危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第五章 古代天皇の多くは実は女性だった!
1、仁徳天皇に隠された秘密 2、架空の天皇を教える暗号 3、男女の別を教える暗号 4、41ピースのジグソーパズル
4、41ピースのジグソーパズル
乱数表(易の理論)
架空、男性、女性と分かれることで見えてきたのは、皇位継承順も全く異なる可能性が高い、ということである。
としても、どう異なるのかは、当初は全くわからなかった。
そこで、各第二章の3で提示した歴代天皇とA列B列との繋がりの表を、もう一度眺めてみた。
すると、30欽明天皇と31敏達天皇に何やらヒントがありそうな気配が感じられた。
日本書紀では、23欽明天皇は皇紀一二〇〇年を即位元年とし、欽明三二年(皇紀一二三一年)に崩御じている。
24敏達天皇は皇紀一二三二年を即位元年としている。
したがって欽明の崩年と、敏達元年の皇紀下二桁は、共に三二である。
三二を易の卦に置き換えると、三は☲離(火)・二は☱兌(沢)だから、合わせて38䷥火沢暌という卦になる。
この卦名の暌は珍しい字だが、意味は「背く」ということである。
そこで、この二人は背き合っていた、と暗号は示しているのではないか?と考えた。
欽明と敏達は同時代に背き合ってそれぞれ即位していた、要するにこの時代は二王朝が並立していて、欽明と敏達はそれぞれの王朝のトップだったのではないか、ということである。
だから聖徳太子の十七条の憲法には、第十二条に「国非二二君一、民無二両主一(原文)」=「国に二の君あらず、民に両の主なし」(書き下し)という言葉があり、同様の言葉は皇極元年条や孝徳天皇のところにもある。
表向きの歴史から考えると、これらは蘇我氏の台頭を牽制しての言葉のように受け取れるが、実はこの時代、本当に二王朝が並立していて、いわゆる大化の改心でそれが統一された、ということなのではないか、とも考えられるではないか。
そこで、その線であれこれ調べてみたのだが、そうこうするうちに、日本書紀の神武天皇が九州高千穂を出発するときの記事に、何か言いた氣な数字を見つけた。
〇 一百七十九萬二千四百七十余歳
日本書紀には、神武天皇が東征に出発する年(即位前七年甲寅歳)には次のような記事がある。
「今は瓊瓊杵尊の天孫降臨より、一百七十九万二千四百七十余歳が経過した」というものである。
何を根拠にこのような数字を掲げたのか、普通に読んだのでは皆目見当がつかない。
とすると、これも暗号に違いない。
そこで易の卦に置き換えて意味を探るのだが、今回は六桁だから、そのまますぐに六十四卦に返還というわけにはいかない。
としても、易占いにそこそこ詳しければ、だったらこれを使おうと、すぐ思いつく方法がある。
いわゆる中筮法で使う法則である。
易占いの方法は『易経』の繋辞伝というところに書いてある。
これは本筮法と呼ばれる。
ただしこの本筮法はとても煩雑なので、簡略化した中筮法、さらに簡略化した略筮法というのがある。
中筮法や略筮法は江戸時代にはすでにあったことがわかっているが、それ以前のいつ頃考案されたのかは不明である。
しかし本筮法は、初めて易に接するような人たちにしてみれば、易を敬遠したくなるような煩雑さなのだ。
プロの易者の中にも本筮法なんか理屈は知っているが実際には使ったことがない、という人もよくいる。
私も本筮法しかなかったら易に興味を持たなかったと思う。
これは古事記日本書紀が編纂された奈良時代でも同様だったのではないだろうか。
とすれば、名称は違うかもしれないが、当時も中筮法や略筮法があった可能性は高い。
取り敢えず中筮法の法則を使って何か読み取れるか調べてみよう。
読み取れればそれでよいし、ダメなら違う方法を考えればよい。
と言っても易と日常的に関わっている者としては、この数字を見ながら頭の中でパパッと変換するだけだから大したことはない。
なお中筮法については易学入門]占い方でこの数字を例に出して説明しているので、よろしければご覧ください。
ともあれ調べた結果、このやり方で正解だった。
ちゃんと暗号を読み取れたのである。
まずは各数字を八卦に置き換え、それぞれを陰陽によって一本の記号に返還し、計六本で六十四卦とするのだ。
一と九は☰乾(天)で老陽、七は☶艮(山)で少陽、二は☱兌(沢)で少陰、四は☳震(雷)で少陽だから、左図のように、10䷉天沢履と60䷻水沢節を示す。
易占いの場合は、正式には、五経のひとつの春秋左氏伝などにある占例の表記に従い、「遇履之節」と書いて、「履の節に之くに遇う」と読む。
これが暗号ならば、節は節目という意味があるから、10天沢履が節目だ、と解釈するのが最も自然である。
なぜこのように二つの卦を示すのかというと、次のような陰陽の法則があるのだ。
明るい陽の昼もやがては夜になり、暗い陰の夜もやがては朝になるように、陰陽は常に一定ではない。
陰は、陰気が少ないうちは陰のままだが、限界まで増えると次には陽に反転する。
同様に陽も、陽気が少ないうちは陽のままだが、限界まで増えると次には陰に反転するのだ。
したがって、陽だけで構成された老陽の卦は陽が限界までに極まった形だから、次には陰に変わり、陰だけで構成された老陰の卦は陰が限界までに極まった形だから、次には陽に変わる、と想定して、その老陰老陽の位置の陰陽を逆にした卦も合わせて示すのである。
さて、10䷉天沢履が節目とはどういうことだろうか。
この卦は7孝霊天皇のA列である。
しかしこの人物は持統天皇の墓所についての暗号であって実在はしない。
とすると、ここで示すのは漢風諡号に履の字が付く人物すなわち18履中天皇ではないだろうか。
いや、そうに違いない。
ほかに結びつく人物はいない。
とするとこの数字は、「歴史上の重要な節目は履中天皇である」と教えているのに他ならない。
〇 古事記の東征の年数が意味するのは…
一方、古事記には、神武天皇東征について次のような記述がある。
神武天皇は九州高千穂を出発すると、筑紫の岡田宮というところに一年、阿岐の多祁理宮に七年、吉備の高島宮に八年滞在してから倭に入った。
この記述は、日本書紀がこの間を4年(即位前七年甲寅歳に出発し、前三年戊午歳に畿内に至る)としているのに矛盾する。
矛盾は暗号と受け取れるので、各滞在年数を順に並べて一・七・八として易の卦に置き換える。
すると、一は☰乾(天)・七は☶艮(山)だから、一と七を合わせて序次33の䷠天山遯となる。
残る八は、合理的に考えて、その卦の下から八番目の位置を指しているものと考えるのが順当である。
ただし、記号は全部で六本だから、普通に考えれば八番目はない。
そんなときは、八を六で割り、下から二番目の記号を指しているものとするか、六十四卦の序次で次の卦となる34䷡雷天大壮の下から二番目を指すものとする。
なお、ある位置を指すというのは、その位置の記号の陰陽を変化せよ、と示しているか、その位置の意義を示しているかの、どちらかであるのだが、両者を比較して意味が通るほうが正解のはずだ。
調べた結果、ここでは陰陽の変化をもって暗号としているのだった。
雷天大壮の下から二番目の陰陽が変化すると55䷶雷火豊という卦になる。
遯は「逃げる」、姤は女帝だから、「女帝から逃げた」あるいは「女帝のところへ逃げた」という意味になる。
そして先ほどの節目となる18履中天皇は、すでに話したように女帝であるとともに、履中天皇には55䷶雷火豊の豊という字と関連する興味深い記事があった。
この時代は宴会のことを豊明と言った。
今でも宮中に豊明殿という宴会場があるのはその名残りだが、問題の記事の内容は、次のようなことである。
とある豊明の夜、履中天皇が泥酔したのをよいことに、墨江中王が屋敷に火を放ち、履中天皇を殺そうとしたが、天皇は運良く助け出された。
何やらこの事件はクサイではないか。
暗号が示すキーワードは、履中が節目、女帝、逃げる、豊、である。
とすると、神武天皇は、豊明(宴会)後に泥酔した履中天皇(女帝)を殺そうと、屋敷に火をつけて逃げた、と暗号は示しているかのようである。
また、18履中天皇は、古事記に六四歳で崩御とあるのだが、この数字を素直に易の卦に置き換えると、六は☵坎(水)・四は☳震(雷)だから、A列では1神武天皇(4䷃山水蒙)の直前の3䷂水雷屯となる。
表向きの物語では、1神武天皇から18履中天皇まで約千年という厖大な年月の隔たりがあるが、この暗号群に従えば、「神武天皇は、履中天皇から逃げた人物」ということになる。
なお、豊明(宴会)後に泥酔して寝込んだ履中天皇を殺そうとして屋敷に火を放った、ということと神武天皇がどう関係するのかは、もう少し解読を進めて行かないと確定できないので、ここではこれ以上触れず、後で明らかにする。
今は、各天皇の時代を確定することが先決である。
これまでの暗号によって明らかになるのは、神武天皇は履中天皇の次の位置になることである。
しかし表向きの歴史では、18履中天皇の次は19反正天皇なのだから、履中天皇の次の位置は神武と反正の二人になってしまう。
そして、神武天皇を履中天皇の次の位置に移動させると、これに連れて、他の天皇の位置も必然的に移動することになった。
その結果として、なんと!履中天皇以降、二王朝並立の皇統譜が姿を現したのである。
なお、今後は男女の別が重要になるので、表向きの記述を引き合いに出す場合を除き、原則として男帝、女帝と表記する。
〇 男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代
神武男帝は、履中女帝から逃げた、ということと、履中天皇の古事記の崩年齢六四歳が3䷂水雷屯(A列で神武天皇の前の位置)を示すことから、履中女帝の次の位置に、反正女帝と対峙する形で置く。
一方、履中女帝と反正女帝の方には動かす暗号が見当たらないので、この二人はそのまま動かない。
允恭男帝と雄略男帝にも動かす暗号は見当たらないので、この二人の位置もそのままとなるのだが、こちらは男帝であることから、神武側に並べる。
ただし、すでに話したように雄略男帝は武烈男帝と同一人物である。
表向き二代目の綏靖男帝は、日本書紀の崩年齢八四歳が、八は☷坤(地)・四は☳震(雷)だから、24䷗地雷復となるから、A列がこの卦に当たる21安康天皇の位置となる。
表向き三代目の安寧女帝と、続く四代目の懿徳女帝は、第二章の4でお話ししたように、A列と国風諡号の関係が二人を深く結び付けているので(師木津日=日継師)二人一緒に動かし、その動く先は懿徳女帝の古事記の崩年齢四五歳から、次のように割り出される。
四五を易の卦に置き換えると、四は震(雷)・五は巽(風)だから、前帝である安寧女帝のB列32䷟雷風恒となる。
この卦は同時に29宣化天皇のA列でもあるので、「宣化天皇を見よ」との指示となる。
宣化天皇を見ると、日本書紀に七三歳崩とあるが、この天皇は架空の人物である。とすると、この七三は懿徳女帝に対する暗号に他ならない。
七三を易の卦に置き換えると、七は艮(山)・三は離(火)だから、22䷕山火賁になる。
したがって、懿徳女帝の前帝は七三すなわち22䷕山火賁の位置だと告げていることになり、それはA列では反正女帝に当たる。
以上のことから、懿徳女帝は、反正女帝の次の位置に動く。
そして懿徳女帝の国風諡号の下の方の鉏友は、「友である安寧女帝と位置を逆にせよ」(鉏は土をひっくり返す道具)という指示と受け取れるので、安寧女帝は懿徳女帝の前から後へと、順序が逆転して続ける。
ここまでで、男帝側は神武、允恭、綏靖、雄略(武烈)、女帝側は履中、反正、懿徳、安寧と、それぞれ四人ずつの順が確定したわけだが、これを踏まえて見て行くと、さらに先が、次のように判明した。
雄略(大長谷若建)と武烈(小長谷若雀)の国風諡号の共通部分「長谷若」を易の卦に置き換えると、長は☴巽(風)・谷は☱兌(沢)だから長谷で61䷼風沢中孚となる。
この卦は二本で一本とすれば☲離(火)となる。
残る若は、老を陽とした時の陰だからその極みの☷坤(地)となるので、長谷と合わせて35䷢火地晋となる。
この卦は、A列では32用明天皇すなわち33崇峻天皇の前の位置である。
また武烈天皇は、古事記に在位八年とある。
編年体ではない古事記で、一部の天皇だけ在位年数を書くのはどういう意味があるのか?
これも古代史研究者が謎とする部分でもあるが、だったらこれも暗号の可能性が高い。
そこでこの八という数字にちなみ、表向きの皇位継承順をここから数えてみる。
すると崇峻男帝が丁度八番目となる。
武烈一、継体二、安閑三、宣化四、欽明五、敏達六、用明七、崇峻八である。
これは、武烈の次は崇峻だと教えているのに他ならない。
したがって雄略(武烈)男帝の次は崇峻男帝となる。
対する女帝側は、安寧女帝の次は雄略男帝と同じ位置になるわけだが、雄略天皇のA列25䷘天雷无妄てんらいむぼうは、安閑天皇の元年となる皇紀一一九四年下二桁が示す卦でもあるので(九は☰乾(天)、四は☳震(雷))、そこは安閑女帝の位置となる。
安閑女帝以降は、位置を動かす暗号は見当たらないので、そのまま継体、欽明、用明、推古(舒明)、皇極(斉明)の順に詰めて並べる。
ただし用明は、すでにお話ししたように、元年の皇紀一二四六年下二桁が、四は☳震(雷)・六は☵坎(水)だから、40䷧雷水解らいすいかいを示し、この卦は解消を意味する。
したがって、実在はするが即位は解消すなわち皇女のまま即位することなく薨去した、ということになる。
また、すでにお話ししたように、推古と舒明は同一人物、皇極は斉明としての重祚はなかったと暗号は示している。
これでどうやら女帝側は皇極まで到達したが、これによって男帝側も崇峻、敏達、孝徳という順番が決まって来る。
これ以降は特に動かす暗号はないので、表向きから斉明を除外し、天智、天武と続ける。
ここまでを整理するために、男帝女帝それぞれを皇位継承順に並べておく。
どうやら大化の改心で男帝女帝の二王朝が統一されたような気配である。
女帝側 履中ー反正ー懿徳ー安寧ー安閑ー継体ー欽明ー用明ー推古(舒明)ー皇極(斉明)
男帝側 神武ー允恭ー綏靖ー雄略(武烈)ー崇峻ー敏達ー孝徳(聖徳太子)…天智ー天武
〇 分裂以前の一王朝時代
表向きの皇統譜の18履中天皇以降では、まだ24顕宗、25仁賢の二人が残っている。
すでにお話ししたように、この二人は女帝であり、国風諡号とA列との関係から、安寧、懿徳両女帝と同様に二人一組で動かした上で、その順序を逆にする。
古事記の顕宗天皇のところには在位八年で崩とあることから、動く先は、この八という数にちなみ、ここから遡って数えて八番目の仁徳女帝の次の位置となる。
仁徳、履中八、反正七、允恭六、安康五、雄略四、清寧三、顕宗二、仁賢一、である。
したがって仁徳、仁賢、顕宗の順になり、その仁徳女帝の位置は、残る崇神女帝、垂仁男帝、景行女帝、成務女帝、応神女帝と共に、古事記の崩年齢や日本書紀の崩年の数字を並べてみることで、次のように判明する。
崇神、垂仁、景行、成務の古事記の崩年齢は、百の位と十の位で、推古女帝からの女帝系の順序を示していたのである。
崇神は一六八歳だから一六番目、垂仁は一五三歳だから一五番目、景行は一三七歳だから一三番目、成務は九五歳だから九番目である。
さらに、応神は、日本書紀に四一年崩とあるが、この数字を逆にすると一四となるので、一四番目に置き、仁賢は日本書紀に一一年崩とあるので、一一番目に置く。これで左図のように、綺麗にまとまる。
〇 孝昭女帝と孝安女帝
最後に残った5孝昭女帝と6孝安女帝は、動かす暗号が見当たらないのでそのまま詰めて並べる。
そうすることで、A列B列と対応しなかった開化天皇の日本書紀に記載の崩年齢一一五歳と、推古女帝の日本書紀記載の崩年齢の七五歳も(共に分注として記載されたもの)、その意味が見えて来るのである。
開化天皇の一一五歳は、一は☰乾(天)だから、上二桁の一一で六十四卦の序次第1の䷀乾為天を示し、残る五は、そこから五番目の位置、と読めるので、表向きの皇統譜の、開化天皇が五番目となる位置が、真実の皇統譜の出発点である、と示していることになり、そこは丁度、孝昭女帝の位置となる。
したがって暗号は、皇祖は孝昭女帝だと示しているのである。
一方、推古女帝の七五歳は、七は☶艮(山)・五は☴巽(風)だから、18䷑山風蠱となる。
この卦は序次の18番目、孝昭女帝から数えると推古女帝も18代目となる(用明皇女を除く)。
なお、ここをクリックすると、架空の人物を見つけ、男女の別を探り、二王朝並立の新しい皇統譜が出て来るまでを図が表示される。
かなり大きな画像なので、縮小してここに張るよりも、クリックしてご覧いただく方がよいと考えた。
〇 本当の古代日本とは?
このように、古代日本は孝昭女帝に始まり、孝安、崇神と女帝が続き、突然男性の垂仁が一度だけ王となるも、その次からは再び代々女帝が支配し、履中女帝のときに男性の神武が分裂し、大化の改新まで二王朝が並立する、という様相を呈している。
この皇統譜を前提にさらに解読を進めると、おいそれとは信じがたい次のようなものだった。
詳細は次章以降に任せるが、あまりにも信じがたいことなので、まずイントロダクションとして、少しだけ簡単にお話ししておく。
古代日本は、なんと家督が母から娘へと受け継がれる母系母権制社会だったのだ。
女帝たちは自らを神格化し、あるおぞましい宗教儀式を行うことで、自分は死んでも魂は自分の娘の腹の中に宿り、やがて孫娘として蘇ることができる、と考え、その蘇りを繰り返すことで永遠に生き続けられると信じ、代々それを実行していた。
この時代には、男女が決まった相手とだけ夜を共にする夫婦とか結婚といった風習や制度はなく、気分次第で夜毎異なる相手と過ごしたり、大勢の男女が入り乱れて一夜を過ごすといったことが、日常的に行われていた。
したがつて生まれてくる子の父親は特定されず、その結果、男性に子の親という地位が与えられることはなく、生涯、母や姉妹などの女性の管理下で暮らしていた。
まして男性は、女帝の息子であっても、子供を産めないので蘇りは不可能なことから、その社会的立場は低く、生涯を通して言わば半人前としか扱われなかった。
としてもそれが当たり前の社会だったので、女性たちに虐げられても性的には満たされていたからか、男性たちは誰も不幸だとは感じなかった。
が、あるとき、蘇りなんかウソだ、そんな馬鹿げた宗教は捨てて、理性的に生きる社会にしたい、と主張する人物が現れた。
それが崇神女帝の息子の垂仁で、本名はヤタと言い、母親の崇神女帝の力添えもあって、崇神女帝が崩御すると、日本初の男性の王となった。
しかし世間からは結局受け入れられず、次の応神女帝から再び女帝が支配する世界に戻った。
とは言っても、そのヤタの考えは次第に日本各地に伝播し、やがて中央政府の目が届きにくい出雲や九州に、草の根的にその宗教改革の拠点ができて行った。
そしてついに、そんな宗教は捨てて、男性も女性から対等に扱われることを願い、倭の中央政府でも革命が起きた。
その革命の先頭に立ったのが神武天皇だったのだ。
これは大昔ではなく、大化の改新の約150年前のことだった。
以来、女帝と革命軍との二つの王朝が並立し、両者の抗争が続いたが、仏教の伝来もあって、女帝側の人々も少しずつ自分たちの宗教の悍ましさに気づき、次第に神武革命軍に寝返る人々が増え、ついに女帝側の勢力は衰えて降伏し、男性が女性と対等になれる社会へと、日本は舵を切った。
それが大化の改新であって、表向きの歴史でその時に殺された蘇我入鹿や自害した蝦夷は女帝政権を倒したことを教える暗号だった。
無論蘇我氏は架空の人物である。
蘇我は、蘇る我で、母が娘の腹を借りて孫娘として蘇ることを象徴して作られた名前だった。
母系母権制社会は、現行の父系父権制社会からすればかなり異質だが、司馬遷の史記、商君列伝第八でも周辺民族の野蛮な風習として、父子も何も関係なく男女が雑居する社会すなわち生まれて来る子の父親が特定できない社会の存在の記述があると共に、日本書紀でも景行天皇の四十年秋七月条に、蝦夷は男女交わり居りて父子の別なし、と、ほんのちょっとだけ、蝦夷の母系母権制社会らしき様子が書かれている。
日本書紀は、日本の皇室を中心とする人々は、その太初から父系父権制社会だったという建前の物語で、蝦夷は日本に住んでいた日本人ではない野蛮人であるかのように描いているが、その蝦夷こそ、紛れもない日本人の女帝たちが支配した社会を指していたのだ。
〇 中国奥地のモソ族の場合
さて、母系母権制社会は、中国雲南省の奥地に極く最近まで存在した。
モソ族とい少数民族である。
モソ族はチベット仏教を信仰しているので、流石に母が孫娘として蘇る、ということはなかったようだが、実はこのモソ族の存在が暗号解読の大きなヒントになった。
人類はその太初から結婚や夫婦といった制度・風習があったという歴史学者や宗教家の言葉を鵜呑みにしていたので、結婚や夫婦といった単位が存在しない社会など考えも及ばなかったからだ。
モソ族の集落は、かつては険しい道なき道を数日かけて歩いて行かなければたどり着けないところだったが、40年程前に道路が開通して車で行き来できるようになったことで、近年はメディアにも取材され、検索すればモソ族を紹介したサイトは数多くヒットする。
ただし、道路が開通したことで、中国中央政府を初めとする父系父権制社会との交流が頻繁になり、母系母権制社会の風習は失われつつあるようで、現代では観光客向けにかつての母系母権制社会の風習の一部を演じている、といったことのようである。
が、恐らく太古の時代は東アジア地域全域、いや世界中が母系母権制社会だったのであって、そこから脱却するために現行の夫婦・結婚という制度・風習を軸とした、父親を特定することに意義を持たせる社会へと移行したのだろう。
そのことを中国、いや世界中で歴史から抹殺して隠した。
だから日本書紀も表向きは隠した、ということのなのだろう。
ともあれ、次章では、その母系母権制社会の悍ましい宗教についてお話しする。
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