危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
前ページ もくじ 次ページ
第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第九章 第十章
第八章 神武天皇は西暦490年頃の人物だった!
1、クーデターで二王朝に分裂! 2、神武男帝のクーデター 3、美濃の革命軍 4、いよいよ革命軍が倭に乗り込む!
4、いよいよ革命軍が倭に乗り込む!
〇 懿徳・安寧・安閑女帝の崩年
懿徳女帝の次の安寧女帝の崩年も、古事記には崩年干支の記載がないので、日本書紀から割り出す。
日本書紀では、3安寧天皇は綏靖25年=皇紀104年に21歳で皇太子になったとあると共に、安寧38年=皇紀150年に57歳で崩御とある。
しかし皇紀104年に21歳ならば、崩御時の皇紀150年には67歳のはず。
21+(150−104)=67、またまた数字の矛盾だ。
そこで、この矛盾した数字の57を易の卦に置き換えてみる。
乱数表(易の理論)
すると、5は☴巽(風)・7は☶艮(山)だから、53䷴風山漸という卦になる。
漸とは、ひとつずつ段階を踏んで進む、という意である。
とすると安寧女帝は、この年に崩御したのではなく、表向きの次の時代まで進んで生きたと示していることになる。
要するに、次の4懿徳天皇の崩年と干支が共通する年が、安寧女帝の崩年だ、ということである。
4懿徳天皇の崩年は懿徳34年=皇紀184年で、計算するとこの年の干支は甲子になり、懿徳女帝崩の皇紀1192年以降から甲子を探すと、皇紀1204年になる。
したがってこの皇紀1204年甲子=西暦544年が安寧女帝の崩年となる。
安寧女帝の次は妹の安閑女帝だが、古事記では、28安閑天皇は乙卯年3月13日崩としている。
しかし前帝の安寧女帝崩年が甲子ならば、乙卯はその51年後となり、在位期間が長過ぎる。
とすると、3月13日という日付が正しい干支を教える計算式なのであって、正月1日相当する干支が正しい崩年だと告げているはずである。
そこでまず、日付の13日だが、1日の十二支が卯なら、十二支は卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯と続くので、13日は1日と同じ卯となる。
したがってこの13日というのは十二支一巡を示していると考えるのが一番素直だ。
3月13日が乙卯なら3月1日は癸卯になる。
3月1日が癸卯だとして、それではなぜ3月なのか、ということになる。
3月なのだから、正月から三段階進んでることになるが、何を以って一段階とするのか。
これまでの暗号の様子から判断すれば、今回は十二支一巡を一段階だとしている可能性が一番高く、この方法で六十干支一覧表から計算すると、3月1日が癸卯なら、2月1日は辛卯、正月1日は己卯になる。
したがって安閑女帝の崩年は安寧女帝崩年の皇紀1204年甲子以降の己卯すなわち皇紀1219年己卯=西暦559年となる。
ただしこれは、蘇りのための自殺ではなく、血生臭い事件のようである。
〇 雄略男帝の実力行使
安閑女帝崩は血生臭い事件だというのは、次のように暗号を読み取れるからである。
暗号では安閑女帝は継体女帝の親となっているが、その継体女帝の表向きの姿である27継体天皇の国風諡号は袁本杼である。
袁本杼は、杼は前ページでお話ししたが、機織りのときに横糸を巻き付ける器具のことだから、袁の字が付く人物の本文を巻き付けた、という意味になる。
袁の字が付く人物と言えば、24顕宗天皇の袁祁之石巣別である。
古事記には、24顕宗天皇の親の市辺忍歯王は22雄略天皇に殺害された、とある。
とすると暗号は、継体女帝の親である安閑女帝は、雄略男帝に殺害された、と教えていることになるのだ。
ちなみに市辺忍歯王という名は、第四章の4でお話ししたように、高市皇子の周辺の真実を水歯別(19反正天皇)の物語に忍ばせた、という意で、高市皇子が草壁皇子を暗殺したことを教えるための暗号でもあった。
要するに、名前と事績がそれぞれ別のことを教える暗号だったのだ。
その22雄略天皇は、国風諡号の大長谷若建が、頭の大と最後の建で、大は☰乾(天)・建は☳震(雷)だから、A列の25䷘天雷无妄と繋がっているのだが、これと似た名前がある。
26武烈天皇の国風諡号の小長谷若雀である。
こちらの小と雀は、小は☷坤(地)・雀は第二章追補2の仁徳天皇の国風諡号の大雀のところで話ししたように☴巽(風)だから、この二文字で46䷭地風升となる。
この46䷭地風升という卦は、25䷘天雷无妄の裏卦=全陰陽を逆にした卦で、これまでのところでは、このような表裏の関係となる場合は同一人物または親子だった。
したがってこの武烈と雄略も同一人物または親子の何れかになるが、この他に長谷若という共通部分もある。
とすると親子よりも深い繋がりがあるのであって、それならば同一人物ということになる。
言うなれば雄略が表の顔で、裏の顏が武烈ということである。
そこで日本書紀の26武烈天皇のところを開くと、元年己卯歳の前年に、壇場を泊瀬列城に設けて天皇の位に陟る、とある。
原文=設二壇場於泊瀬列城一、陟二天皇位一、
この文字列のうちの列城は、このように通常は「なみき」という地名として読んでいるのだが、泊瀬に城を列ねた、という意にもなる。
列ねるというのは、すでにある別の城に、列になように並べて城を構えた、ということである。
その別の城とは、女帝政府の城以外には有り得ない。
また、天皇の位に陟る、という表現も特異である。
通常は即天皇位と表記され、陟天皇位と表記されるのは、架空の人物の23清寧天皇とこの26武烈天皇だけなのだ。
岩波古典文学大系本では、即天皇位でも陟天皇位でも同じように「あまつひつぎしろしめす」とルビを振っている。
表向きの物語の意味を汲むだけなら、それで構わないからだろう。
しかし暗号であるのなら、事情は違う。
陟るとは、確かに位に即くという意味もあるが、旁が歩くなので、歩いて上るという移動の意も含まれる。
したがってこの文章は、美濃から倭に乗り込み、女帝政府の城のすぐ近くに革命軍の城を構えた、と教えていることになるのだ。
泊瀬とは、現・奈良県桜井市の南、ヤタが仁を垂れた三輪山の近くである。
また、武烈元年の己卯は、安閑女帝の崩年と同じである。
とすると、雄略(武烈)男帝は、安閑女帝崩の皇紀1219年己卯=西暦559年の前年である皇紀1218年戊寅=西暦558年に、ついに美濃を出て倭に乗り込み、女帝政府の城の近くに革命軍の城を構え、手始めに、翌己卯歳に、女帝政府軍を攻撃して安閑女帝を殺害した、ということである。
その武烈天皇のところには、残虐行為がいろいろ記載されている。
それらのいくつかは真実をボカすためのフィクションかとも思えるが、妊婦の腹を裂いて胎児を観るといったものは、食人による蘇りは妄想に過ぎない、胎児は神ではない、と女帝側の人々に理解させようとして行われた事実なのではないだろうか……。
雄略(武烈)男帝の崩年については、次のように割り出された。
日本書紀では、武烈天皇は在位8年目に崩御したとあり、これを安閑女帝が殺害された皇紀1219年己卯から8年目のこととすれば、皇紀1226年丙戌となる。
一方、古事記には雄略天皇崩年は、己巳年8月9日とあるが、この付近で己巳は皇紀1209年、それに8と9で計17を加算すると26だから、これも皇紀1226年を指していることになる。
古事記では武烈天皇の崩年の記載はない。
したがってこの皇紀1226年丙戌=西暦566年が雄略(武烈)男帝の崩年となる。
雄略(武烈)男帝の次が崇峻男帝となるのは、次のように読み解けるからである。
雄略天皇と武烈天皇の国風諡号の共通部分の長谷若を易の卦に置き換えると、長は☴巽(風)・谷は☱兌(沢)・若は☷坤(地)だから、合わせて☴☱☷巽兌坤(風沢地)となり、上の☴☱巽兌(風沢)の部分は記号を二本で一本と見做せば☲離(火)だから、最終的に35䷢火地晋となる。
35䷢火地晋は32用明天皇のA列すなわち33崇峻天皇の前の位置である。A列の確認はコチラ
原則として前帝の子が次の天皇となっている。
とするとこれは、雄略(武烈)男帝の次は、子の崇峻男帝だと教えていることになる。
なお、雄略(武烈)男帝と崇峻男帝の関係を親子以外、例えば兄弟だとするなどの暗号は見当たらない。
ちなみに、表向きの歴史で26武烈天皇の崩年は皇紀1166年=西暦506年だから、丁度干支一巡の60年後が真実の崩年ということになる。
表向きの歴史で皇紀1226年=西暦566年は欽明天皇の27年に当たる。
このように暗号が示す歴史は、さらに後の時代の推古女帝や聖徳太子の時代も後ろにズレる。
表向きの歴史と年代がほぼ一致するようになるは大化の改新からである。
としてもその内容は、古代史史上最後の内乱とも云われる壬申の乱と共に、大きく異なる。
とにかく雄略男帝が安閑女帝を殺害してからは、女帝政府と革命軍との武力衝突の時代になるのだが、この先は次の第九章に任せるとしたい。
前ページ ページTOP 次ページ
|