ち上がる決心をした。
皇紀1150年
庚午
=西暦490年〜大化の改新の約150年前
とある宴会の後、神武は履中女帝が寝ている屋敷に放火し、その足で美濃=現在の岐阜県美濃市付近に逃げ、そこを革命軍の砦とした。
神武は履中女帝に宣戦布告をするだけのつもりで放火しただけで、殺害するつもりはなかったようだが、履中女帝は逃げ遅れて焼死した。
神武が逃げる先を美濃としたのは、倭=畿内の近くでは、美濃地方が母系母権制社会脱却の草の根運動が盛んだったからだろう。
美濃市付近の現代の地図を見ると、武芸川の上流に大矢田神社という神社がある。
大矢田は。偉大なるヤタと称えているかのような地名ではないか。
おそらく神武は、この付近を革命軍の砦としたのだろう。
表向きでは、神武天皇は九州から東の倭へ来たことになっているが、事実は倭から東の美濃へ行ったのだった。
なおここからは、女帝政府との対比を明確にするため、革命軍の長を男帝と呼ぶ。
皇紀1151年
辛未
=西暦491年
履中女帝の長女の反正女帝が、母の敵討ちのために神武革命軍に攻撃を仕掛けた。
しかし甘く見たのか、逆に痛手を負い、それがもとで反正女帝は帰る途中に絶命した。
なお、女帝軍と言っても、実際に戦うのは男性兵士であって、命令を下すのが女帝やその部下の女性、といったところだろう。
皇紀1153年
癸酉
=西暦493年
神武男帝の弟の允恭が革命軍に参加。
神武と允恭は共に成務女帝の子なのだが、父親は判然としない。
おそらくこの頃になると、倭=飛鳥地方からは険しい山を越えるか、大阪や和歌山に出て、海路でないとたどり着けない例えば熊野など、女帝政府が簡単に鎮圧できないような地域を中心に、だったら我々もと、神武男帝の革命軍に同調して反旗を翻す事例もあったのだろう。
そして、古事記日本書紀編纂に当たっては、そういう事例も参考に、神武東征の経路が作られたのだろう。
皇紀1156年
丙子
=西暦496年
反正女帝の妹の懿徳女帝の軍が、大挙して美濃の革命軍を攻撃に来た。
反政府分子排除ということもだが、母と姉の敵討ちという意味合いも強かったのだろう。
対する神武男帝は、迎撃するに足る兵力が集まらなかったことから、女帝軍を罠に嵌める作戦を考えた。
攻めてきたら、速やかに改心服従するふりをして、彼女たちを接待する大殿(仮設の家屋)を建て、その中に押機=踏めば打たれて圧死するネズミ捕りのような仕掛けを仕込んで待ち伏せすることにした。
しかしそんなことではとても勝ち目はないと怖気づいた神武男帝の弟の允恭は、この情報を手土産に女帝側に寝返った。
計略を知った懿徳女帝軍は、神武男帝と対面し、その大殿を前にすると、「お前が建てた大殿には、まずお前が入り、我々に奉仕しようという姿勢を明らかにせよ」と、剣や弓矢で威嚇して追い詰めた。
逃げ場を失った神武男帝は、図らずも自分たちが造った押機に打たれて絶命した。
これで母系母権制社会脱却は夢と消えたのか……。
いや、そんなことはなかった。
一度は寝返った允恭男帝だが、本心から女帝に忠誠を誓ったわけではなく、女帝軍が引き上げると、革命軍をとりしきり、女帝政府からの要求はのらりくらりと返事を濁し、ささやかながら抵抗を続けていた。
皇紀1160年
庚辰
=西暦500年
いつまで経っても本心から服従しない様子の革命軍に痺れを切らしたのか、ついに女帝軍は、再び革命軍を攻撃し、允恭男帝を殺害した。
しかし革命軍は美濃の山中に隠れ棲んでいたので全滅することはなく、その志は神武男帝の息子の綏靖男帝に受け継がれた。
とは言っても、綏靖男帝は武勇を好まない心優しい性格だったこともあり、隠れ住んで女帝政府に服従しなかっただけで、戦略的なことを仕掛けるといったことは、何もしなかったようだ。
この頃は、ただ対立していただけで、衝突することはなく、穏やかに時が流れた。
なお綏靖男帝は、太安萬侶の父、多臣品治など多一族の先祖に当たる。
皇紀1192年
壬午
=西暦532年
懿徳女帝が蘇りのために自殺。
長女の安寧女帝が皇位継承。
また、この年には革命軍の綏靖男帝も崩御し、こちらは綏靖男帝の妹すなわち神武男帝の娘と允恭男帝との間に生まれた雄略男帝が引き継いだ。
皇紀1204年
甲午
=西暦544年
安寧女帝が蘇りのために自殺。
妹の安閑女帝が皇位継承。
この時代は対立していたとしても穏やかな日々が続いた女帝政府と革命軍だが、雄略男帝が革命軍を引き継いでからは、美濃の山中に隠れ住みながらも、女帝政府を武力攻撃する準備を着々と進めていた。
皇紀1218年
戊寅
=西暦558年
雄略男帝を長とする革命軍が、いよいよ倭=飛鳥地方に乗り込み、女帝政府の城の近くに革命軍の砦を築いた。
皇紀1219年
己卯
=西暦559年
倭に乗り込んだ革命軍は、手始めにこの年、安閑女帝を殺害した。
と同時に、食人による蘇りの愚かしさを知らしめるための実力行使も行った。
妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、それが神でも母の魂が宿ったものでもないと分からせようとしたりと、いささか乱暴なことも行われたようだ。
しかし、それでもマインドコントロールは解けるものではなく、安閑女帝の後は娘の継体女帝が引き継ぎ、相変わらず食人による蘇りを行っていた。
皇紀1226年
丙戌
=西暦566年
そうこうしているうちに雄略男帝は崩御し、革命軍は息子の崇峻男帝が引き継いだ。
ここまでのところを系図にすると左図のようになる。
表向きの歴史では、21履中天皇崩は皇紀1065年=西暦405年、暗号では、履中女帝崩は皇紀1150年=西暦490年と、約90年後ろにずれている。
表向きでは25仁賢天皇の時代(皇紀1148年=西暦488年即位〜皇紀1158年=西暦498年崩)である。
また、26武烈天皇崩は皇紀1166年=西暦506年だが、暗号では、武烈は雄略と同一人物であり、皇紀1226年=566年崩となる。
丁度、干支一巡後ろにずれている。
表向きでは30欽明天皇の時代(皇紀1200年=西暦540年即位〜皇紀1231年=西暦571年)である。
〇 聖徳太子〜大化の改新〜壬申の乱
≪ここから第九章1の再掲≫
皇紀1251年辛亥=西暦591年
仁をもって誠意を尽くし、母系母権制社会と食人による蘇りがいかに愚かしいことかと説得しても、女帝側は聞く耳持たずで、どうにもならなかった。
そんな状況から両者はしばしば武力衝突を繰り返したのだが、そのクライマックスがこの年だった。
まずは崇峻男帝が継体女帝とその次女の用明皇女を殺害した。
これにより女帝側は継体女帝の長女の欽明女帝が後を継ぎ、同年8月、今度は欽明女帝の軍が崇峻男帝を殺害した。
男帝革命軍は、崇峻男帝の息子の敏達男帝が後を継いだ。
報復合戦とでも言うべきか、血で血を洗う凄まじさだが、この頃になると、革命軍に共鳴する人々もかなり増え、どうやら女帝側よりも優位になってきた模様。
やがて敏達男帝は、自分たちが優位になってきた余裕からか、女帝側との和睦を考え、
自分と欽明女帝や妹の推古(継体女帝の三女)とで肉体関係を持つことを求め、女帝側もこれに応じた。
その結果として、欽明との間に女の子、推古との間に男の子が生まれた。
その推古との間に生まれた男の子が聖徳太子だった。
しかし、いわゆる夫婦というわけではなく、欽明も推古もこれまでの女帝たちと同様に相変わらず父親不明の子も何人か儲けていた。
なお、この時代には大陸から仏教が伝来した。
その仏教の伝来も食人による蘇りの信憑性を疑問視する人々を増やし、女帝側の力を弱める要因になった模様。
皇紀1263年癸亥=西暦603年
欽明女帝崩。
慣例では末女が皇位継承するところだが、異例にも三女の推古女帝が皇位に就いた。
推古女帝は敏達男帝と肉体関係を持ち、聖徳太子を生んだ人物だということから、男帝側が、双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、神武以来分裂していた国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側は飲まざるを得なかった、ということのようだ。
皇紀1282年壬午=西暦622年
敏達男帝崩。
息子の聖徳太子が革命軍の長となる。
しかし日本の正式な王権は推古女帝にあり、聖徳太子はあくまでも革命軍のトップに過ぎなかった。
皇紀1296年丙申=西暦636年
推古女帝崩。
ついに聖徳太子が統一王朝として即位、と言いたいところだが、そう簡単に事は運ばなかった。
妹の皇極女帝が皇位を継承してしまったのだ。
推古女帝は統一王朝を望んだのではなく、そろそろ妹に皇位を譲り、自分は新しい肉体を得るために自殺しただけだった。
女帝側の理屈で言えば、蘇りを繰り返すことで永遠に死なないわけで、妹の皇極女帝は推古女帝の祖母・安閑女帝の蘇りなのだから、聖徳太子よりも皇位継承の順が優先なのは当然のこと。
としても、聖徳太子もなんとか女帝側を納得させ、男帝側が王となることを考えたようだ。
その聖徳太子は、すでに女帝側と男帝側との繋がりをさらに深めるためにと、欽明女帝の娘との間に三人の男の子を儲けていた。
長男は、なんと、表向きの中臣鎌子=藤原鎌足、次男は中大兄皇子=後の天智天皇、三男は大海人皇子=後の天武天皇だった。
皇紀1303年癸卯=西暦643年
男帝側の政権奪取に向けた不穏な気配を察したのか、皇極女帝により聖徳太子が殺害された。
これで女帝側は、女帝の血を引く人物を王としても、男帝革命軍の論理で国が統一されることを歓迎していないことがはっきりした。
そこで革命軍は、武力で決着をつけるしかないと考え、甘く見ていた女帝側は、滅亡へと追い込まれることになった。
この頃になると、世間の多くは、最早母系母権制社会や食人による蘇りから離れてしまっていたのだった。
聖徳太子亡き後は、まず長男の鎌足が革命軍を引き継いだ。
なお鎌足は、すでに皇極女帝との間に二人の娘を儲けていて、その二人の娘は鎌足の弟の中大兄皇子と肉体関係を結び、うちひとりは、後の持統天皇を生んだ。
皇紀1305年乙巳=西暦645年6月12日
聖徳太子が殺害されたことで、鎌足、中大兄、大海人の三兄弟は、女帝側との和睦を断念し、武力行使に舵を切り、この日、皇極女帝を殺害した。
さらに9月12日には、中大兄皇子が、殺害された母の魂を蘇らせるための儀式に臨む皇極女帝の末娘も殺害。
一方鎌足は、皇極女帝殺害後、東国各地を男帝側に服従させるための旅に出た。
関東〜東北まで、多くの地域では目的を達成したが、信濃地方では強く抵抗され、11月に、無念にも鎌足は諏訪で戦死してしまった。
としても反撃はそれまでで、次男の中大兄皇子が革命軍を率いて対峙すると、皇極女帝の魂を蘇らせることが最早不可能になったこともあり、女帝側は急速に力を失い、内部崩壊を起こし始めた。
これで女帝側の直系の皇位継承者はいなくなり、しばらく男帝女帝が並立していた日本の王権は男帝に一本化され、念願の母系母権制社会とその忌まわしい風習脱却はほぼ達成された。
これが大化の改新の本当の姿であって、表向きの蘇我入鹿を殺害し、蝦夷を自害に追い込んだとする物語は、皇極女帝殺害を教える暗号だった。
なお、鎌足が戦死した諏訪には諏訪大社という大きな神社があるが、その御祭神の建御名方神は、鎌足が諏訪で戦死したことを教える暗号だった。
とにかくこれで、ついに男帝革命軍が日本を代表する政府となったので、ここからは表向きと同様に天皇と呼ぶことにする。
ただしまだ抵抗する女性もいくらか残っていた。
皇紀1321年辛酉=西暦661年6月
欽明女帝の蘇りとなる孫娘が、もう一度母系母権制社会を復活させようと、倭(畿内)を捨てて九州に逃げた。
しかし不穏な動きに天智天皇はすぐさま後を追い、その孫娘を殺害し、クーデターを未然に防ぎ、事なきを得た。
皇紀1322年壬戌=西暦662年
第四章の4でお話ししたように、当時天武妃だった後の持統天皇が、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生んだ。
なお持統は、草壁皇子のほかに、多臣品治との間に太安萬侶、天武天皇との間に皇女の稗田阿礼を生んだ。
この時代の妃はいわゆる妻ということではなく、言うなれば仕事上の秘書といった位置づけで、生まれて来る子の父親が特定できるのなら、いろんな男性と遊ぶことに何ら問題はなかったようだ。
皇紀1325年乙丑=西暦665年
天智天皇崩、弟の天武天皇が皇位継承。
表向きでの天智天皇は皇紀1321年=西暦661年の斉明天皇崩御の後、しばらく即位せずに政事を行い、天智7年=皇紀1328年=西暦668年に即位、その4年後の天智十年崩としているわけだが、これは大化の改新と壬申の乱の真実を隠すためのことで、実際は大化の改新で長男の鎌足が戦死したことによって即位し、表向きの即位年にはすでに崩御していたのだった。
ちなみに天智天皇の幼名の中大兄皇子は、長男ではなく次男で三人兄弟の真ん中という意だった。
国風諡号の天命開別は、天命は易では☰乾(天)を父、☷坤(地)を母とするので、父の命すなわち男性の運命がついに開かれた、という母系母権制社会打倒を果たした感慨を込めたものだった。
皇紀1326年丙寅=西暦666年
推古女帝の蘇りとなる孫娘の大友皇女=表向きの大友皇子が、母系母権制社会復活を賭けて近江大津に兵力を結集する。
皇紀1332年壬申=西暦672年6月・表向きの天武元年
天武天皇はしばらく近江の様子を静観し、できることなら武力を行使せずに母系母権制社会復活を諦めさせようと考えていたが、いつまで経っても服従する様子がなかったので、仕方なく一戦交えることにした。
死力を振り絞って応戦する相手に、いささか苦戦を強いられた場面もあったが、最後には大友皇女を殺害し、無事に鎮圧した。
これがいわゆる「壬申の乱」の真相で、これにより継体女帝の娘の欽明女帝、推古女帝、皇極女帝の血を引く者のうち、男帝革命軍に服従しなかった女性はすべていなくなり、日本は男性が女性と対等になれる父権制社会として、新たに出発することになった。
しかし一旦ヤタが垂れた「仁」を知り、人の死を冷静に受け止めるようになると、食人による蘇りを信じていた母系母権制社会の時代を畜生同然と恥じ、これを歴史上から抹殺しようと多くの人々が考えるようになった。
≪ここからは第三章の抜粋と第四章7の再掲≫
〇 持統天皇と歴史改竄
皇紀1332年(西暦662年)壬戌・天智元年
持統天皇(当時天武妃)は、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。
皇紀1337年(西暦677年)丁丑・天武六年
壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。
皇紀1341年(西暦684年)辛巳・天武十年二月庚子朔甲子(25日)
汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。
同年三月
持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。
これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。
誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。
皇紀1346年(西暦686年)丙戌・朱鳥元年五月
持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。
用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物らしく、これにより天武天皇は病床に着く。
草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。
同年九月戊戌朔丙午(9日)
天武天皇崩御。
よって毒殺計画は成功。
しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。
草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。
この事件は大津皇子にあまり力がなかったことから、翌十月に大津皇子を謀反者として処刑することで収まったが、これにより世間の目は厳しくなる。
そこで草壁皇子の即位は見合わされ、代わりに天武天皇と持統皇后の間に生まれた稗田阿礼が皇位に就く。
なお、朱鳥という年号は暗号のためのものであって、実在はしない。
皇紀1349年(西暦689年)戊子歳・持統三年
持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。
天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。
皇紀1350年(西暦690年)己丑歳・持統四年正月戊寅朔(1日)
持統天皇即位。
皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳・持統七年九月丁亥朔乙未(9日)
高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。
そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。
高市皇子は大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。
皇紀1354年(西暦694年)甲午歳・持統八年四月甲寅朔庚辰(27日)
高市皇子が太政大臣(皇太子格)となる。
皇紀1356年(西暦696年)丙申歳・持統十年八月辛丑朔癸卯(3日)
とある偶然から高市皇子は、天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを知り、この日に「父の仇」として持統天皇を殺害する。
しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇殺害は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。
そこで同月十日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。
この事件により、急遽、稗田阿礼が、持統天皇のいわゆる影武者として皇位に就き、何事もなかったかのように装い、翌年八月には譲位という形式で草壁皇子の息子の文武天皇(当時15歳・母は天智天皇の娘で後の元明天皇)に皇位を継承させる。
文武擁立は、持統天皇を支持していた朝廷内主流派の意志だろう。
なお、太安萬侶は持統天皇と多臣品治との間に生まれた人物とのこと。
〇 解読を終えて
これで、古事記日本書紀の暗号が教える歴史についてはほぼお話ししたことになる。
この暗号が示す全歴史を系図にまとめると、かなり大きなファイルではあるが、クリックすると表示される暗号が示す全系図である。
さて、この歴史を前提にすれば、その後の日本史上のよくわからないことの意味がわかって来る。
奈良時代に女帝が多かった理由、孝謙・称徳女帝が政治を私物化して弓削の道鏡を寵愛し、朝廷が大混乱に陥り、天智天皇の血統から新しい天皇を立てて奈良を捨て、やがて平安遷都し、以後、女性を政治の場に入れないようにしたことや、蝦夷とは何か、征夷大将軍とは何か、等々、
ああ、そういうことだったんだ、と、ピーンと来るだろう。
とは言っても、日本書紀の表向きの歴史をできる限り信じるという立場の現代の歴史学の常識からすれば、受け入れ難いことかとも思う。
が、少なくとも、第一章でお話ししたトリッキーな数字の仕掛けは、奈良時代の価値観に従って検証すれば容易にわかる事実だし、第二章でお話しした易六十四卦の序次と古代天皇や神々との一致も、日本が伝統的に一番大切にしてきた易の理論さえ知っていれば、誰でも簡単にわかる事実である。
おそらく幕末までの朝廷では、ときどき解読されていたことだろう。
ただ、解読しても真実は朝廷内の極一部の者だけが知っていればよいとし、ほかの人々にははぐらかすようにしていたのではないだろうか。
第五章で少し触れたが、本居宣長の古事記伝も、真実と関わる部分は、はぐらかすように書いている。
宣長も解読した上で、当時の朝廷や幕府に伝え、その意向に従い、そうしたのではないだろうか。
当時は言論の自由がない時代である。
それが明治維新となり、西洋人の視点で歴史を学ぶことが主流になると、易は学問の世界からどんどん遠ざけられるようになった。
戦後は言論の自由が謳われるようになったものの、西洋人の視点を尊ぶ傾向がさらに強くなり、皇紀で歴史を考えることは否定され、易にしても私のような占い好きしか顧みなくなった。
これまで、歴史学者や民俗学者の一部が、ときどき、日本を知る上では易を学ことが重要だ、と指摘してはいた。
しかし指摘するだけで、これまで誰も真剣に易を学んではこなかったのだろう。
だからこれまで誰も気づかなかった…。
そんな中でどこまで受け入れていただけるかはわからないが、天武天皇、太安萬侶、舎人親王が、必死に真実を伝えようとした熱い想いを、とにかく一人でも多くの方に知っていただきたいと願い、ここまでお話ししてきた。
易についての詳しいことは、無料易占いのページ、易学入門のページ、易経詳解のページに書いてあるので、よろしけれは御覧ください。
koalan/コアラン 水上
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