1、クーデターで二王朝に分裂!
前章では履中女帝が皇位を継承したところまでをお話しした。
ここでは、その先、履中女帝のときに起きた二王朝分裂について、お話しする。
母系母権制社会と食人による蘇りからの脱却を目指した壮絶な戦いの歴史の始まりである。
まずは、暗号解読の結果得られたことを整理して編年体でまとめ、解読法は後回しにする。
皇紀1135年乙卯=西暦475年
成務女帝崩により、履中女帝が即位。
この頃になると九州や出雲で、ヤタの意志を受け継ぐ人々により、母系母権制社会脱却に向け、女帝に対する抵抗運動が頻発し、履中女帝と娘の反正はその征討のために奔走するようになった。
その様子に成務女帝の息子で、履中女帝の甥に当たる神武が、機は熟したと考え、ついに女性と男性が対等になれる社会を造ろうと、立ち上がる決心をした。
皇紀1150年庚午=西暦490年〜大化の改新の約150年前
とある宴会の後、神武は履中女帝が寝ている屋敷に放火し、その足で美濃=現在の岐阜県美濃市付近に逃げ、そこを革命軍の砦とした。
神武は履中女帝に宣戦布告をするだけのつもりで放火しただけで、殺害するつもりはなかったようだが、履中女帝は逃げ遅れて焼死した。
神武が逃げる先を美濃としたのは、倭=畿内の近くでは、美濃地方が母系母権制社会脱却の草の根運動が盛んだったからだろう。
美濃市付近の現代の地図を見ると、武芸川の上流に大矢田神社という神社がある。
大矢田は。偉大なるヤタと称えているかのような地名ではないか。
おそらく神武は、この付近を革命軍の砦としたのだろう。
表向きでは、神武天皇は九州から東の倭へ来たことになっているが、事実は倭から東の美濃へ行ったのだった。
なおここからは、女帝政府との対比を明確にするため、革命軍の長を男帝と呼ぶ。
皇紀1151年辛未=西暦491年
履中女帝の長女の反正女帝が、母の敵討ちのために神武革命軍に攻撃を仕掛けた。
しかし甘く見たのか、逆に痛手を負い、それがもとで反正女帝は帰る途中に絶命した。
なお、女帝軍と言っても、実際に戦うのは男性兵士であって、命令を下すのが女帝やその部下の女性、といったところだろう。
皇紀1153年癸酉=西暦493年
神武男帝の弟の允恭が革命軍に参加。
神武と允恭は共に成務女帝の子なのだが、父親は判然としない。
おそらくこの頃になると、倭=飛鳥地方からは険しい山を越えるか、大阪や和歌山に出て、海路でないとたどり着けない例えば熊野など、女帝政府が簡単に鎮圧できないような地域を中心に、だったら我々もと、神武男帝の革命軍に同調して反旗を翻す事例もあったのだろう。
そして、古事記日本書紀編纂に当たっては、そういう事例も参考に、神武東征の経路が作られたのだろう。
皇紀1156年丙子=西暦496年
反正女帝の妹の懿徳女帝の軍が、大挙して美濃の革命軍を攻撃に来た。
反政府分子排除ということもだが、母と姉の敵討ちという意味合いも強かったのだろう。
対する神武男帝は、迎撃するに足る兵力が集まらなかったことから、女帝軍を罠に嵌める作戦を考えた。
攻めてきたら、速やかに改心服従するふりをして、彼女たちを接待する大殿(仮設の家屋)を建て、その中に押機=踏めば打たれて圧死するネズミ捕りのような仕掛けを仕込んで待ち伏せすることにした。
しかしそんなことではとても勝ち目はないと怖気づいた神武男帝の弟の允恭は、この情報を手土産に女帝側に寝返った。
計略を知った懿徳女帝軍は、神武男帝と対面し、その大殿を前にすると、「お前が建てた大殿には、まずお前が入り、我々に奉仕しようという姿勢を明らかにせよ」と、剣や弓矢で威嚇して追い詰めた。
逃げ場を失った神武男帝は、図らずも自分たちが造った押機に打たれて絶命した。
これで母系母権制社会脱却は夢と消えたのか……。
いや、そんなことはなかった。
一度は寝返った允恭男帝だが、本心から女帝に忠誠を誓ったわけではなく、女帝軍が引き上げると、革命軍をとりしきり、女帝政府からの要求はのらりくらりと返事を濁し、ささやかながら抵抗を続けていた。
皇紀1160年庚辰=西暦500年
いつまで経っても本心から服従しない様子の革命軍に痺れを切らしたのか、ついに女帝軍は、再び革命軍を攻撃し、允恭男帝を殺害した。
しかし革命軍は美濃の山中に隠れ棲んでいたので全滅することはなく、その志は神武男帝の息子の綏靖男帝に受け継がれた。
とは言っても、綏靖男帝は武勇を好まない心優しい性格だったこともあり、隠れ住んで女帝政府に服従しなかっただけで、戦略的なことを仕掛けるといったことは、何もしなかったようだ。
この頃は、ただ対立していただけで、衝突することはなく、穏やかに時が流れた。
なお綏靖男帝は、太安萬侶の父、多臣品治など多一族の先祖に当たる。
皇紀1192年壬午=西暦532年
懿徳女帝が蘇りのために自殺。
長女の安寧女帝が皇位継承。
また、この年には革命軍の綏靖男帝も崩御し、こちらは綏靖男帝の妹すなわち神武男帝の娘と允恭男帝との間に生まれた雄略男帝が引き継いだ。
皇紀1204年甲午=西暦544年
安寧女帝が蘇りのために自殺。
妹の安閑女帝が皇位継承。
この時代は対立していたとしても穏やかな日々が続いた女帝政府と革命軍だが、雄略男帝が革命軍を引き継いでからは、美濃の山中に隠れ住みながらも、女帝政府を武力攻撃する準備を着々と進めていた。
皇紀1218年戊寅=西暦558年
雄略男帝を長とする革命軍が、いよいよ倭=飛鳥地方に乗り込み、女帝政府の城の近くに革命軍の砦を築いた。
皇紀1219年己卯=西暦559年
倭に乗り込んだ革命軍は、手始めにこの年、安閑女帝を殺害した。
と同時に、食人による蘇りの愚かしさを知らしめるための実力行使も行った。
妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、それが神でも母の魂が宿ったものでもないと分からせようとしたりと、いささか乱暴なことも行われたようだ。
しかし、それでもマインドコントロールは解けるものではなく、安閑女帝の後は娘の継体女帝が引き継ぎ、相変わらず食人による蘇りを行っていた。
皇紀1226年丙戌=西暦566年
そうこうしているうちに雄略男帝は崩御し、革命軍は息子の崇峻男帝が引き継いだ。
ここまでのところを系図にすると左図のようになる。
表向きの歴史では、21履中天皇崩は皇紀1065年=西暦405年、暗号では、履中女帝崩は皇紀1150年=西暦490年と、約90年後ろにずれている。
表向きでは25仁賢天皇の時代(皇紀1148年=西暦488年即位〜皇紀1158年=西暦498年崩)である。
また、26武烈天皇崩は皇紀1166年=西暦506年だが、暗号では、武烈は雄略と同一人物であり、皇紀1226年=566年崩となる。
丁度、干支一巡後ろにずれている。
表向きでは30欽明天皇の時代(皇紀1200年=西暦540年即位〜皇紀1231年=西暦571年)である。
が、この辺で一区切りとして、次に、ここまでの暗号解読法についてを、お話しする。
なお、解読のプロセスはどうでもいいから、解読して得た歴史だけを知りたい、という場合は、第九章の1に飛んでください。
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