危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第十章
第九章 古代女帝政権の終焉
1、武力衝突を繰り返す二王朝 2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害 3、聖徳太子の本当の姿 4、大化の改新の真相 5、女帝政権の崩壊 6、壬申の乱=最後の悪あがき
4、大化の改新の真相
表向きの物語では、朝廷の政治を牛耳っていた蘇我入鹿を殺害し、父親の蝦夷が自害して、大化の改新となったとあるが、無論これはフィクションである。
とすると、真実はどのようなことだったのか。
これを教える暗号を探ると、大化の改新の原因は、女帝側による聖徳太子殺害だった。
〇 聖徳太子殺害
乱数表(易の理論)
聖徳太子殺害に至る経緯と殺害された年については、次のように導き出された。
聖徳太子の表向きの崩年は推古29年だが、これを易に置き換えると、2は☱兌(沢)・9は☰乾(天)だから、合わせて43䷪沢天夬となる。
これまでの解読で何度も出てきたが、この卦は決去、決壊、暴動、騒乱を意味する。
したがって聖徳太子は、病気等で自然に亡くなったのではなく、殺害されたのだと示していることになる。
これを踏まえて、暗号が聖徳太子と同一人物だとする37孝徳天皇の崩御関連の記事を見ると、またしても暗号めいた文章があった。
孝徳天皇は白雉5年(皇紀1314年甲寅=西暦654年)10月癸卯朔壬子(10日)に崩とあり、同年12月条に「老者語りて曰はく、鼠の倭に向ひしは、都を遷す兆しなりけり」(原文=老者語之曰、鼠向二倭都一、遷レ都之兆也)とあった。
壬子は、これまでに何度も出てきましたが、壬も子も共に☵坎(水)だから、合わせて29䷜坎為水となる。
この卦は最悪の状態すなわち殺害を示していることになる。
しかしこの鼠の移動記事からは干支を通じて年の特定は不可能だった。
そこで、これが老人の言葉だということを念頭に、鼠をモチーフにした記事が別のどこかにないかを探した。
程なく皇極天皇の2年11月条に見つかった。
蘇我入鹿は、古人皇子を次期天皇にするためにと、有望な聖徳太子の子の山背大兄王を殺そうと考え、彼の住む斑鳩を襲う。
山背大兄王一族は、漸くのことで一旦は山中に逃れる。
入鹿は山狩りをして彼らを見つけ出して捕らえようとする。
そのとき古人皇子が「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬと」(原文=鼠伏レ穴而生、失レ穴而死)と、入鹿に言った。
入鹿はこの言葉で捕らえるのを思い止まる。
すると観念した山背大兄王は山から出て来て斑鳩寺に入り自害した。
物語の流れはざっとこんなところだが、古人皇子の古人は古い人=老人という意味にも取れる。
山背大兄王の山と背は、易の卦に置き換えると共に☶艮(山)となるので、7という数を示す。
また、この山背大兄王とは別人ではあるが、古事記の欽明天皇のところでは山代王とある名前を、日本書紀では山背皇子と表記している。
とすると、山背で山代すなわち7代目、と暗号は示していることになる。
聖徳太子は神武男帝から数えて7代目である。
1神武、2允恭、3綏靖、4雄略、5崇峻、6敏達、7聖徳太子、である。
したがってこの山背大兄王は聖徳太子の子ではなく、聖徳太子本人のことだったのだ。
一方、蘇我入鹿は、稲目や馬子が女帝を示す暗号だったように、やはりこの時代の女帝である皇極女帝の行動を教える暗号だった。
したがって聖徳太子は、表向きの皇極2年に当たる皇紀1303年癸卯=西暦643年に、皇極女帝によって殺害されたのだ。
殺害理由は入鹿の別名の鞍作が示している。
鞍という字は革と安でできているが、革は改革、安は安寧女帝や安閑女帝、孝安女帝など、女帝側の漢風諡号として使われている字だ。
したがって鞍作で、女帝による改革を作る、という意味になる。
言葉を補うと、男帝側が聖徳太子によって女帝政府と男帝革命軍を統一しようとするのに「待った」をかけ、昔日のような絶大な権力を誇った女帝政府を再建しようと、聖徳太子を殺害した、ということである。
この後、表向きの歴史では、皇極4年6月に蘇我入鹿が中臣鎌子、中大兄皇子等によって殺害され、蝦夷が自害して大化の改新となります。
しかし何度も繰り返しになるが、蘇我氏は女帝を示す暗号である。
蝦夷の蝦はエビすなわち堅い殻で覆われた生き物なので、易では☲離(火)で表現され、入鹿は水中に住むイルカのことだから☵坎(水)となる。
蝦夷の☲離(火)と入鹿の☵坎(水)を親子の順に従って合わせると64䷿火水未済という卦を通じて明の字を示していることになる。
日は☲離(火)、月は☵坎(水)である。
明の字は、欽明、用明、推古舒明、皇極斉明と、女帝の漢風諡号に使われる字で、この時代は、表向きでは後に斉明として重祚した皇極である。
したがってこの出来事は、皇極女帝が殺害されたことを示していたのだ。
念のために付け加えるが、第五章で少し触れたように、皇極女帝の国風諡号の天豊財重日足姫は、皇位を重ねることで皇統譜の円周が成立するように数を足らした妊娠する女性である姫、という意味に読める。
したがって斉明としての重祚はなかったのだ。
これでどうやら大化の改新の本当の意味も見えてきたが、さらに明らかにするには、蘇我入鹿殺害を企てた中臣鎌子や中大兄皇子についてを探る必要がある。
〇 鎌足・天智・天武は聖徳太子の子だった!
暗号によると、中臣鎌子と中大兄皇子は、大海人皇子と共に、聖徳太子の子で、長男が中臣鎌子=藤原鎌足、次男が中大兄皇子=39天智天皇、三男が大海人皇子=40天武天皇だった。
まずは中臣鎌子からお話ししよう。
中臣鎌子はは、37孝徳天皇の白雉5年(皇紀1314年甲寅=西暦654年)正月条から、突然、何の理由もなく中臣鎌足と表記される。
不思議である。
とするとこれは暗号に違いない。
早速、鎌子と鎌足を易の卦に置き換えてみる。
鎌は金属でできている堅いものだから☰乾(天)、子は何度も出て来たように十二支の子とすれば☵坎(水)、足は☳震(雷)だから、鎌子は6䷅天水訟で「訴える、主張する」といった意になり、鎌足は25䷘天雷无妄となる。
とすると、まず、中臣鎌子で、中臣=中つ臣であることを主張する、という意味になる。
中つ臣ということを考えると、この時代は男帝と女帝の二つの政府があったのだから、その中を取り持つ人物とするのが最も素直である。
中を取り持つからには、双方の血を受け継ぐ人物のはずである。
鎌足と表記される最初の年、白雉5年は皇紀1314年に当たるが、この下二桁の14を易の卦に直すと、1は☰乾(天)・4は☳震(雷)だから、合わせて25䷘天雷无妄で、鎌足が示す卦となる。
そこで聖徳太子の真実を教えるための暗号だった孝徳天皇即位年の大化元年の皇紀1305年下二桁を易の卦に置き換えてみる。
すると、05年の0すなわちその位に数字がないことは第七章でお話しした崇神女帝の崩年を教える暗号の遠津年を06年としたときと同様に☷坤(地)となり、5は☴巽(風)だから、合わせて46䷭地風升とな.る。
46䷭地風升は25䷘天雷无妄の裏卦=すべての陰陽が逆になった卦で、これまでの暗号では、表裏の歓迎は親子または同一人物を示すものとしてきた。
そして天武天皇の天武という漢風諡号は、天は☰乾(天)・武は☳震(雷)だから、天武と合わせればこれまた25䷘天雷无妄となるのだ。
鎌足と聖徳太子を同一人物とすると、40天武天皇も聖徳太子と同一人物でないと、暗号が矛盾する。
したがって鎌足と40天武天皇は、共に聖徳太子の子だと暗号は示していることになる。
また、39天智天皇は中大兄皇子と呼ばれると共に、舒明天皇のところでは、幼少期は葛城皇子と呼ばれていた、とある。
葛城を易の卦に置き換えると、葛はマメ科の植物だから☳震(雷)・城は☶艮(山)だから、合わせて62䷽雷山小過となり、この卦は記号を二本で一本と見做せば☵坎(水)になる。
☵坎(水)には、三人兄弟の真ん中=中男という意味がある。
ちなみに長男は☳震(雷)、末っ子=少男は☶艮(山)で、長女は☴巽(風)、中女は☲離(火)、少女は☱兌(沢)、父は☰乾(天)、母は☷坤(地)である。
表向き、40天武天皇は39天智天皇の弟だとされていて、これを否定する暗号はないので、この二人はそのまま兄弟となる。
とすると、聖徳太子には三人の息子がいて、長男が中臣鎌足、次男が39天智天皇、三男が40天武天皇だった、ということで、39天智天皇を中大兄としたのは、40天武天皇から見て上の兄=長男ではなく、中の兄=中男だ、ということだったのである。
今でも三人兄弟だと、長男を大兄ちゃん、次男を中兄ちゃんなどと呼ぶことがあるが、それと同じようなことだろう。
なお、40天武天皇の大海人という名は、国風諡号の天渟中原瀛真人の暗号としての意味をカモフラージュすると共に、B列の5䷄水天需が、☵坎(水)の水の中に☰乾(天)の頭がある様子として潜水=海人の意味にもなることから、付けられたのだろう。
天渟中原瀛真人は第三章の3の最後の方でお話ししたように、渟と瀛という水に関係する字と易の卦との繋がりで、天武天皇は毒殺されたと教えるものだった。
〇 鎌足・天智・天武の母親は誰か
このように、中臣鎌足、天智、天武は、聖徳太子の子だったわけだが、母親については聖徳太子の婚姻親子関係から次のように導き出された。
日本書紀の敏達天皇の5年条によると、聖徳太子は31敏達天皇と34推古天皇の間に生まれた菟道貝鮹皇女またの名を菟道磯津貝皇女という女性を娶ったとある。
しかし同4年条には、31敏達天皇と息長真手王の女広姫との間に生まれた娘のひとりとして、菟道磯津貝皇女という名がある。
あれ?この名前は菟道貝鮹皇女の別名と同じだが、どういうことだろうか…。
と、誰もが疑問を抱くところだ。
このように、何の説明もなく同名の人物が出て来たら読者は戸惑うが、とするとこれが暗号である。
早速解読しよう。
暗号では、聖徳太子は敏達男帝と推古女帝の間に生まれたことになっている。
男帝側は母系母権制社会を畜生同然と蔑んでいるのだから、少なくとも同母姉妹と肉体関係を持つことは、道徳的に有り得ないはずだ。
したがって聖徳太子が父親の敏達男帝=31敏達天皇と母親の推古女帝=34推古天皇との間に生まれた女性を娶ったというのは虚偽であって、同名のもうひとり、息長真手王の女広姫との間に生まれた娘としての菟道磯津貝皇女こそが、聖徳太子が肉体関係を持った本当の女性を教える暗号だ、と伝えていることになる。
なお、娶るとか結婚といった言葉は生涯連れ添うことを前提としているので、この時代の真実としては不適切である。
そこで敢えて、肉体関係を持った、と表現することにした。
この時代は女性が一定期間、他の男性と肉体関係を持たず、その男性を父親とする子を生むことに同意した、というだけのことだからである。
その聖徳太子が肉体関係を持った息長真手王の女広姫という名は、息長は35舒明天皇の国風諡号の息長足日広額の頭の二文字である。
続く真手は、易の卦に置き換えると、真は真偽で陰陽を考えると偽を陰としたときの陽になるのでその極みの☰乾(天)、手は☶艮(山)だから、真手で33䷠天山遯になる。
この卦は30欽明天皇のA列である。
広姫の広は35舒明天皇の国風諡号の下の部分の広額と共通すると共に、30欽明天皇の古事記の国風諡号の天国押波流岐広庭の下の部分の広庭とも共通する。
この共通項は次のように教えていることになる。
敏達男帝には欽明女帝の娘との間に生まれた娘がいる→31敏達天皇と息長真手王の女広姫との間に生まれた菟道磯津貝皇女。
その娘と聖徳太子は肉体関係を持った→聖徳太子は31敏達天皇の子の菟道貝鮹皇女またの名を菟道磯津貝皇女を娶った。
その結果生まれた子については35舒明天皇の子として記してある→広姫〜広庭〜広額
そこで35舒明天皇だが、日本書紀の舒明2年条に、舒明天皇は宝皇女=後の皇極天皇との間に三人の子ができたとある。
葛城皇子=後の天智天皇、間人皇女、大海皇子=後の天武天皇である。
表向きの歴史では、間人皇女は後に孝徳天皇の妃になるのだが、それは表向きの虚構の歴史のための設定なので関係ない。
しかし間人という名は何かありそうな気配がする。
間の人→誰かと誰かの間を取り持つ人、という意味になる。
同じ意味になる別の名を探すと、中つ臣、中臣に行き当たる。
したがってこの間人皇女という名は中臣鎌足が天智や天武と同じ両親から生まれたと示す暗号だったのだ。
表向きが間人皇女すなわち女性としたのは、男性とすれば皇位を継承しなかった理由を書かないといけないことになるからだろう。
ともあれこれで、鎌足、天智、天武の三兄弟の両親は、聖徳太子とその異母姉妹=欽明女帝と敏達男帝の間に生まれた娘だった、ということがはっきりした。
これを踏まえて大化の改新の周辺をさらに探る。
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