危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第九章 第十章
第八章 神武天皇は西暦490年頃の人物だった!
1、クーデターで二王朝に分裂! 2、神武男帝のクーデター 3、美濃の革命軍 4、いよいよ革命軍が倭に乗り込む!
3、美濃の革命軍
〇 反正女帝と倭建命
女帝の皇位継承順は、履中女帝の次は反正女帝なので、履中女帝が皇紀1150年庚午=西暦490年に、神武の放火から逃げられずに焼死したのを受けて即位したのは、娘の反正女帝となる。
その反正女帝だが、前ページでお話ししたように、倭建命と反正女帝は、共に☳震(雷)という卦で繋がっていて、解読の結果、古事記の倭建命の崩御に至る物語が、反正女帝崩についてを教える暗号だった。
倭建命(日本書紀では日本武尊と表記)は、伊服岐能山すなわち近江(現・滋賀県)と美濃(現・岐阜県)の国境付近の山に、荒ぶる神を殺そうと出かけた。
途中で神の使いに出会っても、そんなことには構わずさらに進んだ。
すると神が怒り、倭建命を大氷雨に遭わせ、道に迷わせた。
漸くの思いで居寤の清水=現・米原市醒ヶ井付近に逃げてきたが、身体に痛みがあり、その後どんどん病状は悪化した。
やっとの思いで三重の能煩野というところまで来たところで、ついに力尽きて絶命した。
ここまで暗号解読した上でこの物語と接すれば、美濃は神武男帝が革命軍の砦とした地なのだから、荒ぶる神とは神武革命軍のことだと、容易にわかる。
したがって反正女帝は、神武男帝に報復しようと出かけたが、近江と美濃の国境付近で革命軍と戦闘になり、痛手を負い、逃げ帰る途中で力尽きて絶命した、というように読み取れる。
その反正女帝の崩年だが、古事記には、反正天皇は丁丑年7月崩、とある。
これは第七章の4でお話しした崇神女帝の戊寅年12月崩と同様に、月までしか書いていない。
とすると崇神女帝のときのように、丁丑を7月=7番目としたときの正月=1番目の干支が、反正女帝崩年だと教えているはずである。
丁丑が7番目なら、1番目は辛未になる。
辛未は履中女帝の崩年の庚午の次である。
したがって履中女帝が神武男帝によって焼死した翌年の皇紀1151年辛未=西暦491年が反正女帝の崩年となる。
〇 神武男帝は懿徳女帝によって殺害された!
一方、神武男帝の崩年については、特に暗号らしいものはないので、日本書紀の76年崩と干支が同じ年に崩御したということになる。
皇紀元年が辛酉だということから計算すると76年は丙子となり、履中女帝崩の皇紀1150年庚午以降から探すと、丙子は皇紀1156年=西暦496年となる。
革命政府を立ち上げてたった6年で崩御とは、これも自然な死ではなく、何かありそうな気配だ。
手がかりは弟の允恭男帝とも関係がありそうだ、そのことも踏まえて、まず、美濃に関連する物語を探す。
目に止まったのは、古事記の神世の、天孫降臨の前、大国主神に国譲りを要請しているときの神話である。
その頃、下界である葦原中国は天照大御神の弟、須佐之男命の子の大国主神が治めていた。
しかし、高天原の天照大御神は、葦原中国を治めるのは弟の子ではなく、自分の子孫にしたいと考えた。
そこでまず、大国主神やその配下の神々に国を譲るように説得するため、天菩比神を遣わした。
しかし天菩比神は、大国主神に媚びて付き従ってしまい、行って3年目に至っても帰って来なかった。
痺れを切らせた天照大御神は、改めて天若日子に弓矢を下賜して下界に遣わした。
ところがこの天若日子は大国主神の娘を娶り、この国を自分のものにしようと考え、8年経っても帰らなかった。
なかなか帰らぬことに疑念を抱いた天照大御神は、鳴女という雉を遣わし、天若日子に帰らぬ理由を問うことにした。
天若日子はやって来たこの雉を見つけると、何も言わずに賜った弓矢で射殺した。
その矢はそのまま天上界の天照大御神のところにまで届いた。
天照大御神は驚き、すぐそばに居た高御産巣日神(別名、高木神)は、その矢を取り、「反逆心があるなら天若日子に命中せよ」と念じて衝き返した。
矢は天若日子の胸に命中して死んだ。
天若日子の葬儀を行った場所は美濃国の藍見河の河上の喪山=現・岐阜県美濃市だった。
物語はその後、建御雷神が新たに下界に遣わされ、神々が服従し、大国主神は国を譲ることに同意した、と続くが、それは今は関係ない。
ここの出て来る数字は、天菩比神が3年帰ってこなかったとする3年と、天若日子が8年帰って来なかったとする8年である。
が、数字とは別に、天若日子には特異なことがあるのだ。
神や命といった敬称が付いていないのだ。
神世の物語で、このように敬称が付いていないのは、この天若日子だけである。
とすると、暗号として何か意味がありそうな気配だ。
そこでこの部分の登場人物、天菩比神と天若日子という名を比較してみる。
両者の頭の天は共通し、三文字目の比と日は共に「ひ」と読むので、やや共通する。
残る二文字目と四文字目の菩神と若子は共通しない。
しかし若子の二字は、20允恭天皇の国風諡号の男浅津間若子宿祢の中にある字である。
他に若子と付く天皇はいない。
また、天若日子の葬儀を行った現・美濃市付近は、神武男帝が革命軍の砦とした場所でもある。
したがってこの天若日子は、允恭男帝が革命軍に参加した時期とその後についてを教えるために作られたものだったのだ。
天菩比神が3年帰って来なかったとするのは、神武男帝が宣戦布告をして美濃に逃げて、そこを革命軍の砦として3年目の皇紀1152年に、弟の允恭も革命軍に合流し、それから8年後に、允恭男帝は女帝軍によって殺害された、ということである。
古事記では、20允恭天皇の崩年は甲午年正月15日とあるが、これは履中女帝の崩年と同様に、正しい干支から15進めると甲午になる、ということである。
計算すると甲午の15前は庚辰で、履中女帝崩の皇紀1150年以降では、皇紀1160年=西暦500年となる。
これは丁度、允恭が神武革命軍に参加した皇紀1152年の8年後で、天若日子が8年後に死んだということと一致する。
これを踏まえて、改めて神武東征物語を読んでみと、興味深い記事があった。
兄宇迦斯・弟宇迦斯の兄弟の物語で、次のような流れである。
倭の宇陀に兄宇迦斯弟宇迦斯という兄弟が居た。
そこへ神武天皇の使者、八咫烏が来て服従を求めた。
兄宇迦斯は即座に追い帰し、迎撃するために兵を集めようとした。
しかし思うように集まらなかったので、一行に奉仕するふりをして、接待する大殿を造り、その中に押機=踏めば打たれて圧死するバネ仕掛けのネズミ捕りのようなものを仕掛けて、待ち伏せをした。
ところが、そんなことをしても勝ち目はないと判断した弟宇迦斯が、この仕掛けのことを神武天皇側に密告して取り入った。
事情を知った神武天皇の軍は、兄宇迦斯に対して、「お前が造った大殿なのだから、まずはお前が中に入り、奉仕する姿勢を明白にせよ」と、問い詰め、剣や弓矢で脅し、その大殿の中に追い込み、結局兄宇迦斯は自分が造った押機に打たれて死んだ。
物語の流れはこんなカンジだが、実はこの部分では神武天皇を直接指す言葉はなく、天つ神の御子(原文=天神御子)と表現しているのだ。
厳密に言えば、神武天皇は天孫邇邇芸命の曽孫であって、天つ神の御子=天つ神の直接の子とは言えないのにだ。
なんか変だと感じた。
物語の流れを追うと、この天つ神の御子が神武天皇を指しているのだとしなければ辻褄が合わなくなるので、普通はそう解釈しているのだ。
しかし暗号のための言い換えだったら、天菩比神や天若日子に裏切られた高天原の神々すなわち女帝政府を指して天つ神の御子と表現しているものと言える。
そしてこの時代は、反正女帝が返り討ちにされた後なのだから、懿徳女帝ということになる。
したがってこの話は、神武と允恭の兄弟を討伐に来た懿徳女帝軍に、允恭が勝ち目はないと寝返って計略を密告した結果、神武男帝は自らが造った押機を仕掛けた大殿に入らされて絶命した、と教えていたのだ。
〇 神武亡き後の革命軍
神武男帝が崩御すると、革命軍は弟の允恭男帝が引き継いだ模様。
一旦は寝返った允恭男帝だが、心から懿徳女帝に服従したわけではなかったのだろう。
だから先ほどお話しした天若日子神話が教えるように、允恭男帝は神武崩の4年後になる皇紀1160年庚辰=西暦500年に殺害されたのだ。
殺害したのは懿徳女帝の軍である。
表向きの歴史では、1神武天皇の次は綏靖天皇だが、綏靖が神武の子であることを否定する暗号はないので、この二人は表向きと同じくく父子となる。
日本書紀では、神武崩の皇紀76年丙子から綏靖即位の皇紀80年庚辰まで3年間の空白があり、皇位継承を巡って争いがあったとしている。
が、暗号によれば皇紀1156年丙子に神武が懿徳女帝軍によって殺害され、その後は弟の允恭が革命軍を引き継ぎ、皇紀1160年庚辰に、允恭も懿徳女帝軍に殺害されたとあるので、綏靖が革命軍の長となるのはそれからということになる。
その綏靖男帝だが、古事記では、2綏靖天皇は三人兄弟の末っ子としている。
長男は日子八井命、次男は神八井耳命で、三男は綏靖天皇である神沼河耳命またの名は建沼河耳命である。
易を念頭にこの三人の名前を見ると、どうしても三男が気になる。
乱数表(易の理論)
次男と共通の神の字を除いた沼河耳は、第二章追補1でお話ししたように、何れも☵坎(水)に置き換わる字だ、ということである。
沼と河は水があるところ、耳は人体の穴として☵坎(水)に配されるのだ。
ちなみに日は☲離(火)、八は☷坤(地)、井は48䷯水風井になる。
なぜ三男の名前だけ、三文字すべてが☵坎(水)になるのだろうか?
易では、長男は☳震(雷)、次男すなわち中男は☵坎(水)、三男すなわち少男は☶艮(山)とする。
三男の名は、頭の神、別名の頭の建を除くと、あとはすべて中男に配される☵坎(水)に置き換えられる字だけで構成されている。
これが暗号ならば、三男の神沼河耳命は、実は次男である中男の神八井耳命のこと、すなわち神沼河耳命と神八井耳命は同一人物だと教えていると考えるのが順当である。
要するに、綏靖男帝の性格を神八井耳命の性格として示した、ということである。
表向きの2綏靖天皇の物語にあるのは、次のようなことだ。
1神武天皇崩の後、神武天皇の先妻の子の當藝志美美命との間で皇位継承の争いがあった。
その際、神八井耳命は心優しい性格だったために武器を持っても手足が震えて當藝志美美命を殺害することができなかった。
すると弟の神沼河耳命がその武器を貸せと譲り受け、當藝志美美命を殺害した。
神八井耳命は、自分の弱さを自覚し、こんな性格だから自分は祭祀を専業にする、皇位は弟に継いでくれ、と頼んだ。
そこで神沼河耳命が皇位を継いだ。
心優しい神八井耳命は意富臣などの先祖である。
ここに出て来る意富臣は太安萬侶に続く多一族のことなので、同一人物である以上、太安萬侶は綏靖男帝の子孫だと教えていることになる。
が、とにかく允恭男帝が殺害された後は、綏靖男帝が革命軍の長となり、美濃の砦に同志と共に住んでいた、ということだろう。
ただし、心優しい性格だったため、革命軍らしいアクションを起こすことができず、何もせずに時だけが過ぎた。
その結果、女帝政府とは対立していたとしても、穏やかに時は流れたようである。
綏靖男帝崩年は古事記に記載はなく、日本書紀の綏靖33年崩を否定する暗号もないので、その綏靖33年と干支が共通する年ということになる。
計算すると綏靖33年は壬子で、允恭男帝が殺害された皇紀1160年庚辰以降だと皇紀1192年となる。
したがって綏靖男帝崩は皇紀1192年壬子=西暦532年となる。
〇 允恭、綏靖、雄略男帝の関係
綏靖男帝の次は、暗号では允恭の子である雄略男帝となるのだが、まずはその綏靖、允恭、雄略の関係から。
古事記では、22雄略天皇は20允恭天皇と意富本杼王という人物の妹との間に生まれたことになっているのだが、これを否定する暗号はない。
そこで意富本杼王だが、意富は多で太安萬侶等多一族を指し、杼は機織りの時に糸を巻き付ける道具のことである。
したがって意富本杼で、太安萬侶の家系の根本に巻き付く人物、という意になり、多一族の祖先は綏靖男帝である。
すなわち意富本杼王は綏靖男帝のことであって、雄略男帝の母親は綏靖男帝の妹だったのだ。
その綏靖男帝は神武男帝の子なのだから、妹というのは神武男帝の娘である。
したがって雄略男帝は、允恭男帝と神武男帝の娘との間に生まれた子だったのだ。
ところで、この時代の女帝側の長は懿徳女帝だが、その懿徳女帝の崩年は、次のように、綏靖男帝の崩年と同じ皇紀1192年だと導き出された。
古事記に4懿徳天皇の崩年干支月日はないが、2綏靖天皇と同じ45歳で崩とある。
一方、日本書紀を見ると、懿徳元年条に、9月丙子朔乙丑に、前帝の皇后を尊び皇太后とした、とある。
内容的にはどうでもよい記事なのだが、干支が矛盾している。
9月1日が丙子ならば、乙丑は9月50日ということになり、有り得ない日付なのだ。
そこで、乙丑という干支を記載した記事をこの付近で探す。
すると、表向きの4懿徳天皇の前帝の3安寧天皇のところに、綏靖33年に2綏靖天皇が崩御し、その年の7月癸亥朔乙丑に安寧天皇が即位とある。
とすると、暗号では、安寧女帝は懿徳女帝の次なのだから、綏靖男帝崩と同じ年に懿徳女帝は蘇りのための自殺をした、と示していることになる。
したがって懿徳女帝崩は、綏靖男帝崩と同じく、皇紀1192年壬子=西暦532年となる。
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