危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第十章
第九章 古代女帝政権の終焉
1、武力衝突を繰り返す二王朝 2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害 3、聖徳太子の本当の姿 4、大化の改新の真相 5、女帝政権の崩壊 6、壬申の乱=最後の悪あがき
5、女帝政権の崩壊
暗号では、皇紀1303年癸卯=西暦643年・表向きの皇極2年11月、皇極女帝によって聖徳太子が殺害された、とある。
とすると、その後の男帝革命軍を引き継いだのはその長男のはず。
聖徳太子の長男は鎌足である。
表向きの歴史では、皇極4年6月に鎌足や中大兄皇子によって蘇我入鹿が殺害され、父親の蝦夷も自害した、という事件があるが、蘇我氏は女帝の動ぎを教える暗号なのだから、これは鎌足や中大兄皇子によって皇極女帝が殺害された、ということである。
聖徳太子が殺害されたことで男帝革命軍は、これ以上、穏やかに説得しても政権移譲は叶わない、だったら武力で制圧するしかないと決断したのだろう。
大化の改新の本当の意味は、皇極女帝を殺害したことで、ついに政権が女帝側から男帝革命軍に移った、ということだったのだ。
しかし皇極女帝が殺害されても、女帝側はまだしぶとく抵抗したようである。
大化元年(皇紀1305年乙巳=西暦645年)9月丙寅朔丁丑(12日)条を見ると、古人皇子が蘇我田口臣川堀等と共に謀反を起こし、中大兄皇子が征討したとある。
古人皇子という名は、聖徳太子殺害を教える暗号解読のところで老人を連想させる役割で出てきたが、表向きの歴史では、蘇我氏が次期天皇にと擁立を企んだ人物であり、古い人とは、古い風習に生きる人、という意味にも取れる。
したがって、ここでは女帝側の残党だと示しているのだ。
〇 皇極女帝の蘇り阻止
乱数表(易の理論)
そうしてみると、一緒に謀反を起こした人物の蘇我田口臣川堀という名が、何か言いたげである。
この名を易の卦に置き換えると、田は☷坤(地)・口は☱兌(沢)・川は☵坎(水)・堀は☱兌(沢)だから、田口で19䷒地沢臨、川堀で60䷻水沢節になる。
臨は「のぞむ」、節は節目である。
したがって蘇我田口臣川堀で、「蘇我・臨む・節目」=我は蘇りの節目に臨む、という意味になる。
とすると、この古人皇子と蘇我田口臣川堀らが謀反を起こして中大兄皇子が征討したという事件は、皇極女帝の娘が、殺害された母を蘇らせようと、その儀式に臨んでいるところを、中大兄皇子が阻止して殺害した、と示していることになる。
皇極女帝が殺害されたのは、6月丁酉朔戊申(12日)=表向きの蘇我入鹿が殺害された日だから、丁度その三か月後に当たる。
おそらく殺害されてすぐ、皇極女帝の娘によって食人の儀式が行われ、胎内に宿った母の魂に肉体を与えるためにと、この日、その皇極女帝の娘が、多くの男性と享楽に耽っていたのだろう。
そこを中大兄皇子が襲撃し、皇極女帝の娘は殺害され、蘇りは不可能になった、ということである。
〇 鎌足の東征と戦死
一方、長男の中臣鎌子の皇極女帝殺害後の行動については、次のように暗号は教えている。
中臣鎌子は37孝徳天皇の
白雉
5年(皇紀1314年
甲寅
=西暦654年)正月条から中臣鎌足と表記され、天智8年(皇紀1329年己巳=西暦669年)冬10月丙午朔庚申(15日)に姓を賜り藤原氏となり、「これより後は藤原内大臣と呼ぶことにする」とあり、翌辛酉(16日)に、その藤原内大臣が薨去した、とある。
この記事が事実ならば、鎌足は聖徳太子の長男なのに、なぜ天皇にならなかったのか、という疑問が生じる。
とするとこの記事は事実ではない。
そう考えてこの記事の近辺を探ると、少し前に、この秋、藤原内大臣の家に落雷があった(原文=是秋、霹二|於藤原內大臣家一)という記事があった。
この記事は「是秋」で、旧暦の秋は七月〜九月のこと。
旧暦では、一月〜三月が春、四月〜六月が夏、七月〜九月が秋、十月〜十二月が冬である。
鎌足が藤原性を賜ったのは冬十月だから、まだ藤原姓を賜る前なのに藤原内大臣としているのだ。
それまでは中臣内臣と表記していたのだから、藤原姓を賜ったと書く直前までは、中臣で通すべきである。
とするとこれも暗号である。
落雷するからには激しくくり返し雷が鳴ったわけだが、そういう状態を示す易の卦は51䷲震為雷である。
この卦は☳震(雷)が重なっていることから、雷がくり返し鳴り響いている様子であるとともに、その雷は実体が判然としないことから、実体のないことをも意味する。
したがってここに落雷事件を書くことで、この家に纏わる記事は実体のない作り話だと教えると共に、鎌足の薨去も別の年月日だと示していることになる。
そこで鎌足薨去の記事だが、その最後には、日本世記という書物には、内大臣(鎌足)は春秋50にして薨去し、碑文には春秋56で薨去、と書いてあった(原文=日本世記曰、内大臣、春秋五十、薨二于私第一、<中略>碑曰、春秋五十有六而薨)、とある。
この中の春秋というのは年齢のことである。
日本世記とは、日本書紀の中にときどき出て来る書物の名で、実際にそんな書物があったのか否かはまったくわからないものなのだ。
とするとこの記事も暗号である。
50と56を易の卦に置き換えると、5は☴巽(風)、0=十は☷坤(地)、6は☵坎(水)だから、50(五十)で20䷓風地観、56(五十有六)で59䷺風水渙となる。
20䷓風地観は、易経のこの卦を説明する文章の中に神道という言葉があると共に、第六章でお話ししたように鳥居のイメージの卦でもあることから、神についてを示す暗号と考えらる。
59䷺風水渙は、☴巽(風)の風が☵坎(水)の水の上を行く形であると共に、その☴巽(風)には木という意味もあるので、木の船が水の上を行く様子として、水を渡って新しい世界への出発、という意味がある。
したがってこの20䷓風地観と59䷺風水渙で、神への出発となり、鎌足薨去の経緯は神世の神話の中に描かれている、と教えていることになる。
また、鎌足薨去日の10月丙午朔辛酉(16日)は、16=十六を正式な一十六として易の卦に置き換えると、1は☰乾(天)・6は☵坎(水)だから6䷅天水訟で「訴える、主張する」という意になる。
そしてこれは、日付の数字から出て来たことなのだから、その日付の辛酉という干支を主張していることにもなる。
表向きの歴史で、辛酉の歳に亡くなったとされるのは皇極天皇の重祚である斉明天皇である。
しかし暗号では、皇極女帝は斉明としての重祚はなく、皇極4年に殺害されたとしている。
とすると、その皇極女帝が殺害されたのと同じ年に鎌足も薨去した、と教えていることになる。
そこでもう一度、そういう視点で皇極4年=大化元年条を見ると、先ほどの古人皇子が謀反を起こして殺害された記事に、鎌足のことも暗号で示してあることがわかった。
〇 或本伝に忍ばせた暗号
先ほどは割愛したが、この古人皇子謀反の記事では、「或本に伝はく」として、殺害に至る経緯の異伝をいくつか挙げると共に、この人物に対する呼び名が複数あることを書いる。
古人太子、古人大兄、吉野太子、吉野皇子、古人太市皇子、吉野大兄王、である。
表向きの物語では、36皇極天皇から37孝徳天皇への皇位継承を穏便にするため、古人皇子は出家して吉野へ行ったので、吉野太子、吉野皇子と呼ばれたとあるのだが、話を進める前に、この謀反についての部分の記述について少し補足しておく。
まず本文は、9月丙寅朔丁卯(12日)、吉備笠臣垂が中大兄に「私は吉野の古人皇子たちの謀反に参加した」と自首した、とある。
続いて「或本に伝はく」として、吉備笠臣垂は阿倍大臣と蘇我大臣に対して「私は吉野皇子の謀反に参加した」と自首した、とある。
続く本文は、中大兄が兵若干を率いて古人大市皇子を討った、とある。
再び「或本に伝はく」として、11月甲午30日に、中大兄が阿倍渠曾臣と佐伯部子麻呂の二人と共に兵四十を率いて古人大兄を攻めて、古人大兄たちを斬り殺しその妃妾は自害した、とある。
そしてさらにもうひとつ、「或本に伝はく」として、11月に吉野大兄王が謀反を起こしたが、事が発覚して殺された、とある。
このように、本文に異説を挙げ、呼び名もそれぞれ微妙に異なっているのだ。
天智天皇に対しては中大兄だけで通しているのに、なぜ古人皇子に対しては呼び名をこのように変える必要があるのだろうか。
ここで、ことさら吉野と呼び変える意味は何なのか。
古人皇子を吉野皇子などと呼ぶのはこの記事しかない。
そして最後の記事だけは、11月に吉野大兄王が……と、この人物を「王」と表記している。
これが暗号ならば、この吉野は暗号で古人皇子とは別の人物が11月に殺害されたと示しているのに違いない。
そのことをこっそり忍ばせるために、いろいろな異説や異名を出して、表向きの歴史からは気づかれないように、カモフラージュしているのだ。
吉野は第四章の6の持統天皇と天武天皇と稗田阿礼の関係についてのところで触れたが、易の卦に置き換えると16䷏雷地予になる。
一方、鎌足が賜った藤原姓は、藤はマメ科で反生の植物なので☳震(雷)、原は☷坤(地)だから、こちらも同じく16䷏雷地予になる。
同じ卦に置き換わるということは、この11月に吉野大兄王が殺害されたというのは、16䷏雷地予の大兄=長男すなわち鎌足が殺害された、と示していることになる。
しかしなぜ、鎌足は殺害されたのだろうか…。
〇 落雷〜建御雷神〜建御名方神
答えは古事記の神世の物語の中にあった。
表向きの物語では、鎌足は自宅に落雷があって後、しばらくして薨去している。
雷の神様と言えば建御雷神である。
古事記の神世には、建御雷神の次のような神話がある。
建御雷神は、天照大御神の直径の子孫に日本を統治させるため、その頃日本を治めていた大国主神に、国を譲るように説得しに行った。
その際、大国主神の子の八重事代主神は素直に従ったが、建御名方神は力で決着をつけようとした。
しかし圧倒的な差を見せつけられて怯え、建御名方神は逃げ出した。
建御雷神は後を追いかけて科野国の州羽海=現・長野県の諏訪湖に追い詰め、建御名方神は殺されそうになり、この地から出ないから殺さないでくれと嘆願し、国譲りに同意した。
この物語で特異なのは、唐突に諏訪湖が出て来ることと、建御名方神の出自である。
出雲から諏訪湖はかなり離れていて、なぜ諏訪湖なのかというちょっとした違和感があるではないか。
そして建御名方神は、大国主神の子孫の系譜には書かれていないのに大国主神の子だとされていると共に、この場面にだけしか登場しない。
名前も何やら「建という名の人」を暗示しているかのようである。
とすれば、やはりこれも暗号である。
〇 日本武尊の東征は鎌足の行動を教える暗号だった
建と言えば、12景行天皇の子の倭建命がまず思い浮かぶ。
そこで再度、倭建命について探るのだが、さらなる暗号は日本武尊と表記される日本書紀のほうにあった。
日本書紀の12景行天皇のところでは、倭建命は日本武尊と表記され、すでに第八章でちょっと触れたように、物語の一部分だけ王と呼んでいる。
12景行天皇の四十年是歳条の東征物語のところである。
日本武尊は、駿河(静岡県)〜相模(神奈川県)〜上総(千葉県)〜陸奥(東北地方)〜常陸(茨城県)〜甲斐(山梨県)と進み、服従しない蝦夷を征伐し、さらに甲斐から武蔵(東京都や埼玉県)〜上野(群馬県)を巡り、碓氷峠を超えて、越国は配下の吉備武彦に任せ、自分は信濃へ向かった。
信濃へ行くと山の神に苦しめられ、最後には道に迷った。
すると白い狗が導くように現れ、その狗に随って行くと、なんとか美濃に出られて吉備武彦と合流した。
この旅程の初めのほうには、一行が相模から上総へと海を船で渡ろうとするときに嵐に遭い、日本武尊の妾の弟橘媛が海に飛び込むと暴風は治まり、船は岸に着くことができた、というエピソードがある。
このエピソードのヒロイン弟橘媛は穂積氏忍山宿祢の娘だとある。
穂積の穗は易に置き換えると☳震(雷)になるので、穂積で☳震(雷)を積んだ形すなわち震為雷を示していることになり、建御雷神を連想させます。
忍山は「山に忍ぶ」という意味になります。
したがってこの穂積氏忍山宿祢という名前は、建御雷神は山に忍ぶ、という意味になるのだ。
日本武尊は信濃で山の神に苦しめられたとあるが、建御雷神は科野(信濃)の州羽海(諏訪湖)に建御名方神を追い詰めて幽閉している。
〇 諏訪大社は鎌足の遺徳を称えるための神社だった
これが鎌足の真実を教える暗号ならば、次のような流れが浮かぶ。
鎌足は皇極女帝を殺害すると、さらに全国の女帝の支配下にある地域を男帝側に服従させようと、まず東へ向かった。
その旅は、関東から東北にも及び、多くの地域では男帝側に服従した。
しかし信濃では激しく抵抗され、ついに11月、諏訪にて女帝側に負けて拘束され、結局帰ってことなかった、要するに戦死した、ということだ。
なお、日本武尊の物語では狗に随ったので生き延びて美濃に出たとあるが、それは第八章の2でお話しした別の暗号としての役割があるために、物語上、まだ生かしておかなければならなかったからである。
とにかく鎌足は、聖徳太子の長男なのだから、本来ならば皇極女帝を殺害した時点で日本の王権の最高位、天皇として即位して当然のはずだが、実際には天皇とはならなかった。
これは、このように、正式に即位する前に戦死してしまった、ということだったのだ。
鎌足が戦死した諏訪には、建御名方神を御祭神とする諏訪大社がある。
表向きの物語では、負けて幽閉されるためだけに登場する神様なのに、なぜあんな大きな神社の御祭神なのか、これまで腑に落ちなかった。
しかし、このように建御名方神は、鎌足が諏訪で戦死したことを教える暗号だったのだから、後に諏訪も男帝側に服従して、やがて鎌足の遺徳を称えるために建立しつつ、真実を封印するために御祭神を建御名方神とした、ということだったのではないだろうか。
〇 藤原不比等は鎌足の娘の子だった
さて、鎌足は藤原氏の祖でもあるだが、鎌足の子とされる不比等とはどういう関係なのかが気になる。
日本書紀では、鎌足と不比等との関係については、何も触れていない。
不比等が日本書紀に登場するのは二つの記事だけである。
ひとつは持統三年二月条で、藤原朝臣史と、史の一字で表記され、ほか数人と共に判事になった、というもの。
もうひとつは持統十年冬十月条に、藤原朝臣不比等に50人の資人=部下をつけた、とある記事だ。
続日本紀によると、不比等は養老4年=皇紀1380年庚申=西暦720年8月、日本書紀が撰進された三か月後に薨去したとあり、懐風藻には63歳だったとある。
このことから計算すると不比等は、鎌足が皇紀1305年11月に諏訪で戦死した後、十年以上経ってから生まれたことになるので、鎌足の子ということは有り得ない。
そこで不比等という文字列だが、返り点を不二比等一と付ければ、比に等しからず、と読め、比を8䷇水地比のこととすれば、8䷇水地比とは言い難い、という意味になる。
鎌足の旧名鎌子は、すでに4、大化の改新の真相でお話ししたように、鎌は金属でできた硬いものだから☰乾(天)・子は十二支の子とすれば☵坎(水)だから、6䷅天水訟に置き換わるのだが、六十四卦の序次では6䷅天水訟の次の次が8䷇水地比である。
表向きの古代天皇の皇位継承順と親子関係は、原則として六十四卦の序次の順だったように、この序次の順は親子関係を示す。
とすると、鎌子の息子の息子、ということなら6䷅天水訟、7䷆地水師、8䷇水地比の順なのだから、鎌子の孫ならば8䷇水地比に等しいことになる。
しかし不比等は「比に等しい」ことを頭の不で否定しているのだから、そうではない、ということになる。
しかし敢えて8䷇水地比を連想させようとしているのだから、全く違うわけではなく、比に等しくはないが、それに近い関係だ、ということのはず。
そう考えて思い当たるのは、鎌子の息子の子ではなく、娘の子だ、ということだ。
跡継ぎがいないから娘の子を養子に迎えた、といった感覚だったのかもしれない。
が、ほかに裏付ける暗号がないので、あくまでも推測であって、残念ながらこれについては確かなことは言えない。
〇 天智天皇の国風諡号、天命開別の意味
鎌足が戦死したことになり、男帝革命軍は聖徳太子の次男、鎌足の弟の中大兄皇子が長となるしかなかった。
そして皇極女帝とその娘を殺害したことで、この革命軍が日本の正式な政府となった。
これが大化の改新の真実であって、この真実が明かになったことで、中大兄すなわち天智天皇の国風諡号の天命開別の意味も見えてきたではないか。
易の基本は陽を☰乾とし天とし父とし男性とし、陰を☷坤とし地とし母とし女性とする。
したがって、大化の改新で、ついに天に属する男の運命が開かれた、ということだったのだ。
これで晴れて、仁による理性的な社会建設に向けてスタートしたのである。
ということで、ここからは敢えて男帝と呼ぶ必要はないので、表向きと同じように天皇と表記する。
天皇とは、本来的には中国の図や緯と呼ばれる書物に、この世の最初の王統の名称として出て来るようだが、日本では、父権制社会の初めての王統だ、という意味を込めて天皇と呼んだのだろう。
そうしてみると、表向きの歴史物語が父系の出自にこだわり、古代の天皇が各豪族の祖先であるかのように書いている意味がよくわかる。
母系母権制社会と対比すれば、父親というものの存在を明らかにし、父親の血統にこだわってこそ父権制社会は成り立ち、初めて男性は女性と対等になれる、ということである。
逆に、父と子の関係を無価値としていたからこそ成り立っていたのが母系母権制社会である。
ともあれ、これで女帝政府は崩壊し、男帝革命軍が日本の正当な政府となったわけだが、女帝政府の残党がまだいろいろ企んでいたようだ。
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