危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第十章
第九章 古代女帝政権の終焉
1、武力衝突を繰り返す二王朝 2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害 3、聖徳太子の本当の姿 4、大化の改新の真相 5、女帝政権の崩壊 6、壬申の乱=最後の悪あがき
3、聖徳太子の本当の姿
聖徳太子のことは、実は古事記日本書紀では一度も聖徳太子とは呼んでいない。
古事記では厩戸豐聰耳命とし、日本書紀では用明天皇のところで、厩戸皇子またの名を豐耳聰聖コまたの名を豐聰耳法大王また法主王とも呼ばれていた、とすると共に、推古天皇のところでは、厩戸豊聰耳皇子と表記している。
近年の歴史教科書で厩戸皇子と呼ぶことが多いのはそのためだ。
恐らくは、またの名に豐耳聰聖徳とあると共に、敏達天皇の五年春三月条で東宮聖コと書いていて、さらには十七条の憲法を作ったとあることを称え、いつしか聖徳太子と呼ばれるようになったのだろう。
が、とにかくここでは、原則として慣例どおり聖徳太子と呼ぶことにする。
〇 聖徳太子の両親
乱数表(易の理論)
聖徳太子は、表向きの歴史では、32用明天皇と穴穗部間人皇女との間に生まれたことになっているが、暗号では、用明は継体女帝の娘であって、聖徳太子は男帝側の人間だから、この親子関係は虚構である。
とすると、実際は誰の子なのか、ということになるが、それを知る手がかりは日本書紀の用明天皇のところに記された聖徳太子のまたの名のひとつ、豊耳聰聖徳だった。
この名前に注目したのは、古事記に記載された厩戸豊聰耳命と、豊耳聰聖徳では、豊聡耳と豊耳聰で、文字の順が逆になっているからだ。
通常の研究では、豊耳聰とあるのは誤記だとして気にも留めないようだが、こういった誤記と思われる記述こそが、暗号の可能性が高いというものだ。
そこで、豊耳聰を易の卦に置き換えてみた。
豊は55䷶雷火豊、耳聰は、耳は☵坎(水)・聰は愚と対比したときの陽だからその極みの☰乾(天)となるので5䷄水天需となる。
55䷶雷火豊は☲離(火)の女性の上で☳震(雷)の男性が震動している形として男女の営み、5䷄水天需の需は「待つ」という意味だから、何かを待っていることになる。
男女の営みで待つのは子が生まれることである。
とすると、誰と誰が男女の営みで子が生まれるのを待ち望んだのか、ということになるが、それはこの四つの八卦を縦に並べてみると見えて来た。
一番上の☳震(雷)と一番下の☰乾(天)で34䷡雷天大壮となり、中ほどの☲離(火)と☵坎(水)で64䷿火水未済となる。
35䷡雷天大壮が64䷿火水未済を包み込んで抱いている様子である。
35䷡雷天大壮31敏達天皇のA列である。
64䷿火水未済はA列では神世の時代なのでB列から探すと35舒明天皇に当たり、35舒明天皇は第五章でお話ししたように、推古女帝と同一人物で、易六十四卦の円周と表向きの皇統譜との数を揃えるために性別を変えて再登場させた人物である。
したがって聖徳太子は、敏達男帝と推古女帝の間に生まれた男子、ということになる。
おそらくこの頃になると、武力では双方互角あるいは革命軍がやや優位になり、皇紀1251年辛亥に継体女帝と用明皇女、崇峻男帝が殺害されたことで、女帝政府、男帝革命軍が共に和睦を考え、二王朝を統一する方向で協議がなされ、革命軍が双方の血を引く者を王としたいと女帝政府に申し入れ、それを受け入れて推古女帝が敏達男帝と肉体関係を持った、ということなのだろう。
そして生まれたのが聖徳太子だったのである。
とすると聖徳太子が生まれたのは皇紀1251年辛亥以降となるので、十七条の憲法ができた皇紀1264年甲子=西暦604年は、まだ12歳以下ということになる。
したがって十七条の憲法も古事記日本書紀編纂時の創作ということだろう。
なお、厩戸皇子という名は、次のように、聖徳太子は表向きの年代よりも少し後の人物だ、と教える暗号だった。
厩という字は、广=麻垂れの下に既と書くが、广は屋根を意味し、既はエサを与える姿の象形なので、馬小屋すなわち馬屋という意味になるのである。
字体によっては厂=雁垂れ場合もあるが、とにかく屋根は上から降ってくるものを防ぐためのもので、これを意味する八卦は☳震(雷)である。
上から降って来た細かいものである二陰を、最下の一陽が止めている様子である。
その屋根の下にあるのは既という字の昔の字体である。
既と言えば既済=63䷾水火既済という卦を連想させる。
厩度の戸は、人の出入りを止めるものなので☶艮(山)になる。
したがって厩戸は、☳震(雷)・63䷾水火既済・☶艮(山)で、62䷽雷山小過が63䷾水火既済を包んでいることになるのだ。
63䷾水火既済は34推古天皇のB列で、表向きの聖徳太子は推古天皇の時代の皇太子として描かれている。
62䷽雷山小過の小過は「少し過ぎる」という意である。
すなわち聖徳太子が生きた時代は、表向きよりも少し後だ、と教えるために作られたのが、厩戸皇子という名前だったのだ。
〇 欽明女帝の次は聖徳太子の母親の推古女帝が即位
ところで、この時代の女帝政府は欽明女帝だが、日本書紀には30欽明天皇の13年=皇紀1212年癸酉=西暦552年に仏教が伝来したという記事がある。
これは、それよりも四十年程度後の、この欽明女帝の時代に仏教が伝来したことを教えていたのであって、仏教伝来が食人による蘇りに疑問を持つ人々を増やし、それが徐々に女帝側の力を衰えさせたようである。
その欽明女帝の崩年は次のように導き出された。
古事記には30欽明天皇の崩年干支の記載はないので、日本書紀を見ると、欽明天皇の年令に関して気になる記述があった。
欽明天皇は即位のとき、年は若干だった、とあり、欽明32年の崩御のときにも、年は若干だった、とあるのだ。
若干とは、それほど多くない数を意味する言葉である。
即位のときは若干だったとしても、その32年後の崩御時にも年は若干だった、というのは不自然である。
例えば、即位のとき10歳で、それを若干と表現したのだとしても、その32年後は42歳で、とても若干とは言えない。
したがってこれが暗号であり、考えられるのは、崩御の欽明32年を即位の時とし、そこから32年後が欽明女帝の崩年だと示している、ということである。
欽明天皇元年(即位の翌年)は庚申だから、六十干支表から計算すると、崩御の欽明32年は辛卯になり、その32年後は癸亥になる。
前帝崩の皇紀1251年以降の癸亥は皇紀1263年である。
したがって欽明女帝崩は皇紀1263年癸亥=西暦603年、表向きの十七条の憲法発布の前年となる。
もちろんこれも蘇りのための自殺で、仏教なんかに惑わされず、昔ながらの掟に従った、ということだろう。
欽明女帝の次は、ここまでの女帝側の系図の様子からすれば、継体女帝の末娘である皇極(斉明)が皇位に就くはずだが、推古女帝の即位を否定する暗号はないので、欽明の次はその聖徳太子の母親である推古女帝となる。
まだ幼い聖徳太子を、やがて王とするための男帝革命軍の要望で、衰えてきた女帝政府は受け入れざるを得なかったのだろう。
〇 敏達男帝の崩年
その聖徳太子の父親である敏達男帝の崩年は次のように導き出される。
古事記では甲辰年4月6日崩とあるのだが、4は☳震(雷)・6は☵坎(水)だから、4月6日で40䷧雷水解となり、解は解消という意だから、甲辰に崩御したことは解消、すなわち事実ではなく、別の年だと示していることになる。
と同時に、䷧雷水解は37孝徳天皇のA列であり、甲辰は孝徳天皇即位元年である大化元年乙巳の前年である。
孝徳天皇は聖徳太子の真実を伝えるための暗号だと第五章でお話ししたが、とすると、基本的に新帝即位は前帝崩の翌年なのだから、孝徳天皇即位前後の記事を探れば前帝である敏達男帝の崩年はわかるはず。
そう考えて日本書紀のページをめくってみると、大化元年条の最後に、いかにも暗号らしい記事があった。
冬十二月乙未朔癸卯(9日)、天皇、都を難波長柄豊碕に遷す。
老人等、相謂りて曰はく、春より夏に至るまでに、鼠の難波に向きしは、都を遷す兆なりけり。
戊午(24日)に、越國言さく、海の畔に枯査、東に向きて移り去りぬ。沙の上に跡有り、耕田れる状の如し。
是歳、太歳乙巳。(書き下し)
冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷二都難波長柄豊碕一。老人等相謂之曰、自レ春至レ夏、鼠向一難波二、遷都之兆也。戊午、越国言、海畔枯査、向レ東移去、沙上有レ跡、如二耕田状一。是歳、太歳乙巳。(原文)
文中に出て来る難波長柄豐碕というのは、現在の大阪市中央区法円坂にある難波宮跡公園付近である。
直前の都は奈良県飛鳥地方だったから、かなり離れた場所に遷都している。
現代ならば近鉄特急と地下鉄を乗り継いで1時間くらいだが、小さな鼠が飛鳥から難波へ移動するのはとてつもなく大変なことである。
その上、春より夏に至るまでに鼠が移動すると遷都の予兆だとは、どういうことだろうか?
「春より夏に至る」は、☳震(雷)〜☴巽(風)〜☲離(火)の方位の干支を示すものとすれば、丁度この乙巳歳がその範疇である。
乙は春で☳震(雷)、巳は春と夏の間の☴巽(風)である。
そもそもこの遷都は、孝徳天皇の即位によるものである。
とすると、孝徳天皇の即位は、本当は乙巳ではなく、それとはかけ離れた年だった、と示している気配だ。
これが暗号ならば、その本当の即位年が後半に示されているはずだ。
後半の「海の畔」は、要するに水のあるところだから水を意味する☵坎(水)の方角である北を示していることになる。
「枯査、東に向きて…」というのは、そのうちの東にある干支を指していることになる。
北に配される干支は十二支の子と十干の壬と癸で、このうち方位図を描くときに一番東に配されるのは癸である。
とすると、続く部分には十二支が示されているはず。
沙の上に〜耕田れる状」とは、要するに大地を方形に分割した様子であって、それを易では☷坤(地)の象としている。
☷坤(地)はまた西南に配される卦で、十二支では未と申を示し、このうち癸と組むのは未である。
したがってこの暗号は、正しい遷都年は癸未歳だ、と示していることになる。
遷都は新帝の即位と同じ意味を持つから、前帝すなわち聖徳太子の父親である敏達男帝の崩年はその遷都の前年になる。
癸未の前年は壬午で、崇峻男帝殺害以降では皇紀1282年=表向きの推古30年である。
以上のことから敏達男帝の崩年は、この皇紀1282年壬午=西暦622年となる。
敏達男帝崩により男帝革命軍はいよいよ聖徳太子が長となり、女帝政府と男帝軍の統一は時間の問題となったかのようだが、現実は思惑どおりには運ばなかった。
まだ聖徳太子の母親の推古女帝が頑張っていたのだ。
その推古女帝は、男帝側の仁による理性的な世の中に賛同したわけではなく、聖徳太子としても自分の母親を押しのけて統一しようとは考えなかったのだろう。
そうこうしているうちに年は過ぎ、やがて推古女帝も蘇りのための自殺をするべき年齢になったようである。
その推古女帝の崩年は次のように導き出された。
〇 推古女帝の崩年
古事記には、推古天皇は戊子年3月15日癸丑崩とある。
一方、日本書紀では、推古36年3月丁未朔癸丑(7日)崩とある。
推古36年は戊子歳だから、干支と月までは両者は一致する。
異なるのは、日付が、干支は同じだが日本書紀は7日、古事記は15日となることだ。
その差は15から7を引いて8である。
これが暗号ならば、無論8日ということではなく、8年後が推古女帝の本当の崩年だ、と示すのでないと意味がない。
しかしこれだけではいささか心もとないので、補足する暗号を探した。
するとそれは、すぐ見つかった。
日本書紀の推古36年の推古天皇崩御周辺の記事を見ると、3月丁未朔戊申(2日)に日蝕があったとあり、その五日後の癸丑に崩御したとある。
第四章3でお話ししたように、持統天皇暗殺の暗号は日蝕記事だった。
暗号が示す歴史では、推古天皇と舒明天皇は同一人物である。
とするとこの推古36年の日蝕も暗号で、本当の崩年にもさりげなく日蝕記事を入れてあるはずだ。
そこで日蝕記事を調べると、舒明8年丙申歳の春正月壬辰朔(1日)と、翌舒明9年の3月乙酉朔丙戌(2日)に、日蝕を記していた。
前者舒明8年の日蝕は、推古崩から丁度8年後、日付の差の8と一致する。
したがってこの日蝕記事が推古女帝の崩年を教える暗号なのであって、翌舒明9年の日蝕記事はダミーということだ。
持統天皇関連のところでも暗号であることを隠すかのように、ダミーの日蝕記事もあったが、ここも同様の手法だったのだ。
ちなみに日蝕記事は、ダミーも含めて持統天皇関連のところと、ここにしか出て来ない。
これは、紛れもなく暗号だからである。
以上のことから推古女帝崩年は表向きの舒明8年すなわち皇紀1296年丙申=西暦636年となる。
ただし崩と言っても推古女帝は蘇りのために自殺しただけで、息子の聖徳太子に政権を譲ることはなく、継体女帝の末娘である妹の皇極女帝が皇位を継承してしまった。
女帝側の論理で言えば、皇極女帝は安閑女帝の蘇り、聖徳太子は単に推古女帝の子で、安閑女帝の単なる曽孫なのだから、皇極女帝のほうが正統な皇位継承者なのは誰が見ても明らかである。それを曲げて皇位を譲るなんて有り得ない、と突っぱねたのだろう。
聖徳太子も話が違うということでいろいろ折衝したのだろうが、結局女帝側を納得させることはできなかったようで、ついに女帝政府と革命軍の統一王となることは叶わず、最終的に聖徳太子は、邪魔者として、皇極女帝によって殺害されてしまった。
その聖徳太子殺害事件が、大化の改新の引き金となったようである。
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