1、仁徳天皇に隠された秘密
〇 古事記序文での仁徳天皇の扱い
前章では、古事記に記載された各天皇の崩年齢のうち、A列B列と繋がらない1神武・12景行・14仲哀・17仁徳・21安康の五人の天皇(参考 歴代天皇と六十四卦の序次の表)のうちの1神武・12景行・14仲哀の三人の年齢は、皇紀元年が辛酉革命理論によって机上で算出されたものだと教え、安康の56歳は持統天皇暗殺事件を教えていて、そこから草壁皇子の出生疑惑に端を発した隠された歴史が浮上する、ということをお話しした。
この章ではまず、残る未解明の仁徳天皇の八三歳を探る。
としてもこの八三歳は、仲哀天皇の五二歳や安康天皇の五六歳のように、皇紀下二桁と考えても何も見つからず、どう手をつけてよいのか、当初はわからなかった。
が、そうこうしているうちに、古事記序文にヒントを見つけたのである。
古事記序文には、仁徳天皇について、ちょっと気になる記述があるのだ。
古事記序文には計六人の天皇が登場する。
神武、天武、元明、推古、応神、そして仁徳である。
ただしこの六人全員を天皇とは表記していない。
神武天皇は神倭天皇、神倭伊波礼毘古天皇とあり、これは古事記の国風諡号によるものである。
天武天皇は飛鳥清原大宮御二大八州一天皇(書き下し=飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇)としている。
これは名前ではなく、政治を行った場所を示しているのだが、とにかく天皇と表記している。
ところが古事記撰進の和銅五年当時の元明天皇には「伏して惟ふに皇帝陛下」と、皇帝という言葉を使っている。
元明天皇は女帝で、この皇帝陛下は、暗号では同じく女帝の持統天皇のことでもあった。
推古天皇は小治田御世、小治田大宮と表記している。
少治田は政治を行った場所の地名で、推古天皇は史上初の女帝である。
応神天皇は品陀御世と表記していて、これは古事記の国風諡号の品陀和気を略したものである。
仁徳天皇は大雀皇帝と表記していて、古事記の国風諡号に、天皇ではなく皇帝とつけたものである。
なぜ神武と天武だけは天皇と表記し、他は天皇と表記していないのだろうか。
〇 本居宣長の見解
本居宣長は古事記の注釈書『古事記伝』で、「天皇、御世、皇帝、大宮は、文をかへてあやとせるなり」と、文章を飾るための言い換えであって、取り立てての意味はない、としている。
が、果たしてそうだろうか。
少なくとも、誰を正式な表記とし、誰を言い換えるかを決めるときには、何らかの思い入れが入るはずだ。
太安萬侶にとっては、神武天皇と天武天皇は他の天皇とは違う特別な存在だからこそ天皇と表記し、その思いを伝えたくて他は違う言葉で言い換えた、ということではないだろうか。
そうしてみると、なぜ神武と天武は特別な存在で、他の天皇と何が違うのか、ということになる。
そこで、その違いを探る。
天皇と表記されている神武と天武と決定的に違う要素を持っているのは、皇帝陛下の元明天皇と、小治田御世、小治田大宮と表記されている推古天皇で、言うまでもなく女帝である。
推古天皇は歴史上はじめての女帝で、その後は皇極・斉明天皇、持統天皇と、女帝も即位するようになり、暗号では稗田阿礼も女帝として皇位に就いていたとあり、古事記撰進時の元明天皇、日本書紀撰進時の元正天皇も女帝で、この間の男性の天皇は、舒明天皇、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、文武天皇である。
このとを念頭に、改めて古事記本文を確認してみる。
〇 推古天皇は、実は天皇ではなかった!?
古事記では、武烈天皇以降は皇統譜に属する事柄以外は何も記載されていないので、各天皇についての記事はどれも短いのだが、注意深く文字を確認してみると、今まで見過ごしていた特異な点があった。
推古天皇だけは、一度も天皇と表記していないのである。
原文はこんな感じである。
32用明天皇(国風諡号=橘之豊日)の場合。
弟、橘豊日命、坐池辺宮、治天下参歳。此天皇、娶稲目宿祢大臣之女、意富芸多志比売、生御子、多米王…(以下略)<原文>
弟、橘豊日命、池辺宮に坐しまして天の下治らしめすこと参歳なりき。此の天皇、稲目宿祢大臣の女、意富芸多志比売を娶して生みませる御子、多米の王…(以下略)<書き下し>
33崇峻天皇(国風諡号=長谷部若雀)の場合。
弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歳。壬子年十一月十三日崩也。御陵在倉椅岡上也。(全文)<原文>
弟、長谷部若雀天皇、倉椅の柴垣宮に坐しまして、天の下治らしめすこと肆歳なりき。壬子年十一月十三日崩也。御陵は倉椅の岡の上に在り。(全文><書き下し>
34推古天皇(国風諡号=豊御食炊屋比売)の場合。
妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下参拾漆歳。戊午年三月十五日癸丑崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。(全文)<原文>
妹、豊御食炊屋比売命、小治田宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、参拾漆歳なりき。戊午年三月十五日癸丑崩。御陵は大野の岡の上に在りしを、後に科長の大き陵に遷しき。(全文)<書き下し> ※32用明、33崇峻、34推古は全員30欽明天皇の子で、長子は31敏達天皇。
崩年干支月日は分注として記されているので、ここでも字を小さくした。
橘豊日命は用明天皇のことで、名前の最後に天皇とはつけてないが、文章の途中で此天皇と、天皇であることを示している。
古事記に記載された全天皇の中で記事の文字数が一番少ない崇峻天皇も、ちゃんと長谷部若雀天皇と、天皇と呼んでいる。
他の神武以来敏達までの全天皇も命=みことと表記されることも多いが、必ず文中で最低一回は天皇と表記している。
しかし推古天皇についての記事では、豊御食炊屋比売命とあるだけで、一度も天皇とは表記していない。
何故、推古天皇だけは天皇と表記していないのだろうか。
もちろん日本書紀では、ちゃんと天皇と表記している。
そしてこんな特異なことなのに、本居宣長の古事記伝では、この事にひと言も触れていない。
本居宣長は古事記の文章を事細かに調べて古事記伝を書いたわけだが、このような本を書くからには推古天皇だけ天皇と表記していないことに気づいていたはず。
普通、本の読者は、書いてある内容を追いかけるだけで、些細な書き方の違いは気にしない。
だから、言い訳がましくお恥ずかしいことだが、これまでの私も、気にも留めず、見逃していた。
しかし本を作る側は違う。
原稿を書き上げたら、文字の書き間違いがないかを事細かくチェックするので、たったひとり天皇と表記されていなければ、そのチェックのときに引っ掛かるもの。
引っ掛かった個所は、元にした資料から、これで間違いがないことを再度確認して、漸く出版となるものである。
したがって本居宣長は当然気づいていて、そこに違和感を持ったはずである。
しかしこの推古天皇だけ天皇と表記していない事実については、何も触れていない。
岩波大系本の解説も、古事記伝を基本としているからか、同様に、この件には触れていない。
が、とにくか、この本居宣長の態度は何か変だ。
これをどう説明したらよいのだろうか。
宣長は何かを知っていたから、このことには触れたくなかった、ということではないだろうか。
もっと言えば、宣長は古事記研究の前に、すでに日本書紀も詳しく読んでいたわけで、当時は学問の基礎として易もそこそこ知っていたはず。
とすると、古事記日本書紀の暗号はすべて解読していた、ということではないだろうか。
しかし真実を知るのは朝廷や幕府の上層部だけでよく、一般に知らせる必要はない、とするのが当時の社会。
宣長は朝廷あるいは幕府と相談し、一般向けの古事記伝では、その暗号と深く関わる事柄は敢えて避け、むしろ読者を暗号から遠ざけるために、古事記は文字の使い方や意味は気にせず、音だけを頼りに読むべきだ、といった主張をしたのではないだろうか。
すなわち、推古を天皇と表記していないことに、暗号としての特別な意味があるからこそ、宣長は敢えて触れなかった、ということである。
そこでその理由だが、最も簡単でわかりやすい答えは、女帝だから、ということだ。
〇 仁徳天皇を始め古代天皇の数多くは、実は女性だった!
序文に登場する皇帝陛下の元明天皇も女帝である。
とすると、暗号としては、天皇は男性の王に対しての言葉であって、男性ではない人物を皇帝や御世といった言葉で言い換えたと考えるのが順当である。
大雀皇帝の仁徳天皇や、品陀御世の応神天皇は、実は女帝だったのを、歴史を偽るために男性であるかのように描いた、ということだ。
そうしてみると、仁徳天皇の古事記の崩御時の年齢の八三歳の意味が見えてきた。
八三を易の卦に置き換えると、八は☷坤(地)、三は☲離(火)だから、合わせて36䷣地火明夷となる。
明夷は明るさを破るで、☲離(火)の太陽が☷坤(地)の大地の下に入り、世の中が暗くなり、夜陰に乗じて善が踏みにじられるとき、といった意味なのだが、
☷坤(地)は大地、☲離(火)は女性を意味するので、大地の下に女性が眠る形でもある。
したがって、あの大きな仁徳天皇陵に眠るのは女性だ!と示していることになるのである。
仁徳天皇は仁徳溢れる理想的な天皇であるかのように描かれているが、そんな人物も実は女帝だ、ということは、推古が初めての女帝だったのではなく、古代はかなり多くが女帝だった、ということになる。
〇 架空の天皇
また、第三章の2で、古事記序文の「日浮かびて暉を重ね」を、架空の天皇を創作して並べた、という意味だとしたが、その架空の天皇が誰なのかも気になる。
この解読が正しいのならば、神武から持統までの全41人の天皇の名前などに、男性、女性、架空の違いが示されているはずである。
そこで、どうすればそれが判然とするのかを探った。
といっても、そう簡単なことではなく、実は、かなり試行錯誤をした。
言うなれば、41ピースのジグソーパズルを組み立てる、といった感じだった。
が、漸くすべてが矛盾なく繋がるひとつの答えに辿り着き、その結果、まず、次のように分類された。
架空の天皇
7孝霊、8孝元、9開化、14仲哀、15神功、21安康、23清寧、29宣化、
男性
1神武、2綏靖、11垂仁、20允恭、22雄略・26武烈、31敏達、33崇峻、37孝徳、39天智、40天武、
女性
3安寧、4懿徳、5孝昭、6孝安、10崇神、12景行、13成務、16応神、17仁徳、18履中、19反正、24顕宗、25仁賢、27継体、28安閑、30欽明、32用明、34推古・35舒明、36皇極・38斉明、41持統、
このうち、雄略と武烈は同一人物の男性、孝徳は聖徳太子のこと、推古と舒明は同一人物の女性だった。
いくら何でも馬鹿げている、とも思ったが、どうしても暗号はそう示していて、さらに解読を進めると、表向きとは似ても似つかない次図のような皇位継承の順番が浮上したのである。
このように、日本の歴史は孝昭女帝に始まり、崇神女帝の次に垂仁が初めての男性の王となるが、一代限りで、次の応神女帝から再び女性が王となり、それが延々とつづき、履中女帝のときに神武が分裂して男性の王となる勢力が別に誕生し、表向きの大化の改新の頃に、女性の王朝と男性の王朝が統一されて、ひとつの王朝となった、といったカンジなのだ。
この皇位継承順に基づいて、改めて日本書紀と古事記の本文を読み、登場人物の名前などを易の卦に置き換えつつ探ると、なぜ分裂したのか、女帝の王朝と神武から始まる男性が王となる勢力とは何が違うのか、それがやがて、どうやって統一されたのか、神社・神道とは何のために作られたのか、なぜこの歴史を隠したのかなど、その経緯のすべてが、その年代と共に明らかになっていったのだ。
が、その話を円滑に進めるためにも、どうしてこのように架空の天皇、男性、女性に分類されるのかから、お話しする。
前ページ ページTOP 次ページ
|