危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第十章
第九章 古代女帝政権の終焉
1、武力衝突を繰り返す二王朝 2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害 3、聖徳太子の本当の姿 4、大化の改新の真相 5、女帝政権の崩壊 6、壬申の乱=最後の悪あがき
2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害
ここからは、暗号解読法をお話しする。
まずは継体女帝殺害と崇峻男帝殺害について。
〇 継体用明崇峻殺害事件
女帝政府と革命軍との戦いは、倭の中央政府だけではなく、おそらく革命軍に呼応して日本各地で起きていたであろうことは容易に推測できる。
としても暗号は、中央政府と革命軍との関係を伝えるのが精一杯のようで、地方のことは判然としない。
崇峻男帝が革命軍を引き継いでからは、いろいろ小競り合いもあっただろうが、次に暗号が教えるのは、継体女帝とその娘の用明皇女が崇峻男帝によって殺害され、その報復として、継体女帝の長女の欽明女帝が崇峻男帝を殺害した事件である。
これを教える暗号はかなり複雑に入り組んでいるのだが、整理してまとめると、次のようなことだった。
古事記には、27継体天皇は丁未年4月9日崩とある。
一方、用明皇女の表向きの存在である用明天皇は、古事記には丁未年4月15日崩とあるのだが、日本書紀には用明2年(丁未)の夏4月乙巳朔癸丑(9日)とある。
なんと、古事記の継体崩年の干支月日と日本書紀の用明崩年の干支月日は同じなのだ。
すなわち継体と用明は同じ干支の年の同じ日に死んだことになるのである。
乱数表(易の理論)
しかし4月9日ということから4と9で易の卦に置き換えると、4は☳震(雷)・9は☰乾(天)だから、34䷡雷天大壮となるのだ。
この卦は勢いが壮さかんなことを意味するので、とても死亡日に相応しいとは言えない。
無論、事実ならば相応しいか否かは関係ないわけだが、これは事実を書いたものではなく、暗号である。
とするとこの日付は、この二人すなわち継体女帝と用明皇女が丁未年にはまだ元気で、それ以降の何れかの同じ日に死んだと示していることになる。
〇 日本書紀の意味深長な記事
そこで日本書紀の継体天皇のところを開くと、継体25年春2月丁未に崩とあり、その理由として、要約すると次のようなことが記されている。
百済本記によれば、辛亥年に、日本の天皇および太子皇子が倶に崩薨=崩御薨去した、とあり、この辛亥は継体25年に当たる。
ただしこの記事の中にある天皇および太子皇子が倶に崩薨したとすることは、日本書紀に対応する事件がなく、誰を指すのか研究者を悩ませていると共に、そもそも百済本記という書物が実際に存在したのか否かも不明なのだ。
また、春2月丁未という書き方も不審である。
朔干支を示さないで丁未とあるだけでは、何日なのか判然としない。
前年の継体24年に春2月丁未朔とあることから計算すれば、この丁未はたぶん7日だろうことは推測できるが、これでは暦の専門家ではない読者を置いてけ堀にする書き方である。
ということは、置いてけ堀にすることで、丁未という干支を強調していることになる。
その丁未は、年では継体21年に当たり、21を易の卦に置き換えると、2は☱兌(沢)・1は☰乾(天)だから、43䷪沢天夬になり、この卦は暴動や騒乱などの意味を持つ。
したがってこの百済本記からの引用としている部分こそが暗号なのであって、天皇は継体女帝のこと、皇子は用明皇女のことで、辛亥年に暴動騒乱があって、継体女帝と用明皇女は巻き込まれて死んだのだ、と示していることになる。
そしてもうひとり、太子も死んだとあるわけだが、この付近の暗号が示す系図を見ると、この太子に相当するのは崇峻男帝しかいない。
前帝安閑女帝崩の皇紀1219年以降から辛亥年を探すと、皇紀1251年=西暦591年になる。
なお、古事記の用明天皇の丁未年四月十五日崩の日付は、十五日は第七章などでお話しした古事記の仁徳天皇の丁卯年八月十五日崩と同様に、正式表記の一十五として易の卦に置き換えると、一は☰乾(天)・五は☴巽(風)だから44䷫天風姤になる。
この卦は女帝を意味するが、同時に1䷀乾為天の最下の記号が陽⚊から陰⚋に変わった形でもある。
四月十五日の四月は、十二消長卦では、その䷀乾為天が配される。
このような関係の卦を以って日付を示すからには、䷀乾為天の最下の位置の意義で、何かを教えているはずである。
易経の䷀乾為天の最下の記号の位置を説明する文章には、「潜竜なり、用うる勿れ」(原文=濳竜、勿レ用)とある。
竜は漢音では「りょう」、呉音では「りゅう」と読み、王様のことを指し、最下はまだ即位していない王様を意味する。
まだ即位していないから、今は用いてはいけない、ということである。
したがって用明は即位する前に崩御した、すなわちまだ皇女だった時に薨去した、と示しているのだ。
〇 崇峻男帝殺害を教える暗号
もうひとりの殺害された太子が崇峻男帝のことだとする暗号だが、日本書紀の表面上では、崇峻天皇は蘇我馬子によって殺害されたとあり、蘇我馬子は蘇我稲目の子だとある。
第六章でお話ししたように、蘇我氏の始まり蘇我稲目は「我、妊娠で蘇る」という意味で、女帝を示す暗号だったのだから、その子の馬子も女帝を示す暗号のはずである。
したがって崇峻男帝は女帝政府軍によって殺害されたのだった。
古事記では、崇峻天皇は4年在位し、壬子年11月13日崩とある。
一方、日本書紀では、崇峻5年(皇紀1252年壬子)11月癸卯朔乙巳(3日)崩とある。
ここに出て来た崩年の干支の壬子を易の卦に置き換えると、壬も子も共に☵坎(水)だから、合わせて29䷜坎為水になる。
この卦は険難を意味する最も悪い形のひとつ、まさに天皇殺害に相応しい年に殺されたことになる。
果たしてそんな偶然があるのだろうか……。
また、壬子年11月ということで、古事記と日本書紀の記述は一致しているが、在位4年目と5年目で異なると共に、古事記では13日、日本書紀の癸卯朔乙巳は3日に当たるので、両者で日付も異なっている。
とすると、日本書紀と一致しない古事記の在位4年と崩日の13日に何か意味がありそうではないか。
日本書紀のように、11月朔(1日)を癸卯とすれば、13日は乙卯になる。
乙卯を易の卦に置き換えると、乙も卯も共に☳震(雷)だから、合わせて51䷲震為雷となり、この卦は雷すなわち音だけの見せかけで実体のないことを意味する。
とすると壬子年に崩というのは実体のないこと、殺されたのは違う年だと示していることになる。
したがって古事記に在位4年で崩とあることの意義を考えれば、日本書紀の崇峻4年、崩の前年が正しい崩年のはずだ。
その崇峻4年には次の三つの記事がある。
4月壬子朔甲子、敏達天皇をその皇后と同じ陵に葬った。
8月庚戌朔(1日)、すでに滅んだ任那を再建したいと群臣に伝え、群臣も同意した。
11月己卯朔壬午、任那再建のための大将軍を任命し、九州に出発させると共に、新羅や任那に使いを出して様子を探らせた。
この三つの記事の内容は気にせず、干支だけを易の卦に置き換える。
4月壬子朔甲子は、壬子は先ほどのとおり29䷜坎為水で険難の意、甲子は甲は☳震(雷)・子は☵坎(水)だから40䷧雷水解で解消の意になるので、壬子と甲子を合わせて険難解消という意になり、まだこのときは、崇峻男帝は殺害されていない、と示していることになる。
8月庚戌は、庚は☱兌(沢)・戌は☰乾(天)だから43䷪沢天夬となり、この卦は先ほども出て来たが、決去決壊ということから、騒乱などの意味になるので、殺害事件に相応しい卦である。
11月己卯朔壬午は、己は☷坤(地)・卯は☳震(雷)だから己卯で24䷗地雷復=復活の意となり、壬は☵坎(水)・午は☲離り(火)だから壬午で63䷾水火既済で、既済は既に整って感性しているという意である。
とするとこの日付は、平和が復活して秩序が整い完成された、すなわち、殺害事件は既に終わって平和な秩序が復活した、と教えていることになる。
したがって崇峻男帝が殺害されたのは、日本書紀の崇峻4年8月ということになり、この年は皇紀1251年辛亥になる。
殺害した蘇我馬子の馬子という名は、易に置き換えると、馬は十二支の午のこととすれば、☲離(火)・子も十二支の子のこととすれば☵坎(水)だから、馬子で64䷿火水未済になるのだが、この卦は明の字が示す卦でもある。
明は日と月で、日は☲離(火)・月は☵坎(水)である。
明の字が付く最初の人物と言えば、継体女帝の長女の欽明女帝である。
以上のことから、この皇紀1251年辛亥=西暦591年に、まず崇峻男帝によって継体女帝と用明皇女が殺害され、その報復として同年8月に、継体女帝から皇位を引き継いだ欽明女帝が崇峻男帝を殺害した、ということになる。
崇峻男帝が殺害された男帝革命軍は、崇峻の息子の敏達男帝が長となったのだが、この先の歴史については、まず、聖徳太子が本当はどういう人物なのかを探る必要があるので、そのことからお話しする。
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