危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第八章 第九章 第十章
第七章 大神神社の秘密〜すべてはヤタから始まった!
1、母系母権制社会脱却に失敗 2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号 3、ヤタという名前 4、日本最古の年代特定できる年 5、景行〜履中女帝までの年代
2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号
〇 垂仁という漢風諡号の意味
乱数表(易の理論)
ヤタと神社、神道の始まりについての基本的な暗号は、10崇神天皇と11垂仁天皇のところにあった。
古事記では、11垂仁天皇には八人の妃との間に計十六人の子があったとしている。
そのうちの一人の妃の親の名として旦波比古多多須美知宇斯王というのがある。
この名前の頭の旦は、日と一に分ければ日は☲離(火)・一は☰乾(天)だから、合わせて垂仁天皇のA列䷍火天大有を示していることになる。
続く波比古多多須美知宇斯は、宇斯波比古美知多多須と文字の順を入れ替えれば、「ウシは日子道正す」と読める。
ウシは「あなた」あるいは大人=偉い人という意味の古語である。
したがってこの名前は「垂仁天皇よ、あなたは女帝たちの生き方を正した」という意味に読み取れるのだ。
どうやって正したのかは、垂仁という漢風諡号が教えている。
仁を垂れた、ということだ。
論語や易経の読者なら仁は馴染みのある言葉なので、ああ、なるほど、と、すんなり納得するところである。
ただし厳密な意味での仁ではなく、漢籍で言うところの仁に相当すること、といったことだろう。
漢籍で言う仁とは、慈愛、博愛、もっと簡単に言えば「思いやり」といったことである。
確かに人々が思いやりに溢れていれば老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、死んだ者も折に触れて思い出されるから、心の中で永遠に生き続けることになる。
また仁は、神懸りや神のお告げといったことは棚上げにして、神はただ崇め祭るだけの存在とすることでもある。
神を崇め祭るという意になる言葉は崇神、崇神女帝である。
そして表向き崇神天皇の子とされる垂仁天皇だが、垂仁が崇神の息子だということを否定する暗号は見当たらない。
したがってこれらのことが伝えようとしているのは、次のようなことになる。
崇神女帝は息子の垂仁男帝が垂れた仁により、神懸りや神のお告げを棚上げにし、食人による蘇りを思い止まった。
なるほど、そういうことか!
ご先祖様を大切にする日本文化の根源はここにあったのか!
と、思い知らされた。
しかし日本書紀には、垂仁天皇は一四〇歳で崩御したとあり、この数字を易の卦に置き換えると、一は☰乾(天)・四は☳震(雷)だから、25䷘天雷无妄という卦になる。
この卦を説明する易経の文章には「天命佑けず」とあり、物事が成就しないことを意味する。
したがって女帝たちの生き方を正そうとしたが失敗した、と示していることになる。
〇 崇神女帝・垂仁男帝・応神女帝の関係
暗号が示す歴史では、垂仁男帝の次は応神女帝が即位し、その後代々女帝たちの支配が続く。
そして垂仁男帝の改革が失敗したということは、神懸りによる神のお告げに応じ、食人による蘇りで永遠の生命を得ると信じる社会に戻した、ということになる。
だから応神女帝は、神に応じた、という意味を込めて漢風諡号を応神とされたのだった。
その応神女帝は、崇神女帝や垂仁男帝とはどういう関係なのだろうか。
応神女帝は、表向きの16応神天皇だが、その応神天皇の母親は神功皇后で、神功皇后の出自は古事記の開化天皇のところに記載されている。
それによると、@開化天皇ー➁日子坐王ー➂山代之大筒木真若王ーC迦邇米雷王ー➄息長宿祢王ーE神功皇后(息長帯比売)と、神功皇后は開化天皇から数えて六代目となっている。
開化天皇も神功皇后も架空の人物だが、それでもこうして系譜が書かれているというのは何かクサイ。
そう考えて眺めていると、四代目の迦邇米雷王の迦邇米だけが万葉仮名であることが、何か言いたげな雰囲気に感じた。
迦邇米の迦は、加え進むという意の字だから、何かを加え進めたと示していることになる。
続く邇は「近い」という意の字で、近づけるべきものは乾徳である天道だから☰乾(天)、米=コメはその細長い形状が陽⚊の記号に似ているのでその極みの老陽となる☰乾(天)とすれば、邇米で☰乾(天)を重ねた䷀乾為天すなわち六十四卦の序次1番目の卦を示していることになる。
とするとこの部分で、物事の順序について何か言わんとしているのに違いなく、続く雷は☳震(雷)で四という数を示すのだから、迦邇米雷で「順番を四つ進めた」と示していることになる。
要するに開化天皇から神功皇后までは6代ではなく2代すなわち神功皇后は開化天皇の子だ、ということになる。
表向きでは開化天皇は崇神天皇の親である。
垂仁天皇は崇神天皇の子である。
神功皇后に至る系統は崇神天皇の弟の系統である
神功皇后は応神天皇の母親である。
もちろん開化天皇も神功皇后も架空の人物なのだから、このことが示すのは、次のようなことになる。
崇神女帝の妹が応神女帝の母親であり、したがって左図のように、応神女帝は垂仁男帝の従兄妹ということになる。
その応神女帝は、垂仁男帝を父親だと判別できる女の子を産んでいたのだが、それを示す暗号は継体天皇と景行天皇だった。
〇 継体天皇の出自は景行女帝についての暗号だった!
日本書紀の表向きの物語では、26武烈天皇で皇統が断絶したために地方から呼び寄せたのが27継体天皇だとしていて、応神天皇五世の孫、母の振媛は垂仁天皇七世の孫だとしている。
しかし第五章の3でお話ししたように、継体天皇は安閑女帝に次ぐ女帝であって、この出自についての記事は虚構ということになる。
とは言っても、この継体という言葉は皇位継承を意味することから、この応神五世の孫、母は垂仁七世の孫という出自についての記述は単なる虚構ではなく、別の皇位継承についてを教えているはずである。
暗号で応神女帝から皇位を継承するのは景行女帝で、前章4で景行の国風諡号が大帯日子とあることから、複数の女帝をひとまとめにしたものだとお話ししたが、そう考えてみると景行天皇が気になった。
景行天皇は、古事記では、わかっている妃が七人居て、それぞれ子があり、これ以外にも五十九人の子が居て、子の数は計八十人だったとある。
この記載された妃や子の名を適宜易の卦に置き換えつつ眺めてみると、七人で景行の次まで五世となる系図が浮上したのだ。
左図の妃1〜7は本文の登場順、景行A〜Gは浮上した系図の順番に整理したものである。
なぜこうなるのかは、次のとおり。
〇 景行Aについて
妃1の親とされる若建吉備津日子という名の頭の若建は、若は老を陽としたときの陰なのでその極みの☷坤(地)、建は建御雷神という神名があることから☳震(雷)とすれば、若建で24䷗地雷復となる。
この卦は第二章の7でお話しした伊邪那岐神・妹伊邪那美神のB列で、一陽来復、始まりを意味する。
したがってこの妃1が複数の女帝を一括りにした景行女帝の最初すなわち景行Aとなる。
吉備津日子は、吉と津日を備えた子という意味で、吉は士と口に分けて易の卦に置き換えれば、士は☷坤(地)・口は☱兌(沢)だから、合わせて19䷒地沢臨となるが、これは応神天皇のA列である。
津は氵(サンズイ)の字だから水にちなみ☵坎(水)・日は☲離(火)だから、津日で63䷾水火既済となる。
この卦は垂仁天皇の日本書紀の国風諡号活目入彦五十狭茅の活目を易の卦に置き換えた形でもある。
活はは氵(サンズイ)だから☵坎(水)・目は☲離(火)である。
したがって吉と津日を備えた子は、応神と垂仁を備えた子、ということになり、この人物は応神女帝が垂仁男帝を父親として産んだ子、ということになるのである。
〇 景行Bについて
景行Aに続く景行Bは妃7となる。
妃7は倭建の曽孫とあるからだ。
倭建は景行天皇の息子だから、息子の曽孫を妃としたわけで、常識的にはとんでもないことである。
しかし倭建の子が仲哀天皇、仲哀天皇の子すなわち倭建の孫が応神天皇、応神天皇は応神女帝の表向きの姿だから、曽孫は応神女帝の子ということになるのだ。
そして妃7と番号を振ったように、登場順は妃1の後なので、妃1が姉、妃7が妹となり、この妃7の子に大枝王という名があり、大きい枝はさらに分かれて発展するものだから、姉の次に妹が女帝となり、その次はこの妹の娘が女帝になったと告げていることになる。
そして「継体天皇の母の振媛は垂仁天皇の七世の孫」とあるのだから、垂仁男帝の血は景行女帝の最後まで続いていることになるので、この景行Bも応神女帝と垂仁男帝の間に生まれたことになる。
〇 景行C・景行Dについて
景行Bに続くのは、妃6の景行Cと妃4の景行Dとなる。
妃6は子に日子人之大兄王という名があり、妃4には弟比売命という名があり、他の妃の子には、兄または弟と付く名はない。
したがってこの二人は姉妹(兄弟)となる。
その上、大兄は大枝と音が共通し、景行Bとの繋がりを思わせるので、この人物は景行Bの子となり、妹の景行Dも景行Bの子となる。
〇 景行E・景行Fについて
景行Dに続くのは、妃5の景行Eと妃3の景行Fとなる。
妃5の子の豊国別、妃3の子の豊戸別王という名は、共に豊の字を共有するが、豊が名前に付く易の卦は序次55䷶雷火豊である。
一方、景行D=妃4の子の香余理比売命の香は、禾と日に分けて易の卦に置き換えると、禾は稲科の植物を指すから稲を示す☳震(雷)・日は☲離(火)だから、合わせてこれも55䷶雷火豊となる。
また、景行D=妃4の沼名木郎女は、妃3の沼代郎女では、沼の字が共通する。
同じ卦を示したり、同じ文字を共有するからには、妃5と妃3は、景行Dと何らかの関係があるはずである。
ここで関係と言えば、親子しかない。
とすると、この妃5と妃3の二人は景行Dの娘となる。
したがって、妃5と妃3は姉妹ということになるが、豊国別と豊戸別に共通しない国と戸の字をこの順に重ねて易の卦に置き換えると、国は☷坤(地)・戸は☶艮(山)だから、序次15䷎地山謙で、12景行天皇のA列となる。
妃3の沼代郎女の沼を易の卦に置き換えると、沼は水があるところだから☵坎(水)となり、その☵坎(水)が示す数字は六である。
したがって、沼代で「この人物は六代目である」と教えていることになり、妃5が姉で五代目すなわち景行E、妃3が妹で六代目すなわち景行Fとなる。
〇 景行Gの次は仁徳女帝だった!
景行Fが沼代郎女で六代目であることを主張しているからには、こちらが本流だと考えるのが順当である。
したがって残る妃2が景行Fの娘の景行Gとなる。
これで景行として括られた七人の女帝の皇位継承順が確定したので、次には誰が皇位を継承したのかを探る。
表向きの物語では、景行天皇には三人の皇太子がいた、とある。
倭建命、若帯日子命、五百木之入日子命、である。
このうちの倭建命は若くして薨去、若帯日子命は次の成務天皇として即位と、その消息がはっきりしているのに対し、五百木之入日子命については、ただ皇太子だったとするだけで、その後については、即位がなかった経緯を含め、全く触れていないことから、謎の人物とされている。
ということは、この名前こそ重要な暗号だったのだ。
そこでこの五百木之入日子命という名前だが、冒頭の五百を易の卦に置き換えると、五は☴巽(風)・百は☷坤(地)だから、五百で仁徳天皇のA列20䷓風地観となる。
したがってこの謎とされる五百木之入日子命は、景行女帝の次すなわち景行G女帝から皇位を継承したのは仁徳女帝だと教える暗号だったのである。
また、この命の弟として押別命という名があるのだが、押別を、押の字の偏と旁を別けて考えよ、という指示とすれば、押は手偏と十干の甲で、手は☶艮(山)・甲は方位では東だから☳震(雷)となるので、合わせて24顕宗天皇のA列27䷚山雷頤となる。
この卦は第二章追補2でお話ししたように、次の25仁賢天皇のA列28䷛沢風大過と表裏の関係となることと、両者の国風諡号の関係から「順番を逆にせよ」という指示になると共に、表裏の関係は親子を意味する。
したがって景行女帝に続くのは仁徳と仁賢・顕宗で、仁徳女帝と仁賢女帝は姉妹、仁賢女帝と顕宗女帝は母娘だったのだ。
〇 成務女帝と履中女帝
第五章の4でお話ししたように、女帝の皇位継承順は、顕宗の次は成務、その次は履中となるのだが、この三人の親子関係はどうなっているのだろうか。
履中の履の字は序次10䷉天沢履の履でもあるが、24顕宗天皇の古事記の国風諡号の袁祁之石巣別の石巣の部分を易の卦に置き換えると、石は剛いものだから☰乾(天)・巣はその形状から☱兌(沢)とるので、石巣でこれも10䷉天沢履となるのだ。
とすると、履中と顕宗には繋がりがあることになる。
繋がりがなければ、履中は成務の子となるところだが、このように前帝の成務を飛び越えて繋がりがあるからには、顕宗と履中は親子だと示していることになる。
また、成務女帝が前帝の子であることを否定する暗号は見当たらない。
とすると、履中女帝と成務女帝は共に顕宗女帝の娘で、皇位継承順が成務が先だから成務が姉、履中が妹ということになる。
〇 反正・懿徳・安寧・安閑の各女帝
表向き履中天皇と反正天皇は兄弟としているのが、この暗号体系は原則として前帝を親とすることで成立している。
履中女帝と反正女帝を兄弟(姉妹)だとする暗号はなく、反正女帝が履中女帝の子であることを否定する暗号も見当たらない。
したがってこの二人は親子=母子となる。
続く懿徳女帝は、日本書紀に三四年崩とあるが、三は☲離(火)・四は☳震(雷)だから、合わせて履中天皇のA列21火雷噬嗑となるので、履中女帝と結びつきがあり、皇位継承順は反正、懿徳の順である。
とすると、懿徳女帝は反正の妹すなわち履中女帝の娘となる。
次の安閑女帝は、国風諡号の広国押建金日の国押建が42䷩風雷益となる。
この卦は4懿徳天皇の古事記の崩年齢45歳が示す32䷟雷風恒=3安寧天皇のB列の裏卦である。
下の金日は13䷌天火同人となり、この卦は懿徳天皇のA列7䷆地水師の裏卦である。
このように安閑女帝は易を通じて懿徳女帝との結びつきがとても強い。
したがってこの安閑女帝も懿徳女帝の娘となり、皇位継承順が安寧女帝よりも後なので、安寧女帝の妹となる。
無論、安寧女帝も懿徳女帝の娘である。
〇 継体女帝とその娘たち
安閑女帝の次は継体女帝だが、この二人が親子でないとする暗号は見当たらないので、継体女帝は安閑女帝の娘となる。
仮に姉妹であるのなら、別の人物が親として示されているはずだが、そういう暗号はない。
なお、表向き28安閑天皇は27継体天皇の子とされているが、暗号では親子関係が逆転することになる。
継体女帝に続く欽明女帝、用明皇女、推古(舒明)女帝、皇極(斉明)女帝の四人は、次のように、何れも継体女帝の娘となる。
欽明女帝には前帝の子であることを否定する暗号がない。
用明、推古、皇極の三人は、国風諡号の中に必ず豊の字があるが、27継体天皇の古事記の崩年齢四三歳を易の卦に置き換えると、四は☳震(雷)・三は☲離(火)だから、55雷火豊となる。
したがって用明、推古、皇極の三人は、豊の字で継体女帝と繋がっている。
これで、女帝系は最後まで親子関係が明かになったが、これをまとめると左図のようになる。
こうして見ると明かなように、仁徳と仁賢、安寧と安閑、欽明・用明・推古(舒明)・皇極(斉明)のように、漢風諡号で同じ字を共有するのは姉妹だったのだ。
が、それはそれとして、次に垂仁男帝の本当の名前=ヤタを教える暗号について、お話しする。
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