危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第八章 第九章 第十章
第七章 大神神社の秘密〜すべてはヤタから始まった!
1、母系母権制社会脱却に失敗 2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号 3、ヤタという名前 4、日本最古の年代特定できる年 5、景行〜履中女帝までの年代
3、ヤタという名前
〇 古代人の名前=字名(あざな)
第二章でお話ししたように、古事記日本書紀の登場人物の名は、基本的に太安萬侶と舎人親王が創作したものだったわけだが、垂仁男帝は真実の歴史にとっての最重要人物のようで、暗号で本当の名前=字が示されていた。
字とは字名とも書き、その人が自分で名乗った本名あるいは通名といったものである。
古事記には、垂仁天皇の妃のひとりとして、阿邪美能伊理毘売命という名がある。
阿邪美能伊理毘売は、文字の順をちょっと入れ替えると阿邪能美伊理毘売で「字のみ入り姫」すなわち「字名を姫(女性)の名の中に入れておいた」という意味になる。
とすると、どの姫の名の中に垂仁男帝の字名が入っているのか、ということになるが、他の妃や子の名前には、それと思しきものはなかった。
そこでもう一度確認してみた。
古事記では阿邪美能伊理毘売命のほかに、いろいろな女性との間にいろいろな子が生まれたと、それぞれ名前を挙げている。
そんな中に、佐波遅比売命が産んだ子の名として品牟都和気命という名があった。
この名は応神天皇の国風諡号の品陀和気に似ている。
暗号では、垂仁男帝と応神女帝の間には子が生まれているのだから、応神天皇の国風諡号と似た名というのは何かありそうではないか。
古事記の応神天皇のところには、九人の妃とその子たちの名がある。
その中に、丸邇之比布礼能意富美の娘の宮主矢河枝比売を娶して宇遅能和紀郎子と八田若郎女などを生んだ、という記事があった。
原文=娶二丸邇之比布礼能意富美之女、(自レ比至レ美以レ音)、名宮主矢河枝比売一、生御子、宇遅能和紀郎子、次妹八田若郎女、女鳥王、(カッコ内は分注)
日本書紀では、次妃和珥臣祖日触使主之女宮主宅媛、生二菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女一、と表記。
このうちの宇遅能和紀郎子は、日本書紀では菟道稚郎子と表記され、応神十六年(皇紀945年・西暦285年)に、百済から日本にやって来た王仁という人物から、日本で初めて漢籍を教わったとあり、古事記では王仁は和邇吉師と表記され、初めて百済から日本に論語を持って来た人物としている。
論語と言えば仁、仁と言えば垂仁、繋がるではないか。
やはりこの名前は垂仁男帝と関わりがあるに違いない。
ただし垂仁男帝が論語を読んで仁を垂れた、ということは有り得ない。
古事記では、このとき和邇吉師は論語と千字文を一緒に持って来たとしているが、千字文はもっと後の時代、中国の南北朝時代の終盤、隋の統一の少し前に作られたものなので、この時代に持って来ることはできない。
したがってこの記事は、論語という書名を出すことで、垂仁男帝と和邇吉師とに暗号として関連があることを教えているのであって、論語や千字文すら伝わっていない時代に、垂仁男帝が自分で仁を思いついたのだ、と教えていたのだ。
そこでまず、和邇と同じように「わに」と読む丸邇から始まる丸邇之比布礼能意富美を探る。
なお丸を「わ」と読むのは、日本書紀が丸邇に相当する部分を和珥と表記しているからであると共に、丸は輪のことでもあるからである。
が、とにかく易の卦に置き換えてみる。
乱数表(易の理論)
丸邇の丸は丸いものすなわち太陽の形とすれば☲離(火)・邇は何度も出て来たように☰乾(天)だから、丸邇で垂仁天皇のA列の14䷍火天大有となる。
また、丸を円のこととすれば、陰陽で弁別するときは、陽は円、陰は方形とするので、丸=円は☰乾(天)となり、この場合は丸邇で1䷀乾為天となる。
1䷀乾為天は六十四卦の序次の第一だから、物事の始まりを意味する。
とすると、丸という字を使うことで、☰乾(天)と☲離(火)の二つの卦を示し、14䷍火天大有と1䷀乾為天の二卦で何かを伝えようとしているのであって「始まりは垂仁天皇=垂仁男帝だ」と読み取るのが一番素直だ。
続く之比布礼能意富美は文字の順を入れ替え、之も万葉仮名として「し」と音読みすれば、意富能美比礼布之で「おほのみひれふし」で「多のみ平伏し」と読める。
意富は多一族すなわち太安萬侶を指すとすれば、太安萬侶は真実の歴史を知っている人物である。
したがって、丸邇之比布礼能意富美という名は、「真実を知っている人は、すべては垂仁天皇から始まったとして平伏す」と伝えていることになる。
やはりこれが暗号だということだ。
そこで、その娘の宮主矢河枝比売という名前を探ったのだが、これはどう易の卦に置き換えたり、文字を入れ替えたりしても、メッセージは読み取れなかった。
が、この妃が生んだ子の名、宇遅能和紀郎子と八田若郎女は何かを伝えている風情だ。
宇遅能和紀は「氏の脇」のこととすれば、氏の脇に添えるものこそ字名だからだ。
とすると、続いて記載されている八田若郎女という名こそが、垂仁男帝の字名を示していることになる。
すなわち八田若郎女から地位を示す若郎女を取った八田=ヤタこそが、垂仁男帝の字名、本名だったのだ。
そして日本書紀で八田若郎女を矢田皇女としているのだから、ヤタという音だけが重要で、漢字でどう書こうと、それは関係ない、ということだ。
ヤタ…何やら頼りない名前だが、考えてみると神武天皇東征物語で神武一行を助けた八咫烏や、三種の神器のひとつ八咫鏡など、ヤタという名は古事記の中で重要なポジションにある。
したがって神武東征も三種の神器も垂仁男帝であるヤタの理想を実現することが目的だった、ということである。
さて、この垂仁男帝=ヤタが、食人による蘇りを止めさせるための宗教改革はいつのことだったのだろうか。
これはヤタの母親である崇神女帝、表向きの崇神天皇の妃の名から明らかになった。
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