危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
前ページ もくじ 次ページ
第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第八章 第九章 第十章
第七章 大神神社の秘密〜すべてはヤタから始まった!
1、母系母権制社会脱却に失敗 2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号 3、ヤタという名前 4、日本最古の年代特定できる年 5、景行〜履中女帝までの年代
4、日本最古の年代特定できる年
垂仁男帝=ヤタによる宗教改革はいつのことだったのだろうか。
これはヤタの母親である崇神女帝、表向きの10崇神天皇の妃の名が明かにしていた。
〇 崇神女帝の崩年
乱数表(易の理論)
古事記には、崇神天皇の妃のひとりに荒河刀辨の娘として遠津年魚目目微比売という名がある。
原文=荒河刀辨之女、(刀辨二字以レ音)、遠津年魚目目微比売、(カッコ内は分注)
この名は、普通は、遠津、年魚目、目微比売、と区切って読んでいるが、区切る場所をちょっと変えて、遠津年、魚目 目微とすると、何やら言いたげな気配を感じる。
魚は水の中に居る生物だから☵坎(水)・目は☲離(火)となるので、魚目で63䷾水火既済となる。
既済は「すでになる」という意なので、続く目微を「目が微かにしか見えない」という意として合わせれば、魚目目微で、すでに目が微かにしか見えなくなった、という意に読み取れる。
とすると、その目が微かにしか見えなくなったのが遠津年ということになる。
遠ざけるべきものは陰だから☷坤((地)、続く津の字は水がある場所を意味するから☵坎(水)となり、☷坤(地)は八が配されると共に端数がないことをも意味し、☵坎(水)は六が配されている。
したがって遠津年は86年または十の位に端数がない06年を示していることになる。
なお、年代算出は、計算式の読みやすさを考慮して、漢数字ではなく、算用数字を用いることにした。
としても86年と06年では20年の開きがある。
どちらが正しいのだろうか。
これについてはこの比売の親の荒河刀辨という名が教えていた。
荒河刀辨の刀辨は、分注に「刀辨の二字は音を以いよ」とあり、万葉仮名であることを強調しているので「とべ」という音から漢字を連想してみる。
と「飛べ」という言葉が思い浮かぶ。
そこで、その「飛べ」の意味だが、ここで考えられるのは、位を飛ばせ、ということだ。
例えば104という數を読み上げるときに「百飛んで四」と言うようにだ。
すなわち86ではなく、十の位に端数がない06が正しいのだ。
とすると、その上の百の位が何なのかがわかればよいわけだ。
しかし、それを考えるには、もう少し崇神女帝に示された要素を検証する必要がある。
古事記では、10代の崇神天皇を初国知らしし天皇としている。
物語では、10代崇神天皇のときに初めて国家体制が整ったのだ、という意味で崇神天皇が称えられたとしているが、初国知らししというのは初代の神武天皇にこそ相応しく、いささか強引でもあり、疑問が残ると、よく指摘されているところだ。
一方、暗号が示す歴史では、崇神女帝の前の孝安女帝は代々の女帝たちをまとめたもので、孝昭女帝はその代々の女帝たちが神としていた胎児の象徴だから、崇神女帝が初めて個人を特定できる人物となっている。
すなわち崇神女帝こそが初国知らしし人物だったのだ。
表向きの物語で初代とされる神武天皇は、第五章の4でお話ししたように、履中女帝のときに分裂したのだから、もっと後の人物である。
そして個人を特定できるということは、その生存していた時代がわかるということである。
そこで崇神女帝が生きた時代がいつなのかを探るのだが、皇紀下二桁が06年には目が微かにしか見えない老女になっていたとあるのだから、そのことと関連するように、崩年はちゃんと示されているはずだ。
古事記には、この崇神を始め一部の天皇の崩年を干支で示している。
左図はそれを一覧表にしたものである。
日本書紀が示す崩年の干支とは大多数が異なっていて、研究者を困らせているわけだが、それはともかく、崇神女帝の崩年を教える暗号は日本書紀からは見つからないので、この古事記の崩年干支から探る。
古事記には、崇神天皇は戊寅年12月崩とあるが、これが真実をそのまま書いているとしたら、奈良時代の読者からは、崇神女帝やヤタのことに気づかれてしまう危険が大きいというもの。
奈良時代の朝廷内の人びとは女帝たちが食人による蘇りを信じて行っていた、という真実の歴史のおおよその流れは知っていたはず。
だからこそ、その真実の歴史を抹殺するために、嘘で塗り固めた歴史書を書くことを求めたのであって、真実の崩年をそのまま書くはずがない。
しかし暗号解読者には、ちょっと考えれば真実がわかる仕掛けになっているはず。
そう考えて思い当たるのは、干支は順に巡るものだから、この戊寅年12月は、正しい干支から12進めると戊寅になる、ということ。
12月を戊寅としたときの正月の干支が崇神女帝の本当の崩年ということだ。
ただし、月の干支は正月が寅、12月は丑と決まっているので、本来戊寅が12月というのは有り得ない。
だからこそ悟られることなく、暗号解読者だけに本当のことを示すことができる、という利点があるのだ。
戊寅を12月として遡ると正月には丁卯が当たる。
推古から各女帝たちを常識的在位年数で遡って計算すると、崇神女帝の時代は皇紀800年〜1000年辺りの範囲。
この範囲で丁卯は、皇紀787年、847年、907年、967年、1027年である。
このうちの皇紀907年ならば、06年の目が微かにしか見えなくなった翌年で、上手く繋がる。
したがって崇神女帝は、皇紀907年に崩御したのであって、この年は西暦に換算すると247年になる。
〇 垂仁男帝の崩年
崇神女帝の崩年がわかったところで、次に垂仁男帝=ヤタの崩年を探るのだが、これは日本書紀の数字の矛盾から導き出された。
日本書紀の11垂仁天皇のところでは、垂仁天皇は崇神天皇の29年壬子の春正月己亥朔に生まれ、24歳のときに夢の祥により皇太子になった、とある。
春正月己亥朔というのは1月1日のことで、この日の干支が己亥だ、という意味である。
一方、崇神天皇のところでは、崇神天皇の48年に夢占いによって垂仁天皇を皇太子とした、と記載している。
あれ?おかしい。
崇神天皇の29年に生まれたのなら、皇太子になる24歳は52年のはず。
当時は生まれた年を1歳とするいわゆる数え年なので、29年に生まれたのならば、24歳は、29+24−1=52で、52年となるのだ。
崇神48年はまだ20歳である。
数字が矛盾している。
実は、日本書紀にはこのような数字の矛盾が数多くあり、普通は単なる誤記、あるいは元にした資料がそもそも違っていて、どちらが正しいのか判断できず、その元にした資料のままに書いたのではないか、などと考えられている。
また、日本書紀では、通常各天皇の元年以外、年の干支は記載していないのだが、ここでは29年壬子と、わざわざ丁寧に干支まで書いている。
元年の干支さえ書いてあれば、後は計算でわかるのに、である。
そこで思い出されるのが、第四章の3など持統天皇関連の暗号解読では干支の矛盾が真実の年月日を示す暗号だったことである。
そして干支も数字も年月日を示すものである。
とすると、この干支や数字の矛盾こそが真実を教える暗号に違いない。
そう考えてこの矛盾した数字と干支を易の卦に置き換えつつ考えた。
まずは垂仁天皇の出生日の29年壬子春正月己亥である。
29は、2は☱兌(沢)・9は☰乾(天)だから43䷪沢天夬となり、夬は決去決壊など物事が壊れることだからクーデターのような事件を意味する。
壬子は、壬も子も共に方位では北に配される干支で、北はまた☵坎(水)が配される方位だから、壬子で☵坎(水)が並んだ29䷜坎為水となり、この卦は険難の中でどうにもならない最悪の状態を意味する。
日付の干支の己亥は、己は☷坤(地)、亥は西北に配され、西北はまた☰乾(天)が配される方位なので、己亥で11䷊地天泰となる。
この卦は万物生成のおめでたい形であると共に、天と地の位置が上下逆転しているので、逆転という意味にもなる。
とすると、この生年の日付は、クーデター、険難、逆転というキーワードなのであって、クーデターで険難のときに生まれたの逆、すなわち、クーデターが起きて逃げられずに殺害された、と示していることになるのだ。
そして24歳と20歳の矛盾は、その垂仁男帝が殺害された年を教えていたのである。
11垂仁天皇99年条には、垂仁天皇は99年秋7月に崩御したとある。
しかし次の12景行天皇即位前紀では、垂仁天皇99年2月に垂仁天皇は崩御したとあり、翌元年条で、秋7月に景行天皇が即位し、この歳は辛未だった、とある。
おや、ここにも矛盾がある。
垂仁天皇の崩御が春2月と秋7月で異なっている。
その上、日本書紀の古代天皇の場合、通常は前帝崩の翌年正月に即位となっているので、前帝が99年2月に崩御したのなら、翌年正月即位が普通なのに、何の説明もなくその正月の半年後の秋7月即位としているのだ。
この年の前半に前帝が崩御し、新年になるのを待たず7月に即位したのなら、まあわかるが、そういうわけでもない。
なんか変である。
とするとこれは、この99年という数字に注目させるための仕掛けに違いない。
そこで99だが、9という数は1と共に☰乾(天)に配される。
とすると99は、☰乾(天)を通じて11という年を示していることにもなる。
崇神女帝は907年に崩御。
垂仁男帝はクーデターで殺害された。
4年という数字の矛盾。
崩年の99は11に通じる。
以上のことを合わせて考えると、垂仁男帝がクーデターで殺害されたのは、崇神女帝が崩御した皇紀907年丁卯から4年が経過した911年だった、ということになり、崇神女帝崩の年の丁卯から干支の順を辿ると、景行元年と同じ辛未歳となる。
その垂仁男帝が何者かに殺害されたことにより、従兄妹の応神女帝が即位し、昔ながらの神懸りで国を治めたのだが、これ以降、履中女帝のときに神武男帝が分裂するところまで、暗号は各女帝たちの皇位継承順と蘇りのために自殺した年が示されているだけだった。
その各女帝たちの自殺年、ここでは基本的に崩年と呼んでおくが、それは次のように導き出された。
〇 応神女帝の崩年
応神女帝の崩年の手掛かりは、古事記の応神天皇の甲午年9月9日崩という記事である。
9月9日は9が重なっているわけだが、9の重なりは99年をも連想させ、垂仁天皇は99年春2月に崩御し、翌年7月に景行天皇が即位して元年とした、といいう記事がオーバーラップする。
暗号では垂仁の次は応神で、その次が景行である。
したがってこれらの記事は、応神女帝は甲午歳に蘇りのための自殺をした、すなわち崩御したと教えていたのであって、計算すると垂仁男帝が殺害された皇紀911年の23年後となる皇紀934年甲午歳=西暦274年になる。
応神女帝に続くのは景行女帝だが、それは次のページでお話しする。
前ページ ページTOP 次ページ
|