危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
前ページ もくじ 次ページ
第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第九章 第十章
第八章 神武天皇は西暦490年頃の人物だった!
1、クーデターで二王朝に分裂! 2、神武男帝のクーデター 3、美濃の革命軍 4、いよいよ革命軍が倭に乗り込む!
2、神武男帝のクーデター
〇 神武男帝の親は誰か
まずは神武男帝の親についてから話を始めるが、文字だけで暗号解読のプロセスをお話しすると、混乱を招く可能性を否定できない。
私自身、解読に際しては少しずつ系図に書きながら、前後関係を把握し、全面解読に至ったのだ。
そこで、前ページの最後にお見せした系図を改めて表示しておく。
必要に応じて眺めながら読んでいただきたい。
古事記では、神武天皇の親は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命としている。
この名前の上の部分、天津日高日子の六文字は、神武天皇の祖父の穗穗出見命、曽祖父の邇邇芸命にも共通しているわけだが、父、祖父、曽祖父と三代にわたって付けられているのは、何かありそうだ。
そこで、この六文字を易の卦に置き換えてみる。
乱数表(易の理論)
六文字を易の卦に置き換えるときは、第五章の4でお話しした方法を使う。
邇邇芸命の天孫降臨から神武東征出発までは179万2470有余年だった、とある数字を易の卦に置き換えたときの応用である。
今回は数字ではなく、天津日子日子の六文字だから、次のようになる。
天は☰乾(天)、津は水がある場所のことだから☵坎(水)、日は☲離(火)、高は☴巽(風)、子は十二支の子とすれば☵坎(水)だから、合わせて遇卦42䷷風雷益、之卦3䷂水雷屯となる。
3䷂水雷屯はA列4䷃山水蒙の前すなわち1神武天皇の親の位置の卦で、42䷷風雷益はB列で13成務天皇の位置である。
なるほど、成務か……、と、易経の読者ならば、すぐに思い当たることがある。
成務と神武という言葉には繋がりがあるのだ。
左図のように、成務と神武は、易経の繋辞上伝の中の同じ文節にあるからだ。
この文章の神武という言葉を含む部分の意味は、昔の聡明叡知な者は、神だと恐れられるほどの絶大な武力を持っていても、決してそれを行使することはない、ということである。
日本書紀の成務天皇のところでは、四年春二月条に、父親の景行天皇を称える文章の中で、ここから取り出したであろう聡明神武という言葉を使い、神武という言葉を強く印象付けている。
このような印象付けがあるからには、成務と神武には深い繋がりがあるのであって、暗号が示す年代から考えれば、神武男帝は成務女帝の息子だと教えていることになる。
余談だが、この文章の一行目の下の方にある成務という言葉がある開物成務の部分から開と成の二文字を取って名付けられたのが、幕末の西洋の学問を研究する機関の開成所だった。
開成所はその後、東京帝国大学となった。
幕末までの日本では易こそ最高の学問だと考えていたからこそ、西洋の学問も易に匹敵するとして開成所と命名したのだろう。
話を戻そう。
成務女帝は神武のほかに、もうひとり男の子を生んだようである。
それが允恭男帝である。
允恭男帝と成務女帝との関係は次のように明らかになった。
古事記では、20允恭天皇の子の名前を計9人挙げていて、分注として、このうち男性が5人、女性が4人だと、わざわざ丁寧に書いてい.る。
この程度の人数ならば、数えればすぐわかることなので、わざわざ記す必要性を感じない。
とするとこの男女の数が暗号なのであって、易の卦に置き換えてみる。
5は☴巽(風)、4は☳震(雷)だから、これまた成務天皇のB列䷷風雷益となる。
したがってこの允恭男帝も成務女帝と深い繋がりがあるのであって、これを合理的に考えれば、允恭男帝も成務女帝の子で、登場順が神武よりも後だから、神武の弟となる。
〇 履中天皇と景行天皇〜イザ!とオウ!の関係とは
さて、履中女帝から神武が分裂したことを教える暗号だが、ヒントは18履中天皇の国風諡号だった。
履中天皇の国風諡号は大江之伊邪本和気とある。
大江は易の卦に置き換えると、大は☰乾(天)・江は水が流れるところだから☵坎(水)となるので、大江で6䷅天水訟てんすいしょうとなり、訟は訴えるという意なので、何かを訴えていることを示す。
そこで下の伊邪本和気だが、「イザ!と呼びかけ、本文を分け与えた」という意に読み取れるではないか。
とすると、誰がその分け与えられた本文を告げたのか、ということになる。
イザ!と呼びかけたら、オゥ!と応えるものである。
また、告げる、申す、ということは、白状、建白書といった言葉があるように、白という字でも表現する。
そう考えて各天皇の国風諡号のA列B列と繋がらない部分を眺めてみると、12景行天皇に目が止まった。
大帯日子淤斯呂和気おである。
大帯日子は帶日子という名を継承した代々の女帝たちのことだったので、ここでは関係ない。
目が止まったのは、残る淤斯呂和気の部分だ。
オシロワケは万葉仮名なので、この音から意味を想像すると「オゥ!白分け」で、イザ!という呼びかけに、オゥ!と応え、その分け与えられた本文を白し告げた、という意味に読み取れるではないか。
とすると、履中女帝付近の歴史は景行天皇の物語として書いてある、ということになる。
そう考えて景行天皇のところを探ってみたところ、微妙な言葉の使い分けと、文字を易の卦に置き換えたときの意味で、その分け与えられた本文を教えていた。
〇 ヤマトタケルに隠した暗号
古事記では、景行天皇のところの物語のメインは小碓命、別名倭建命である。
日本書紀では日本武尊と表記される倭建命だが、建という字は何度も出て来たが、建御雷神という名があるので☳震(雷)となる。
また、小碓は、小は陰の極みとして☷坤(地)・碓はその形状から☱兌(沢)となるので、合わせて19䷒地沢臨となり、この卦は二本で一本と見做せば、これまた☳震(雷)となる。
易経の説卦伝では、☳震(雷)が持つ意味のひとつとして、其の稼に於けるや反生と為す、とある。
原文=震為レ雷、<中略>、其於レ稼也、為二反生一、<後略>
意味は、稼すなわち栽培植物で言えば反生となる草木、ということである。
反生とは、発芽すると陽としてのあるべき位置すなわち上に向かって真っすぐに育つ麻やイネ科の植物、とにかく陽の位置である上へ上へと蔓を伸ばすマメ科の植物などのことである。
だからこれまでの解読で、稲や麻という字は☳震(雷)となると言ってきたのだ。
そもそも☳震(雷)という卦は、本来上にあるべき陽⚊が最下にあるので、正しい位置である最上に向かって進もうと震い動くことを意味し、だから震と命名されたのだ。
その昔は地中に抑閉された陽気が本来の位置である天空に上ろうと震い動くときに雷となるのだと考えられていたので、この☳震を自然現象としては雷に配したのである。
が、それはともかく、反生という音から連想されるのは18履中天皇の次の19反正天皇の反正という漢風諡号だ。
反正という言葉の意味は、反転して正しい方向に進む、ということになるが、反生はまさにそういう意味なのである。
ともあれ、このように反正と倭建はこの☳震(雷)という卦で繋がっているのであって、したがって倭建とは反正女帝のことだったのである。
さて、日本書紀では景行十二年条に、熊襲征伐をしたとあり、反抗したのは土蜘蛛と呼ばれる人々であって、彼等の名は、青、白、打猨、八田、国摩侶だったとしている。
十二年は正しい表記の一十二として易の卦に置き換えると、一は☰乾(天)・二は☱兌(沢)だから、合わせて10䷉天沢履となり、履中女帝の履の字を示している。
また、この土蜘蛛の4人目の八田は、ヤタすなわち垂仁男帝と同じ名である。
したがってこの記事は、そのヤタの理想を実現しようとしている集団が反抗し、履中女帝が九州まで出向いて鎮圧したのだと教えていたのだ。
これとは別に、日本武尊=倭建命が九州や出雲を征伐した記事もあるが、これは履中女帝のときに、娘である後の反正女帝が履中女帝の命を受けて九州や出雲で力をつけてきたヤタの理想を実現しようとする人々をくり返し鎮圧に出かけたことを示していたのであって、この履中女帝の時代になると、各地で母系母権制社会打倒を掲げる動きが活発化、その鎮圧に苦慮していた、ということだったのだ。
ただし東国遠征については、日本書紀では微妙に表現を変えて、日本武尊のことを王と表記している。
こういった注意深く読まないと見逃してしまいそうな違いこそが重要な暗号だったのである。
この違いは、ここだけ別の時代の違う人物の行動を伝えていたのであって、それは追々明らかにしますが、中臣鎌子=藤原鎌足のことだった。
なお、崩御に至る経緯のところでは、再び王とは表記していないので、日本武尊=倭建命は反正女帝のことになる。
とにかくこのように各地で母系母権制社会打倒の動きが活発化してきたことを受け、ついに倭の中央政府でもこの動きに呼応するように、事件が起きたのだ。
それを教える暗号は、古事記の履中天皇の物語にあった。
〇 神武男帝の真実を教える墨江中王
物語の概略は次のとおり。
履中天皇が難波宮で、豊明という宴会の後に泥酔して寝ているときのこと。
弟の墨江中王が皇位を奪おうと屋敷に放火して履中天皇を焼死させようとした。
しかし側近によって履中天皇は救出され、波邇賦坂を通って山を越えて逃げ、九死に一生を得て、その後、墨江中王は殺害された。
ここに波邇賦坂という地名が出て来るが、この四文字を易の卦に置き換えると、波は☵坎(水)・邇は☰乾(天)・賦は☱兌(沢)・坂は山にあるから☶艮(山)となるので、波邇で5䷄水天需、賦坂で31䷞沢山咸となる。
需は「待つ」、咸は「感じる」という意だが、これでは何も暗号としての意味を為さない。
とすると、これは暗号ではないのだろうか?とも思った次の瞬間、ハタと気付いた。
これは、10䷉天沢履を39䷦水山蹇が包んでいる形ではないか。
䷉天沢履の履を履中女帝のこととすれば、䷦水山蹇の蹇は足が萎えていることだから山越えは無理な様子となり、履中女帝は山越えできなかった、すなわち逃げ遅れて焼死した、ということになるのだ。
一方、䷉天沢履を連想させる名が古事記の景行天皇のところにもある。
小碓命=倭建命の兄の大碓命である。
大は☰乾(天)・碓は☱兌(沢)だから、合わせて䷉天沢履なのだ。
大碓命の物語の概略は次のようなこと。
景行天皇は大碓命に、美濃にいる美人姉妹を妃にしたいから連れて来いと命じた。
そこで大碓命は、その美濃に行くのだが、その姉妹と仲良くなり、その姉妹との間に押黒兄日子王と押黒弟日子王という子ができた。
この大碓の二人の子の名に共通する押黒は、押は第七章の2でお話しした景行G女帝と仁賢女帝との関係を教える暗号の押別命のときと同様に、手偏と甲に分けて易の卦に置き換えると、手は☶艮(山)・甲は☳震(雷)だから27䷚山雷頤さんらいいとなる。
䷚山雷頤は、第二章追補2の24顕宗・25仁賢の両天皇国風諡号とA列との繋がりのところでお話ししたように、開いた口を意味する。
したがって押黒は、開いた口の中が黒い、という意味になるのだ。
墨のような水の中に居れば、口の中は黒くなる。
墨のような水の中に居ることを連想させる名と言えば、履中天皇を殺そうとした墨江中王である。
さらに、神武男帝については、第五章の4でも触れたように、古事記の高千穂を出発してから、筑紫の岡田宮に1年、阿岐の多祁理宮に7年、高島宮に8年滞在してから倭に入った、
とある数字が、天山遯、天風姤、雷火豊の三卦を示し、この三卦の意味から、逃げる、女帝、豊、というキーワードになることをお話しした。
物語では、神武天皇は九州から東の倭にやって来た、とあるわけだが、大碓命は倭の飛鳥地方から見れば、おおよそ東になる美濃へ行ったとある。
また、神武天皇を熊野から飛鳥地方へ道案内したのは八咫烏である。
八咫はヤタの理想の実現を意味するわけだが、なぜ烏なのだろうか?
烏は黒いだけで地味だし、三本足という神秘的な烏だとしてもなんとなく腑に落ちない。
そのためか、日本書紀では最後に金色の鵄(トンビ)を登場させている。
金色のトンビなら華やかで、おとぎ話としても楽しく読める。
だったら最初から八咫烏は金色の烏にしてしまえばよいのに、とも思える。
しかし暗号のためには、地味な黒い烏であることが重要だったのだ。
黒は墨の色でもある。
すなわち墨江中王の行動で、神武男帝の行動を教えていたのである。
だから黒い烏でなければダメだったのだ。
ところで、日本書紀の18履中天皇のところには数字の矛盾がある。
18履中天皇は、17仁徳天皇の31年=皇紀1003年に15歳で皇太子になったとあるのに、崩御時の履中6年=皇紀1065年には70歳だったとしているのだ。
計算すると、仁徳31年=皇紀1003年に15歳なら、その32年後になる崩御時の履中6年=皇紀1065年には77歳のはずだ。
15+(1065-1003)=77である。
これまでに出て来た数字の矛盾は正しい年代を教える暗号だったが、この履中天皇の矛盾した数字は本文ではなく、分注として記載されたものなので、これまでの本文での数字の矛盾とは暗号が伝えようとしていることがちょっと違うはずだ。
考えられるのは、計算上の正しい数字で、年代とは別の何かを示している、ということである。
そこで、計算上の崩年齢となる77を易の卦に置き換えてみる。
すると、7は☶艮(山)だから、その☶艮(山)を二つ重ねた52䷳艮為山になる。
艮為山は☶艮の山が連なっている形だが、☶艮(山)はまた、城や宮をも意味する。
とすると、宮が連なる=政府が二つになった=二王朝並立、ということを示していることになるのだ。
以上の暗号を合わせて考えると、
成務女帝の息子の神武は、九州や出雲でのヤタの理想実現のための母系母権制社会脱却の動きが活発になってきたことを受けて、
ついに宣戦布告として、とある豊明の宴会の後に、叔母の履中女帝が寝ている屋敷に放火し、倭を捨てて東へ逃げた。
履中女帝は逃げ遅れて焼死した。
神武が逃げた先は美濃=現・岐阜県美濃市付近で、そこを革命軍の砦とした。
これにより二王朝並立の時代となった。
ということである。
なお、先ほどもちょっと触れた神武という言葉が出て来る易経繋辞上伝の一節は、古の聰明叡知、神武にして殺さざる者か、とあるので、神武が屋敷に放火したのは履中女帝殺害が目的ではなく、あくまでも宣戦布告だけのつもりだったのだろう。
しかし予想外に火の回りが早かったか、あるいは泥酔で気づくのが遅かったからか、履中女帝は逃げ遅れて焼死した、ということである。
これがいつのことだったかは、履中天皇の古事記の崩年干支が教えていた。
古事記では、履中天皇は壬申年正月三日崩とあるが、こんな大事件の正しい年をそのまま書くわけがない。
崇神女帝の崩年と同様に、ここから計算して求めるようになっているはず。
第七章の4でお話ししたように、崇神女帝のときは、戊寅年十二月崩とあったので、正しい干支から12進めたのが戊寅で、干支を12戻した丁卯が正しい崩年だったわけだが、今回は正月三日なので、干支を3つ戻したのが正しい崩年ということになる。
干支は庚午、辛未、壬申、の順に進む。
したがって庚午年が履中女帝の崩年すなわち焼死した年なのであって、第七章の5でお話ししたように、成務女帝の崩年の皇紀1135年乙卯=西暦475年以降から探すと、皇紀1150年庚午=西暦490年となる。
履中女帝の次は娘の反正女帝なのだが、これについては神武崩年と神武から革命軍を引き継いだ人物についてと共に、次のページでお話しする。
前ページ ページTOP 次ページ
|