危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第八章 第九章 第十章
第七章 大神神社の秘密〜すべてはヤタから始まった!
1、母系母権制社会脱却に失敗 2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号 3、ヤタという名前 4、日本最古の年代特定できる年 5、景行〜履中女帝までの年代
5、景行〜履中女帝までの年代
〇 景行女帝7人の年代
乱数表(易の理論)
応神女帝に続く景行女帝は計7人だと第七章の2でお話ししたが、まずは7人全体で何年間なのかを探る。
手掛かりは例によって日本書紀の数字の矛盾である。
12景行天皇の即位前紀には、11垂仁天皇の37年=皇紀668年に21歳で皇太子となったとあり、景行60年=皇紀790年に崩御し、その時の年齢を106歳としている。
しかし垂仁37年に21歳ならば、計算すると、21+(790−668)で143歳になる。
この143歳と106歳の差は37で、丁度皇太子になったとする垂仁37年という数字と一致する。
とすると、皇太子になったとする年に注目させようとしていることになる。
その皇太子になったとする年から崩御年までは、790−668で122年である。
したがってこの122年が景行でひとまとめにした7人の全在位期間なのであって、景行の最後、景行G女帝が蘇りのために自殺した年すなわち崩年は、応神女帝崩の皇紀934年の122年後の皇紀1056年丙申=西暦396年だった、ということである。
そこで、残りの景行A〜Fだが、それは左図のように、記事が毎年ではなく、不連続となるところから割り出された。
この不連続となる箇所は全部で七ヶ所あって、景行女帝として括られた七人と數が一致する。
とすると、この不連続の年と同じ干支の年が即位年で、崩年はその前年、順番は記事の最初の日付を易の卦に置き換えることでわかるようになっている、と考えるのが一番適切である。
次のように考えられるからだ。
易を知る者に対して分かりやすく暗号化するには、日付という無機質なものを利用するのが最適だからである。
歴史的事実を書いたものではないのだから、日付は自由に設定できる。
物語の文中に暗号を組み込むと、どこに暗号があるのか探すのに苦労するから、それは避けるはず。
一番分かりやすい場所にあってこそ、暗号を見つけて貰える。
なお、干支は60年で一巡し、元年は辛未で60年庚午の次となるので、ここは60年から連続しているものとして、不連続とはしない。
まず、景行の最初、景行A女帝だが、応神女帝が934年甲午崩なので、その翌年の乙未歳が即位年となる。
景行天皇の時代で乙未歳は25年になる。
この景行25年乙未歳の記事の最初の日付の干支は壬午で、易の卦に置き換えると壬は☵坎(水)・午は☲離(火)なので、序次63䷾水火既済となる。
とすると、続く景行B女帝は、日付の干支が序次63番目の䷾水火既済の次、64番目の䷿火水未済となる年が一番相応しい。
この卦を示すのは40年庚戌歳の夏六月とある日付けだ。
夏は☲離(火)・6は☵坎(水)だから、64䷿火水未済となるのだ。
したがって景行B女帝即位年は、計算すると皇紀950年庚戌歳となり、A女帝崩は前年の皇紀949年己酉歳となる。
順番からすれば次は景行C女帝だが、説明の都合により後回しにし、次は景行D女帝の即位年を割り出す。
景行D女帝は4代目だからアルファベットの4番目のDと呼んでいる。
このことを念頭に各年の最初の記事の干支を眺めてみると、景行17年の己酉が目に止まった。
己酉は、己(土弟)は☷坤(地)・酉は☱兌(沢)だから、合わせて19䷒地沢臨となる。
この卦は二本で一本と見なせば☳震(雷)になる。
☳震(雷)が示す数は4である。
したがって、この景行17年丁亥と同じ干支の年すなわち皇紀987丁亥歳が、4番目である景行D女帝の即位年となる。
景行E女帝は、C女帝と同様これまた後回しにして、次は景行F女帝を割り出す。
景行F女帝は景行6代目である。
景行51年の最初の記事の日付の戊子は、易の卦に置き換えると、戊は☶艮(山)・子は☵坎(水)だから、合わせて4䷃山水蒙になる。
4䷃山水蒙は序次4番目だから、63䷾水火既済から数えると6番目になる。
@63既済、A64未済、➂1乾、C2坤、➄3屯、E4蒙…である。
63䷾水火既済を示す日付は景行A女帝すなわち景行初代のものだった。
したがって6代目の景行F女帝の即位年は、この景行51年辛酉と同じ干支の年なのであって、それは皇紀1021辛酉歳となる。
これで景行A、B、D、F女帝の即位年が確定したわけだが、これにより残っているE女帝とG女帝の即位年も判明する。
景行27年の最初の記事の日付の壬子を易の卦に置き換えると、壬も子もともに☵坎(水)だから、合わせて29䷜坎為水になる。
また、景行12年の最初の記事の日付の秋7月を易の卦に置き換えると、秋は☱兌(沢)・7は☶艮(山)だから、こちらは31䷞沢山咸になる。
序次では、29䷜坎為水の次の次が31䷞沢山咸である。
残っている景行C、E、Fの中では、次の次という関係は、景行CとE、景行EとGである。
年代を考えれば、景行27年丁酉と同じ干支の皇紀997年丁酉歳が景行E女帝の即位年、景行12年壬午と同じ干支の皇紀1042年壬午歳が景行G女帝の即位年となる。
なお、皇紀997年を景行Cの即位年とすると、次の景行Dの即位年の皇紀987年より後になってしまうので、これはない。
最後に残った景行60年の最初の記事の日付の辛卯を易の卦に置き換えると、辛は☱兌(沢)・卯は☳震(雷)だから、合わせて17䷐沢雷随となる。
随は「したがう」という意味だから、随ってこの残った景行60年庚午と同じ干支になる皇紀970年庚午歳が、景行Cの即位年となる。
これで景行A〜G女帝までの即位年が出揃ったわけだが、即位は前帝崩の翌年を例としているので、それぞれの即位前年が前帝の崩年となる。
整理してまとめると次のとおり。
景行A女帝=皇紀 949年己酉歳(西暦289年)崩。
景行B女帝=皇紀 969年己巳歳(西暦309年)崩。
景行C女帝=皇紀 986年丙戌歳(西暦326年)崩。
景行D女帝=皇紀 996年丙申歳(西暦336年)崩。
景行E女帝=皇紀1020年庚申歳(西暦360年)崩。
景行F女帝=皇紀1041年辛巳歳(西暦381年)崩。
景行G女帝=皇紀1056年丙申歳(西暦396年)崩。
〇 仁徳女帝から履中女帝の年代
景行G女帝に続く仁徳女帝は、古事記に丁卯年八月十五日崩とある。
八月は十二消長卦では20䷓風地観となり、この卦は仁徳天皇のA列である。
十五日は、正式表記の一十五として易の卦に置き換えれば<一は☰乾(天)・五は☴巽(風)だから、合わせて44䷫天風姤となる。
44䷫天風姤は女帝を意味するので、仁徳が女帝だということを示していることになる。
第五章の1でお話ししたように、真実の歴史への入口は、この仁徳が女帝だということだった。
そんな解読のキー・ポイントだからこそ、この崩年の日付も念を押すように、20䷓風地観と44䷫天風姤に繋がる数字としたのだろう。
そこで干支の丁卯だが、景行G女帝崩の皇紀1056年以降から探すと皇紀1087年となる。
下二桁の87は、日本書紀の仁徳天皇が即位元年から87年目に崩御したとするのと一致する。
したがってこの皇紀1087年丁卯=西暦427年が仁徳女帝の崩年となる。
仁徳女帝に続く仁賢女帝は、日本書紀に即位から11年目に崩とあり、他に暗号はないので、仁徳女帝崩の11年後になる皇紀1098年戊寅=西暦438年が崩年となる。
仁賢女帝に続く顕宗女帝の崩年は、その次の成務女帝の即位年から導き出される仕組みになっていた。
日本書紀の成務天皇の即位前紀では、景行天皇の46年=皇紀776年に24歳で立太子とあると共に、即位から60年目=皇紀850年に107歳で崩御とある。
またまた数字の矛盾である。
皇紀850年に107歳ならば、立太子の776年には33歳のはず。
計算すると、107−(850−776)=33、である。
立太子が24歳とすることとの誤差は33−24で9年。
また、景行天皇のところでは、成務天皇の立太子は景行51年=皇紀781年のことだとしていて、これも合わない。
そこで、これらの数字の意味を探る。
まず、景行46年に24歳で立太子の46だが、4は☳震(雷)・6は☵坎(水)だから、合わせて40䷧雷水解で解消という意味になるので、これは、立太子は解消だと示していることになる。
また、崩御時に107歳ということから計算した立太子の時の年令の33歳は、3は☲離(火)だから30䷝離為火となり、この卦は皇位継承を意味する。
したがってこれらの数字は24歳に立太子ではなく、前帝から皇位を継承したのだと教えていることになる。
とすると成務の生年がわかれば皇位継承の年も計算できることになる。
成務の生年についてを探る手がかりは、まず日本書紀の成務3年条の、3年春正月癸酉朔己卯に、武内宿祢を大臣とした、とあると共に、この武内宿祢と成務天皇は同じ日に生まれた、という記事だ。
その武内宿祢の出生については、景行天皇の3年条に、次のように書いている。
景行天皇は紀伊国の神々の祭祀を行おうとしたが、占いが吉ではなかっので取りやめ、配下の一人に行かせた。
彼はその地で神々の祭祀を行うと共に9年間その地に住み、妻を娶って武内宿祢を生んだ。
これによれば、成務と武内宿祢は同じ日に生まれたのだから、成務は武内宿祢と同じく景行3年からの9年間に生まれたことになる。
9年と言えば、景行46年に24歳で立太子という記事と、崩御時107歳から立太子の年令を計算したときの誤差も9年である。
とすると、この9年の矛盾で、武内宿祢の生年でもある成務の生年は、9年間を無視した最初の年、景行3年だと示していることになる。
すなわち景行3年と干支が共通する年に成務女帝は生まれ、24歳のときに皇位を継承した、ということである。
景行元年は辛未なので、生まれた3年は癸酉になる。
また、景行天皇は在位が干支一巡の六十年なので、成務天皇も元年は辛未で、3年は癸酉になる。
その成務3年春正月条で、成務と武内宿祢が同日生まれだと記し、しかもこの記事の冒頭の朔干支も癸酉とあり、殊更に癸酉が強調されている。
したがって成務女帝は景行3年や成務3年と干支が共通する癸酉歳に生まれ、24歳のときに皇位を継承した、と暗号は示しているのだ。
癸酉に生まれたとして計算すると、24歳になるのは丙申歳となる。
そして前帝崩の翌年が即位年なのだから、その丙申の前年の乙未が顕宗女帝の崩年となる。
仁賢女帝崩の皇紀1098年以降から探せば、顕宗女帝崩は皇紀1115年乙未歳=西暦455年となる。
なお、景行51年の成務天皇立太子記事は、数字の矛盾に気付かせると共に、成務女帝が履中女帝の前帝だと教えるためのものだった。
51を易の卦に置き換えると、5は☴巽(風)・1は☰乾(天)だから、9䷈風天小畜となり、この卦は六十四卦の序次で10䷉天沢履の前に位置し、10䷉天沢履と言えば履中の履の字を連想させるのである。
そこで履中女帝の前帝でもある成務女帝の崩年だが、古事記には、成務天皇は乙卯年三月十五日崩とある。
この崩年干支は日本書紀の記述とは一致しないし、表向きの歴史からは何を意味しているのかさっぱりわからない。
しかし、ここまで暗号を解読してみると、ああ〜なるほど、と、簡単にわかってしまうのだ。
成務女帝の崩年は、乙卯歳で、なおかつ三月十五日から月と日の字を抜いた三十五となる年だ、と示していたのだ。
顕宗女帝崩の皇紀1115年以降で乙卯を探せば、皇紀1135年に当たり、下二桁はその三十五ではないか。
したがってこの皇紀1135年乙卯歳=西暦475年が成務女帝の崩年となるのである。
左図は崇神、垂仁(ヤタ)、応神、景行A〜G、仁徳、仁賢、顕宗、成務までの崩年を系図に合わせたものである。
表向きの歴史からは全く想像できない系図だが、これまでの歴史学者が意味不明としてきた日本書紀の干支や数字の矛盾と古事記の崩年干支月日から、各人の崩年が導き出されたのだ。
私も易を知るまでは、こんな暗号だとは思いも寄らなかった。
が、これからは二王朝並立というさらに複雑な歴史を暗号は教えようとしている。
なぜ、履中女帝のときに神武男帝が分裂したのか?
二王朝並立とはどういうことなのか?
興味は尽きない。
実は、この先の暗号解読には、かなり時間がかかった。
暗号が複雑に入り組んでいて、それらを整理するのに手こずり、試行錯誤のくり返しだった。
が、とにかく最終的に全解読にこぎつけたから、この文章を書いている。
次章では、その履中女帝から神武男帝が分裂した経緯から話を進めたい。
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