危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第四章 持統天皇と〇〇の危険な情事!
1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味 2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史 3、高市皇子による持統天皇暗殺事件! 4、草壁皇子の出生の秘密 5、暗号のための日付と正しい日付 6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
5、暗号のための日付と正しい日付
○ 草壁皇子暗殺事件の日付
持統三年四月の草壁皇子薨去記事は、三と四で18履中天皇のA列21䷔火雷噬嗑を示すことで、古事記の18履中天皇のところに秘密があると教える暗号だったのだから、この三年四月は事実とは言い難い。
しかし日付の乙未はこの暗号とは何ら関わりを持たないから、この干支だけは正しく、したがって別の年月の乙未の日に事件は起きたものと言えよう。
その別の年月は次のように考えることで浮上する仕組みになっていた。
草壁皇子は皇太子(日継宮)なのだから、持統天皇暗殺事件と同様に日蝕記事が一つの鍵になりそうだ。
そう考えて日蝕記事を洗い出してみると、五年十月、七年三月、七年九月、八年三月、八年九月、そして持統天皇暗殺事件の十年七月とあった。
この記事に接して思うのは、日蝕はこんなに頻繁に観測されるものなのだろうか、ということである。
私が生まれてから現在までの間でも、確かに日蝕はたまにあるが、東京で見られたのは、部分日蝕が数年に1回程度だった。
現代ならば精密な天文学の計算でこれらの日蝕記事が本当なのか否か容易にわかるが、当時ならば、かなりアバウトな天文学だったはずで、日本書紀執筆時の想定読者には、これらが本当か否かを知る手がかりはないはずだ。
とすると、こんなに多くの日蝕記事は何やら怪しい。
暗号に違いない。
暗号ならば必ずこのうちの何れかが、草壁皇子が殺された日を教えているのであって、それは別の角度から探ることで特定されるはずである。
探してみると案の定、大津皇子謀反を記す持統称制前紀の最後に、正に暗号と呼ぶべきこんな文章があった。
是歳、蛇犬相交、俄有倶死。(原文)
是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。(書き下し)
この年には、大津皇子が草壁皇子の出生疑惑から謀反を起こして捕まり、処刑されたわけだが、干支は丙戌=犬である。
とすると「倶に」というのはこの大津皇子と草壁皇子の二人を指しているのであって、残る蛇(巳)の歳に草壁皇子が殺害されたと示していることになる。
次の蛇(巳)歳は持統七年癸巳である。
持統七年癸巳歳には、前述のように三月と九月に日蝕記事があるが、このどちらかが草壁皇子殺害の月となる。
どちらの記事で殺害の日時を教えているのだろうか。
三月庚寅朔、日有レ蝕之、<中略>、乙未、幸二吉野宮一、<後略> (原文)
三月庚寅朔(1日)に、日蝕えたること有り、<中略>、乙羊(6日)吉野宮に幸す。<後略> (書き下し)
九月丁亥朔、日有レ蝕之、<中略>、丙申、為二清御原天皇一、設二無遮大会於内裏一、
九月丁亥朔(1日)に、日蝕えたること有り、<中略>、丙申(10日)に、清御原天皇(天武天皇)の為に、無遮大会を内裏に設く。<後略> (書き下し)
乱数表(易の理論)
三月条の方には、乙未=六日の出来事として吉野宮への行幸を記しているが、三月六日の三と六という数字を易の卦に置き換えると、三は☲離(火)・六は☵坎(水)だから、64䷿火水未済となる。
未済は「未だ済らず」ということだから、「まだ事件は起きていない」と示していることになる。
したがって、三月はダミーで、九月が正しいと教えていることになる。
仮に三月が正しいのなら、それなりの暗号があるはずだ。
一方、九月条には不審な点がある。
天武天皇の命日は九月九日なのだが、無遮大会(命日の法要)が10日に行われたとされている上に、一周忌とこの記事以外には命日に関する儀式についての記載がないのだ。
一般人なら、諸般の事情で命日の法要の日付をずらすことはあるだろう。
しかし天皇の場合は日付をずらすなどということはあり得ない。
そのためこれまでの研究でも、命日の翌日に無遮大会が行われたというのは不審だとして、九月一日の干支が丁亥というのは誤りであって、正しくは翌日の戊子が一日なのではないか、とも考えられている。
戊子朔丙申ならば命日の九日ということになる。
そして乙未は丙申の前日なので、この場合は八日となる。
しかし朔干支が誤りか否かは、読者には判断できないから、暗号としては不親切である。
不親切だと解読されない可能性が高くなる。
したがって、この説は有り得ない。
とするとこの矛盾は、天武天皇の命日を印象付けるためのもので、朔干支はそのまま丁亥が正しく、丁亥朔丙申(10日)ではなく、前日の乙未(9日)すなわち天武天皇の命日に事件は起きたと告げているのに他ならない。
いささかややっこしいが、要するに草壁皇子暗殺事件は持統七年九月丁亥朔乙未(9日)に起きた、ということである。
なお、天武天皇の命日の法要が実際にあったのか否かは不明。
これで草壁皇子暗殺事件の日時の方も確定したことになるが、だからと言って日付の全てが解決したわけではない。
このことにより新たなる問題が浮上するからである。
高市皇子が太政大臣(皇太子格)となった年月日である。
○ 高市皇子が太政大臣となった年月日
表向きには持統四年七月丙子朔庚辰となっているが、これは草壁皇子がその前年の持統三年四月に薨去したという表向きの物語に従ったものであって、実際は草壁皇子暗殺事件の持統七年九月九日以降でなければ、辻褄が合わない。
皇太子がいるのなら、別の人物が皇太子格となることはないはずである。
そこで次に、その高市皇子が太政大臣となった正しい年月日を探る。
持統天皇暗殺事件と草壁皇子暗殺事件の日付は、共に干支の矛盾から導き出されたわけだから、今回も干支の矛盾が手掛かりと考えられる。
日本書紀の持統天皇の巻には、まだ解き明かしていない干支の矛盾する記述がひとつ残っている。
持統八年の夏四月甲寅朔丁亥(34日)である。
六十干支一覧表で計算すれば明かなことなのだが、これは34日ということになるので有り得ない日付であり、この文節には次のようなことが書かれている。
夏四月甲寅朔戊午、以二浄大肆一、贈二筑紫大宰率河内王一、幷錫二賻物一。
庚申、幸二吉野宮一。
丙寅、遣二使者一、祀三広瀬大忌神與二龍田風神一。
丁亥、天皇至レ自二吉野宮一。
庚午、贈二律師道光賻物一。(以上原文)
夏四月甲寅朔戊午(5日)に、浄大肆を以って、筑紫大宰率河内王に贈ふ。併て賻物賜ふ。
庚申(7日)に、吉野宮に幸す。
丙寅(13日)に、使者を遣して、広瀬大忌神と龍田風神とを祀しむ。
丁亥(34日)に、天皇、吉野宮より至します。
庚午(17日)、律師道光に賻物贈ふ。(以上書き下し)
なお、この矛盾する干支の丁亥は、草壁皇子暗殺事件の正しい年月日を教える記事の朔干支でもあった。
ただし写本によっては、丁亥を丁未とするものがある。
しかしこの場合も54日となるので、やはりあり得ない日付けで矛盾する。
表向きの物語にとってのこの記事は、あまり重要な出来事ではないが、だからこそ暗号が仕込まれている可能性が高い。
あれこれ調べてみると暗号はここに登場する干支だった。
この文章から干支だけを抜き出すと、甲寅、戊午、庚申、丙寅、丁亥、庚午の合計六つである。
高市皇子が太政大臣となった表向きの日付は、持統四年七月丙子朔庚辰(5日)である。
六十干支では、庚の日は十日毎に、庚午、庚辰、庚寅、庚子、庚戌、庚申の順に巡る。
このうちの庚申と庚午が、この記事に登場する。
庚申、庚午と来れば、次の庚は庚辰(表向きの太政大臣となった日の干支)である。
四月甲寅朔ならば、庚辰は27日に当たる。
27日は、この四月条に出てくる六つの日付(1日=朔、5日、7日、13日、34日?、17日)の次、すなわち七番目の日付となる。
表向きは四年七月である。
四月の記事に登場する七番目の干支と四年七月…四の七。
数字の上で一致する。
また、この八年夏四月条は、朔(1日)には記事がないことから、朔干支の甲寅を無視するとともに、矛盾する丁亥も除外すれば、日付の干支は戊午、庚申、丙寅、庚午の順に四つあり、これに庚辰を加えれば、庚辰は27日に当たるとともに、五番目となる。
高市皇子が太政大臣となったのは、表向き持統四年七月丙子朔庚辰(5日)とされているが、丙辰朔庚辰は五日だから、これも五という数字で一致する。
すなわち高市皇子が太政大臣となったのは、草壁皇子が殺害された持統七年九月から半年が過ぎた持統八年四月甲寅朔庚辰(27日)だったのであって、それを教えるためにこのような数字の一致と丁亥の矛盾が作られたのである。
これで日付についてはひとまず解決した。
何れも干支の利用法が巧みで、しかも無駄がなく、しびれる。たまらない。
しかもこれで、これまで歴史学者が意味不明としてきた持統天皇の巻の干支の矛盾がすべて解決したのにも驚いた。
さらに深く暗号解読を進めて行きたくなる。
どんな仕掛けなのか、興味津々だ。
が、調子に乗らず、地に足をつけて、天武天皇と持統天皇の関係を中心に、さらに解読を進めて行こう。
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