1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味
乱数表(易の理論)
第二章の中でお話ししたように、各天皇の古事記に記載された年齢のうち、A列B列と繋がりのないのは、神武137歳、景行137歳、仲哀52歳、仁徳83歳、安康56歳の五人の天皇である。
このうち神武、景行、仲哀の三人の年令は、第一章でお話ししたように、古事記撰進の日付と繋がっていたのだが、これは、古事記と日本書紀は同時に作成されたものだ、と、読者に教えるためのものと、考えられる。
少なくとも私はそう考えたからこそ、こうして解読を試みたのだ。
その解読の結果わかったことは、まず、仲哀天皇の52歳が、神武天皇即位年が辛酉革命理論によって机上で算出したものであることを、教えている、ということである。
暗号解読の具体的な例として、少し詳しくお話ししよう。
〇 数字の矛盾で真実を教える仕組み
仲哀天皇は古事記日本書紀共に、崩御時の年齢は52歳だと記載している。
しかし日本書紀の本文の記述から計算すると、崩御時に52歳とあるのは矛盾しているのだ。
この矛盾は岩波大系本の頭注でも指摘していて、それは次のようなことである。
@ 仲哀天皇は成務天皇の48年=皇紀838年に皇太子となり、その時31歳だったとある。
A その後、成務60年=皇紀850年に成務天皇が崩御。
➂ その翌々年の皇紀852年に仲哀天皇が即位。
C 即位から9年目の皇紀850年に52歳で崩御とあるのだ。
➄ 皇紀838年に31歳ならばその22年後の皇紀860年には52歳ではなく53歳のはずである。
E しかし仲哀天皇崩の記事では、崩年齢を53歳ではなく52歳としていて、矛盾しているのだ。
31+22=53 単純な計算だ。
現代のような誕生日を基準とした満年齢ならば、誕生日を迎えると53歳となる年の誕生日前に崩御したから52歳とあるのだ、ということもあるかもしれないが、この時代は毎年正月とともに歳を取る数え年なので、それは有り得ない。
実はこういった数字の矛盾は、日本書紀には随所にあり、これまでの研究では単純な計算ミスあるいは編纂に当たって集めた資料の信憑性を考慮し、矛盾した伝承もそのままにしておいたのだろう、などと推測されていて、深く考察されることはなかったようだ。
が、暗号を仕掛けた文書であるのなら、こういった矛盾こそ、真実を教えるための暗号の可能性が極めて高い、というものである。
そこで、暗号なら、何をどう伝えようと考えてこの数字を書き入れたのだろうか、という視点で考えた。
思い浮かんだのはふたつの方法である。
ひとつは、易の卦に置き換えて意味を持たせること。
もうひとつは、その数字で別の記事を指定して、その記事に新たな暗号を仕込んで真実を伝えること、である。
そもそも易の卦に置き換えるだけでは単純なことしか伝えられない。
とすると、この両方を使って暗号は成立していると考えるべきだろう。
仲哀天皇の52歳は元年の852年下二桁であると同時に、古事記序文最後の撰進の日付、皇紀1372年=和銅5年正月28日の 5正28 とも繋がっている。
まずは、この数字を易の卦に置き換えてみたのだが、これといった暗号らしいメッセージは感じられなかった。
1は☰乾(天)、3は☲離(火)、7は☶艮(山)、2は☱兌(沢)、5は☴巽(風)、8は☷坤(地)だから、1372は上二桁の13で䷌天火同人、下二桁の72で䷨山沢損、52は䷼風沢中孚、28は䷬沢地萃となる。
同人=人と同じ、損=減らす、中孚=心の中の誠、萃=集まる、と、文字を並べてみても、第二章の最後でお話しした䷷火山旅・䷑山風蠱・䷫天風姤・䷅天水訟の四卦で、歴史を腐敗させた女帝を訴える、という意味を読み取れたのとは異なり、何も読み取れなかった。
それでもこれが暗号であるのなら、ここでは六十四卦を示しているのではなく、この52歳は別の年代の下二桁を指していて、そこに皇紀元年と関係する何かがあるのではないかと考えた。
と、すぐに思い当たる年があった。
〇 辛酉革命理論を教える暗号
漢風諡号が古きを推しはかるという意味の推古天皇即位の日だ。
日本書紀には、皇紀1252年12月8日に即位したとあり、翌1253年を元年としている。
この即位年と元年との関係は、仲哀天皇の本当は53歳だけど52歳としている矛盾と共通するものを感じるではないか。
さらに、この即位日の数字の並びのうち、皇紀上二桁(一千二百)と月(一十二=正式表記)は、共に12だから相殺するものとして消してみると、皇紀1252年12月8日だから、残るのは528(五二八)で、和銅五年正月二十八日の 五正二八 と繋がる。
とすると、この繋がりこそが暗号なのであって、推古天皇に、皇紀元年についての何かを隠していることを伝えているに違いない、という感触を得た。
しかし普通に日本書紀を読んでも何もわからない。
そこで仲哀天皇の日本書紀の国風諡号足仲彦を考えてみた。
推古天皇以前で足(タラシ)=古事記では帯の字が付く天皇は、神功皇后を含めて、全部で五人いる。
6孝安天皇=日本足彦国押人(記=大倭帯日子国押人)
12景行天皇=大足彦忍代別(記=大帯日子淤斯呂和気)
13成務天皇=稚足彦(記=若帯日子)
14仲哀天皇=足仲彦(記=帯中津日子)
15神功皇后=気長足姫(記=息長帯比売)
この中で名前の一番上に足が付くのは、この仲哀天皇の足仲彦だけである。
とすると、このタラシ=足という字に、何か特別な意味がありそうだ。
このタラシと読む足という字から考えられるのは、足し算すなわち五二歳の五と二を足して七とせよ、という指示と、足は八卦の☳震(雷)に配される事象なので☳震(雷)を示す数の四である。
これが見るべき箇所を指示する暗号なら、推古七年の四という数が絡む記事に、皇紀元年の秘密を教える何かがあるはずだ。
そう考えて日本書紀のページをめくってみると、案の定、そこには次のような記事があった。
七年夏四月乙羊朔辛酉、地動舎屋悉破。(原文)
七年夏四月乙未の朔(1日)辛酉に、地動りて舎屋悉に破たれぬ。(書き下し)
意味は、地が動いて多くの家が壊れたということ、要するに大地震だ。
乙未朔辛酉というのは、太陽太陰暦での正式な日付表示で、六十干支の乙未が1日となる月の辛酉の日、ということである。
計算すると、乙未から数えて辛酉は27番目なので、27日になる。
地震は天災だから天命が革まることに通じ、日付の干支は辛酉である。
辛酉に天命が革まるとするのが辛酉革命理論である。
また、仲哀天皇は即位から九年目に崩御、とあることから、その九という数にちなんで推古九年を見ると、次の有名な記事がある。
九年春二月、皇太子初興二宮室于斑鳩一。(原文)
九年春二月に、皇太子初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。(書き下し)
この推古九年は皇紀1261年辛酉歳に当たり、皇太子というのは厩戸皇子いわゆる聖徳太子のことである。
明治時代の那珂通世など多くの研究者によって、神武天皇即位年と辛酉革命理論との関係が、この記事と共に論じられているが、以上のことから、古事記日本書紀の編纂者は、自らそれを暗号で明らかにしていたのだ。
このように暗号は、易の卦に置き換えることのほか、
文字、数字、干支と共通項のある別の記事を探ることで、真実が浮上する仕組みだったのである。
〇 辛酉革命について
ここで少し辛酉革命について触れておく。
辛酉革命とは、易の䷰沢火革と䷱火風鼎の二卦から導き出した理論で、六十干支が辛酉=音読みで「しんゆう」のときには、天命が革まるとし、その天命が革まることにより、天変地異や偉大な人物の出現、政治上の変革などが起きるとするものである。
これは易経ではなく、易経を修めた者が読むべき書物として作られた易緯という書物に書かれていたもので、緯書による讖=予言だから、アバウトに讖緯説とも呼ばれている。
この社会を布に擬えて、縦糸となるべき書物を経書、横糸となるべき書物が緯書と称したのであって、いわゆる五経や論語などが経書、その横糸となる書物を遺書と呼んだのだ。
布はまず織機に縦糸を張り、そこに横糸を通して織り上げる。
縦糸を張ってない織機に横糸を通そうとしても、ただ一本の糸が糸のまま左右に動くだけで布にはならない。
したがって縦糸である経書の知識がないまま、横糸である緯書だけを読んでも、その意もはわからないように作られているのだ。
ただし緯書は、中国では隋の時代に世間を惑わすとして禁書となって散逸し、辛酉革命については皇紀1561年、西暦901年、醍醐天皇の昌泰四年を延喜元年に改元するときの三善清行の改元を勧める文書に改元理由として、その易緯の当該部分が引用されているだけだった。
易緯を引用したということは、当然の事として当時の朝廷では易経の知識があったことになる。
きちんと理解していないと引用などできないものである。
しかしなぜ、そんな散逸してしまった書物の理論を引用して改元を進言したのだろうか?
そもそも三善清行の進言を受けて醍醐天皇が延喜元年に改元しなければ、その後、六十年毎の辛酉歳に辛酉だからと改元が行われることもなかった。
しかし改元は明治維新の七年前、文久元年辛酉歳まで続いた。
明治維新を遂行した人たちは、この文久元年辛酉歳の改元を経験していて、那珂通世も子供ではあったがもちろん経験していた。
要するに、三善清行が改元理由として辛酉革命理論を書かなけば、那珂通世も神武天皇即位年が辛酉革命によって机上で算出された架空の年代だと指摘できなかったわけで、もちろん私も、架空の年代だとわかったとしても、推古7年4月条や9年2月条が何を示そうとしているのかわからず、この部分の解読は諦めるしかなかった。
そこで私は次のように考えた。
三善清行や当時の菅原道真や藤原時平といった朝廷内の人々は、歴史書編纂事業のこともあり、いろいろな書物を調べていた。
そんな中で古事記日本書紀の暗号に気づき、解読に際して辛酉革命にも気づいた。
しかし奈良時代初頭にはそこそこ知られていた易緯の理論も、二百年近くの時が経つうちに廃れ、いつしか辛酉革命を知る人はほとんどいなくなっていた。
彼等は、かつてどこかで読んだことがあるのを思い出したか、あるいは朝廷の書庫に古事記日本書紀と一緒にその易緯の辛酉革命の一節が添えられていたのかもしれないが、とにかく彼等は古事記日本書紀の暗号を解読した。
このことを、当時の朝廷では世間に公開するべきか否か議論が分かれた。
が、最終的には、当面は非公開と決め、妥協案として、いつの時代になっても暗号がちゃんと解読され、朝廷内の上層部には真実の古代史が伝わり続けるようにと、辛酉革命を根拠とする改元で、この理論があることを未来に伝え残すことにした。
ということではないだろうか。
ちなみに三善清行が引用した文章は次のとおり。
辛酉為革命、甲子為革令、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲為一元、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年。(原文)
辛酉を革命と為す、甲子を革令と為す、鄭玄曰く、天道遠からず、三五を反して、六甲を一元と為す、四六二六,ruby>交相乗ず、七元に三変有り、三七相乗ず、二十一元を一蔀と為す、合わせて千三百二十年、(書き下し)
この中の鄭玄曰く以下は、普通は額面どおりの災難予測のためのわけのわからない数式にしか映らないものである。
が、それは易を念頭に読もうとしないからであって、このわけのわからない数式は六十干支と易六十四卦の序次を結びつけるときの法則となる易の卦の形の動きを数字で示したものなのだ。
言わば、易を利用した歴史物語作成のための方程式、といったところである。
単に神武天皇だけを古く見せようとしたのではなく、日本書紀のすべてがフィクションだ、ということである。
ちなみに䷰沢火革の裏卦(陰陽を逆にした卦)が䷃山水蒙すなわち神武天皇のA列である。
が、その話を深く掘り下げるのは横道に逸れてしまうので、別の機会に任せるとして、先に進む。
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