危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第四章 持統天皇と〇〇の危険な情事!
1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味 2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史 3、高市皇子による持統天皇暗殺事件! 4、草壁皇子の出生の秘密 5、暗号のための日付と正しい日付 6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史
暗号解読を行うに当たっては、無用の混乱を避けるためにも、まずは暗号所在箇所を中心に、持統天皇とその周辺の表向きの歴史を簡単にまとめておく。
○ 皇紀1317年(西暦657年)丁巳歳・斉明3年
持統天皇(天智天皇の娘、幼名=鸕野讃良皇女)が、天武天皇(天智天皇の弟、幼名=大海人皇子)の妃となる。
○ 皇紀1322年(西暦682年)壬戌歳・天智元年
天武天皇と持統天皇の間に草壁皇子が生まれる。
○ 皇紀1332年(西暦672年)壬申歳・天武元年
天武天皇が大友皇子(天智天皇の子)を征討しいわゆる「壬申の乱」)、即位する。
○ 皇紀1337年(西暦677年)丁丑歳・天武6年11月
赤烏が献上される。‥‥‥「赤い鳥」に関する記事は天武紀の特徴の一つで、この他9年7月条に「朱雀、南門に有り」、10年7月条にも「朱雀見ゆ」とあり、さらには15年を改めて、朱鳥元年としているのだが、これはその赤い鳥記事の最初。
○ 皇紀1314年(西暦681年)辛巳歳・天武10年2月庚子朔甲子(25日)
草壁皇子が皇太子となる。また、同年3月には、歴史書編纂に着手する。
○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌歳・朱鳥元年9月戊戌朔丙午(9日)
この年の5月より病床にあった天武天皇が、この日に崩御する=『古事記』序文の暗号によれば、毒を盛られたということだが…。
天武天皇が崩御すると、天武天皇と太田皇女(持統天皇の姉)との間に生まれた大津皇子が、皇太子草壁皇子に謀反する。しかし翌10月には事が発覚し、クーデターは未遂に終わり、大津皇子は処刑される。ただし、何故謀反したのかについての記載はない。
なお、この年の出来事としては、歴史の本筋とはおよそ無関係のような、動物の奇怪な行動を書いた次のような記事がある。
「是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」
原文=是歳、蛇犬相交、俄而倶死。
○ 皇紀1349年(西暦689年)己丑歳・持統3年4月癸未朔乙未(13日)
皇太子草壁皇子薨去。本来であれば天武天皇崩御の後を継いで即位して然るべきところだが、結局は皇太子のまま終わっている。死因と即位がなかった理由についての記載はない。
また、同月甲辰(22日)には春日王なる人物も薨去したとあるのだが、この人物はこの薨去記事にしか登場しないので、家柄その他一切不明なのが気になるところである。
なお、この年の正月より11年4月までの間に、持統天皇は計31回も吉野宮に行幸したとある。吉野は「壬申の乱」の前に天武天皇が出家修養のために訪れた地ではあるのだが、何故このように頻繁に行幸したのかについては触れていない。
○ 同年12月己酉朔丙辰(8日)
これも前後の歴史と無関係で、唐突な記事なのだが、「双六を禁止した」とある。
原文=十二月己酉朔丙辰、禁二断双六一。
○ 皇紀1350年(西暦690年)庚寅歳・持統4年正月戊寅朔(1日)
持統天皇が正式に即位。天武天皇崩御の翌年から持統天皇の年とされていることや、草壁皇子の即位がなかったことを考えると、天武天皇崩御のときから、実質的には持統天皇の治世だったかのような印象を受けるが、正式な即位が遅れた理由の記載はない。
○ 同年7月丙子朔庚辰(5日)
高市皇子(天武天皇の庶子)が太政大臣(皇太子格)となる。
○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳・持統7年9月丁亥朔丙申(10日)
天武天皇のために法要を営む。ただし命日(9日)ではないのが不審。なお、一周忌の持統元年を除くと、命日にちなむ行事が記載されているのは、後にも先にもこれだけである。
○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳・持統8年4月甲寅朔丁亥(34日?)
持統天皇は、この月の庚申(7日)に吉野宮へ行き、この日に帰って来たとあるのだが、甲寅を朔とすると丁亥は34日となるので、矛盾している=旧暦の一カ月は29日または30日だから、34日という日付はあり得ない。
○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳・持統11年7月辛丑朔(1日)
この日に日蝕があったと記す。なお日蝕の記事は、この他に持統5年10月、7年3月と9月、8年3月と9月、天武10年10月、舒明8年正月と9年3月、推古36年3月にもある。
○ 同月庚戌(10日)
高市皇子薨去。死因の記載はない。
○ 同年8月庚午朔甲午(25日)
多臣品治が、堅く関を守り元より従った功により、褒美を賜る。
表向きの歴史から推測すれば、彼の「壬申の乱」の功績を称えたもののようなのだが、だとするとなぜ、今になって24年も前のことを持ち出したのか、いささか不審である。
○ 皇紀1357年(西暦697年)丁酉歳・持統11年5月丙申朔癸卯(8日)
この日に雨乞いをしたとある。しかし同じことが翌6月丙寅朔癸卯にも行われたかのように記されているのである。
これはおかしい。5月8日が癸卯なら6月に癸卯は存在しない。干支は六十日で一巡だから、次の癸卯は六十日後である上に、6月丙寅朔とあることから計算すれば6月38日となってしまう。矛盾である。
○ 同年8月乙丑朔(1日)
天皇は、策を禁中に定めて、皇太子に譲位する。
この皇太子というのが誰なのか、本文には書かれていない。本来の皇太子であった草壁皇子はすでに薨去している。
『続日本紀』によれば、この皇太子は草壁皇子の子、文武天皇のこととなる。
以上が持統天皇とその周辺の表向きの歴史だが、このうち持統8年4月条や11年6月条のような干支の矛盾は、「持統紀」以外にも散見するが、やはりこれらも暗号だったのである。
が、そろそろ暗号解読に移ることにしよう。
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