危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
前ページ もくじ 次ページ
第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第四章 持統天皇と〇〇の危険な情事!
1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味 2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史 3、高市皇子による持統天皇暗殺事件! 4、草壁皇子の出生の秘密 5、暗号のための日付と正しい日付 6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
3、高市皇子による持統天皇暗殺事件!
〇 安康天皇殺害事件の意味
各天皇とA列B列との関係表
さて、暗号解読を始めよう。
古事記に記載の崩御時の年令のうち、A列B列と繋がりのない1神武137歳、12景行137歳、14仲哀52歳、17仁徳83歳、21安康56歳の五人の天皇のうち、1神武・12景行・14仲哀の三人については、日本書紀の1神武天皇即位年が机上で算出された架空の年代だということを教えるためのものだった。
残るは17仁徳天皇83歳と21安康天皇56歳だが、この段階では17仁徳天皇についてを探る手がかりがなかったので、取り敢えず21安康天皇についてから探ってみた。
その結果、この安康天皇の56歳は、41持統天皇は42文武天皇に譲位する前年に、すでに高市皇子に暗殺されていた、ということを教える暗号だった。
40天武天皇が病気で崩御したときには、誰もそれが毒殺だとは気づかなかったのだが、後に41持統天皇が、何かの折にポロッと言ってしまい、たまたまそれを高市皇子が知り、父の仇として殺害したのだった。
この事件をおしえるために作られたのが、21安康天皇の物語だった。
要約すると次のようなことである。
安康天皇は謀略に乗せられて大日下王を殺害し、その妻を娶って皇后とした。
皇后にはすでに、大日下王との間に7歳になる目弱王という王子がいた。
その目弱王には、自分が父親を殺害したことは伏せていた。
ある日、目弱王が床下で遊んでいたら、部屋の中での安康天皇と母親との会話が漏れ聞こえてきた。
その会話から目弱王は、自分の父親は安康天皇に殺されたことを知った。
すると目弱王は、居ても立ってもいられなくなり、安康天皇が寝込んだ隙にその首を討ち斬って殺害した。
事を遂げるとその足で都夫良富意美という人物の家に逃げ込んだ。
しかしすぐ追手に見つかり、都夫良富意美と共に交戦したが、程なく力尽き、目弱王は観念して都夫良富意美に自分を切らせ、都夫良富意美も自害した。
ざっとこんな流れの物語なのだが、まず違和感なのは、たった7歳の子供である目弱王が首を討ち斬って殺害するなんて本当に可能なのか、ということだ。
しかも古事記で殺害されたと書いてあるのは、唯一この安康天皇だけなのである。
日本書紀では、崇峻天皇は蘇我馬子によって殺害されたと書いてあるが、古事記では、崇峻天皇は在位4年で崩御した、とだけあり、殺害には一切触れていないい。
また、安康天皇のA列24䷗地雷復と持統天皇のA列44䷫天風姤は、すべての陰陽を逆にした卦で、算木では表裏の関係にある。
表裏の関係は、表の顔と裏の顔、なんていう言葉があるように、持統天皇の裏の顔、すなわち真実を教えようとしている可能性が高い、と考えられる。
そこで、A列B列と繋がらない安康天皇の古事記の崩年令の56歳という数字である。
仲哀天皇の52歳が皇紀1252年推古天皇即位の年を示していたことを考えれば、これも皇紀の下二桁の可能性がある。
持統天皇の時代で下二桁が56となのは皇紀1356年=持統10年である。
だったら日本書紀の持統10年に、この物語と繋がる記事はないかと探してみた。
と、すぐに見つかった。
〇 日蝕が教えること
秋七月辛丑朔、日有ㇾ蝕之、(原文)
秋七月辛丑朔に、日蝕えたること有り、(書き下し)
7月1日に日蝕があった、というだけの記事である。
普通に歴史の流れを追いかけるのであればどうでもよい記事だが、だからこそピーンと来た。
天照大御神が日の神とされ、また日嗣という言葉があることから、天皇は日=太陽に擬えられるわけだが、日蝕はその太陽が欠けることすなわち天皇が欠けることに繋がるではないか。
そしてこの時代の天皇は持統天皇なのだから、持統天皇が崩御したと示していることにもなる。
〇 高市皇子と目弱王の繋がり
乱数表(易の理論)
この年は高市皇子が持統4年に太政大臣いわゆる皇太子格となって7年目だが、目弱王が7歳で安康天皇を殺害したということと、7という数が共通している。
また、この日蝕記事の少し後、7月10日に高市皇子が薨去したという記事もあり、
目弱王が安康天皇殺害後すぐに逃げられないと観念して自害したことがオーバーラップする。
そこで、目弱と高市という名を易の卦に変換してみたところ、同じ卦になることがわかった。
目弱は、目は☲離(火)、弱は強を陽としたときの陰なのでその極みの☷坤(地)とすれば、合わせて䷢火地晋となる。
一方の高市は、高は☴巽(風)、市は人が集まるところだから「集まる」という意の42䷬沢地萃を連想させるので、合わせて☴☱☷巽兌坤(風沢地)の三卦となる。
あれ?これは䷢火地晋ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、これが易の面白いところで、記号に目が慣れていれば、これを見て、おお、䷢火地晋だ!と、わかるのだ。
この三卦のうちの上の☴☱巽兌(風沢)の二卦は二本で一本として☲離(火)に集約できるからだ。
したがって最終的には、目弱と同じ䷢火地晋なのである。
こんな一致は、高市という名が最終的に䷢火地晋という卦を示すことから、同じその䷢火地晋を示す文字列を考えて、目弱という名を創作したのでなければ有り得ない。
表面的には、高市と目弱という文字列には、何の共通性も感じられないが、だからこそ暗号として利用することにしたのだろう。
そして日本書紀だけしか読まない読者には、さらに煙に巻くために、目弱王を眉輪王と表記したのだろう。
とにかく、このように安康天皇暗殺物語は、高市皇子が父の仇として持統天皇を暗殺したことを教えるために創作されたものだったのである。
〇 干支の矛盾が教える正しい日付
ただし太陽太陰暦では、日蝕は月の1日から遅くとも2日までの間にしか起こり得ないので、この日蝕記事は「持統天皇は7月に殺害された」と示すだけで、日付は別の暗号があるはずだ。
が、それはすぐに見つかった。
翌持統11年5月条と6月条の請雨(雨乞い)記事の干支の矛盾である。
五月丙申朔癸卯、遣二大夫謁者一、詣二諸社一請雨。
六月丙寅朔、<中略>、癸卯、遣二大夫謁者一、詣二諸社一請雨。(原文)
五月丙申朔癸卯(8日)に、大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。
六月丙寅朔、<中略>、癸卯に、大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。(書き下し)
このように、持統十一年五月丙申朔癸卯の日に請雨をしたとあると共に、同じ記事が翌六月癸卯の日にもあるのだ。
五月は一日が丙申とあるので癸卯は八日となり、実在するが、干支は六十で一巡なので、五月に癸卯があるのなら六月にはない。
六十干支一覧表から計算すると6月38日ということになってしまう。
矛盾である。
これまでの歴史学では、錯誤により同じ記事が重複しているのだろう、と推測されているが、このような矛盾こそが暗号だったのだ。
請雨(雨乞い)とは、旱魃にならないように雨が降るのを願うことだが、雨が降るときは太陽が雲に隠れて見えなくなるのだから、日蝕と同じく天皇崩御を連想させる。
持統十一年の十一という数は、正式に書けば一十一なので、一と一の組み合わせの乾為天となる。
六月の六という数は、その乾為天の6番目を指すとすれば、乾為天は天すなわち天皇、6番目は最上の位置で、易の卦は下から上に向かって数えるものなので、この乾為天の最後、すなわち天皇の最後を意味し、これも崩御を連想させる。
したがってこの干支の矛盾こそが正しい持統天皇殺害の日付を教える暗号だったのだ。
先ほどの日蝕記事の持統10年7月から探すと、3日が癸卯となる。
すなわち高市皇子によって持統天皇が殺害されたのは持統10年7月3日だ、と暗号は示しているのだ。
〇 高市皇子薨去の意味
ところで、持統十年七月条の少し先には、次の記事がある。
庚戌、後皇子尊薨。(原文)=庚戌(10日)に、後皇子尊(高市皇子)が薨去した。(訳)
高市皇子を意味する目弱王は、安康天皇暗殺後、一旦は都夫良意富美の家に逃げ込み、都夫良意富美と共に追手と交戦するが、やがて力尽き、目弱王は諦め、都夫良意富美に自身を殺させ、都夫良意富美も自害した、とある。
とすると、この高市皇子の薨去も自害であって、その経緯は次のようなことだと言えよう。
皇子の天皇暗殺は例え父の仇だとしても大罪には違いなく、またこの暗殺事件が世間に漏れれば、それが引き金となって国中が大混乱に陥る可能性もある。
そこで事件は内密に処理され、表面上は何もなかったかのように装い、持統天皇には、言うなれば影武者を仕立て、約一年後には穏便に譲位したかのように見せかけた。
そう考えると、翌八月庚午朔甲午(25)のちょっと謎な次の記事の意味が理解できる。
八月庚午朔甲午、以二直広壱一、授二多臣品治一、幷錫レ物、褒三美元從之功與二堅守関事一。(原文)
八月庚午朔甲午(25)に、直広壱を以って、多臣品治に授けたまふ。幷て物錫ふ。(書き下し)
8月25日に、多臣品治が堅く関を守ったので、官位を上げて褒美を与えた、といった意である。
表向きの歴史からだと、24年前の壬申の乱のときの作戦で、きちんと命令に従ってやるべきことをやったので官位を上げ、褒美を与えたのだ、とも推測できなくはないが、それなら壬申の乱のときの功績だと書くべきである。
持統七年九月条では、蚊屋忌寸木間という人物に、壬申の乱の功績によって位を授け褒美を与えた、と書いてあるのだから、ここではきちんと書いてないことに違和感が残る。
とすると、壬申の乱のことではなく、別のことで官位を上げ、褒美を与えたということ考えた方が自然である。
暗号を解読してみると、次のように理解できるのだ。
多臣品治という名前は、臣と品を横に並べてチョイと付け加えれば多臨治となり、ちょっと乱暴ではあるが、「多が臨機応変に治めた」という意を汲み取れる。
日本書紀では都夫良意富美を圓大臣と表記していて、圓は新字体の円であるとともに、丸く治めるという言葉があるように、治めるという意味合いがあり、大は多と訓読みが同じ「おほ」という発音の文字である。
とするとこの記事は、表向きには24年前の「壬申の乱」の功績を称えたふうに装いつつ、裏では多臣品治によって持統天皇暗殺事件は内密に処理されたことを示していたのである。
無論このように読めるからには、この多臣品治も本名ではなく、太安萬侶の父親に当たる多氏の家長であることを含めて暗号化するために、創作されたものだと考えるのが順当だろう。
とすると、暗殺に到る経緯や、その後の持統天皇譲位までの期間はどうなっているのか、ということになるが、それも暗号で示されていた。
次のページでは、その中から、そもそもの原因である草壁皇子の出生の秘密についての暗号解読のお話しする。
が、解読の結果得られた歴史だけを知ればよいということならば、この章の最後、7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史に進んでください。
前ページ ページTOP 次ページ
|