危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第四章 持統天皇と〇〇の危険な情事!
1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味 2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史 3、高市皇子による持統天皇暗殺事件! 4、草壁皇子の出生の秘密 5、暗号のための日付と正しい日付 6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
安康天皇の古事記記載の崩年齢56歳に始まった持統天皇暗殺事件とその周辺の暗号解読は、これで一応完了したことになる。
そこで、この暗号が示す歴史を、年代順に整理しておくことにする。
なお、天皇年は利便性を考え、表向きに従うことにする。
○ 皇紀1332年(西暦662年)壬戌・天智元年
持統天皇(当時天武妃)は、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。
○ 皇紀1337年(西暦677年)丁丑・天武六年
壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。
○ 皇紀1341年(西暦684年)辛巳・天武十年二月庚子朔甲子(25日)
汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。
○ 同年三月
持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。
これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。
誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。
○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌・朱鳥元年五月
持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。
用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物らしく、これにより天武天皇は病床に着く。
草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。
○ 同年九月戊戌朔丙午(9日)
天武天皇崩御。
よって毒殺計画は成功。
しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。
草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。
この事件は大津皇子にあまり力がなかったことから、翌十月に大津皇子を謀反者として処刑することで収まったが、これにより世間の目は厳しくなる。
そこで草壁皇子の即位は見合わされ、代わりに天武天皇と持統皇后の間に生まれた稗田阿礼が皇位に就く。
なお、朱鳥という年号は暗号のためのものであって、実在はしない。
○ 皇紀1349年(西暦689年)戊子歳・持統三年
持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。
天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。
○ 皇紀1350年(西暦690年)己丑歳・持統四年正月戊寅朔(1日)
持統天皇即位。
○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳・持統七年九月丁亥朔乙未(9日)
高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。
そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。
高市皇子は大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。
○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳・持統八年四月甲寅朔庚辰(27日)
高市皇子が太政大臣(皇太子格)となる。
○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳・持統十年八月辛丑朔癸卯(3日)
とある偶然から高市皇子は、天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを知り、この日に「父の仇」として持統天皇を殺害する。
しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇殺害は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。
そこで同月十日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。
この事件により、急遽、稗田阿礼が、持統天皇のいわゆる影武者として皇位に就き、何事もなかったかのように装い、翌年八月には譲位という形式で草壁皇子の息子の文武天皇(当時15歳・母は天智天皇の娘で後の元明天皇)に皇位を継承させる。
文武擁立は、持統天皇を支持していた朝廷内主流派の意志だろう。
以上が持統天皇暗殺とその周辺の隠された歴史だが、暗号はまた『古事記』編者の太安萬侶を多臣品治と持統天皇の間に生まれた人物であるとも告げていて、都合、持統天皇は天武妃という立場にありながら、父親がそれぞれ異なる三人の子を儲けたことになる。
なお、ここまでのところを整理するために、持統天皇周辺を系図にまとめたのが左図である。
そう言えば、万葉の女流歌人額田王にしても、天武天皇の寵愛を受けながら天智天皇とも関係を持っていたわけだが、これを不倫だと非難されてはいない。
とするとこの時代には、現代人が考える結婚や夫婦とは異なる男女関係が常識的に認められていたのだと言えよう。
多夫多妻あるいは「不倫が不倫でない時代」とでも呼んでおこう。
そして汚職や暗殺事件もさることながら、それよりもっと凄まじい男女関係を恥として隠そうとして作成されたのが、古事記日本書紀の表面上の物語だったのである。
解読をさらに進めると、恥として隠したいと考えた心情もわからないではない忌わしい古代日本の姿が浮上したのだ。
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