危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
前ページ もくじ 次ページ
第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章 第九章 第十章
第四章 持統天皇と〇〇の危険な情事!
1、仲哀天皇の崩年齢52歳の意味 2、持統天皇とその周辺の表向きの歴史 3、高市皇子による持統天皇暗殺事件! 4、草壁皇子の出生の秘密 5、暗号のための日付と正しい日付 6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 7、持統天皇周辺の暗号が教える歴史
6、天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼
〇 天武天皇を毒殺したのは持統天皇だった!
乱数表(易の理論)
古事記序文の裏メッセージでは、持統天皇は汚職を好み、天武天皇は清廉潔白だったがために毒殺されたとある。
安康天皇の物語は、持統天皇が高市皇子に父の仇として暗殺されたことを教えるものだった。
とすると高市皇子の父親は天武天皇だから、天武天皇の毒殺は持統天皇によって行われたことになる。
夫を妻が毒殺するとはいやはや物騒な話だが、これを補足する暗号もちゃんとあった。
天武天皇の巻の六年十一月条の「筑紫太宰、赤烏を献れり」、
九年七月条の「赤雀、南門に有り」、
十年七月条の「赤雀見ゆ」と、
天武十五年を改めて朱鳥元年とした、
という記述である。
赤烏、赤雀、朱鳥は、何れも要するに「赤い鳥」なのだから、その「赤い鳥」で易の卦に置き換える。
すると持統天皇のA列であると共に、力の強い女性すなわち女帝を意味する44䷫天風姤となる。
赤は純陽の色だから陽の極みの☰乾(天)、鳥は風に乗って空を行くところから☴巽(風)とする。
すなわちこの「赤い鳥」の瑞祥記事は、持統天皇を中心とした勢力が、天武六年頃から台頭して来たことを示し、天武十五年を朱鳥元年としたのは、そうすることで44天風姤の最下の位置を指し示したかったのだろう。
元年は始まりだから、この卦の最下の位置の意義を持ち、この44天風姤の最下は陰⚋すなわち女性の勢いの凄まじさを暗示するのである。
したがって持統天皇の勢いは、最早誰にも止められなくなった、と告げているのである。
無論このように読めるからには朱鳥という年号も実在ではなく、古事記日本書紀編纂者による創作となる。
なお天武天皇は朱鳥元年五月二十四日に発病したとあることから、毒殺に用いられたのは、いわゆる遅効性の毒物であって、だからこそ病死を装うことが可能だったのだろう。
としても、天武天皇の死後は大津皇子の謀反により草壁皇子を即位させることは出来ず、また自らの即位も遅く、持統四年正月となった。
とすると、この間に表向きの歴史には出て来ない、もう一人の天皇が在位していたものとも考えられる。
次のような暗号があるからだ。
持統三年十二月己酉朔丙辰、禁二断双六一。(原文)
持統三年十二月己酉朔丙辰つちのととりのつきたちひのえたつ(8日)に、双六すごろくを禁いさめ断やむ。(書き下し)
という持統天皇即位直前の記事であって、この記事の次は持統四年春正月の即位記事になっている。
双六はサイコロを二つ振って出た目の数だけ進む遊びのことだが、サイコロの最大の目は六が二つ並んだ時だから、このように双六と書くのである。
その六が二つ並ぶことを易の卦に置き換えれば、六を示す☵坎(水)を二つ並べた29坎為水となる。
この卦には「険難の事態」という象意があり、この時代の険難と言えば暗殺に外ならないので、「双六を禁め断む」で「誰かが暗殺されそうになったが、どうにか事態を回避した」と示していることになるのだ。
一方、日付の数字の三年十二月八日(己酉朔丙辰)は、十二を正式表記の一十二とれば、三・一・二・八となるので、易の卦に置き換えると、三は☲離(火)・一は☰乾(天)・二は☱兌(沢)・八は☷坤(地)だから、14䷍火天大有・45䷬沢地萃となる。
14火天大有は君位の五番目の一陰の女性が他の五陽の男性を従え所有している形、また☰乾(天)の男性の上に☲離(火)の女性が君臨している形でもあるので、女帝を意味するものとも解釈できる。
とするとこの二卦は、「易に置き換えると45䷬沢地萃となる女帝」という暗号と受け取れる。
しかしこの条文の周辺には45沢地萃を示すものはない。
ん〜、困った。
これは暗号ではなかったのか?
しばし解読は暗礁に乗り上げた。
〇 稗田阿礼は天皇だった!
こういう時はとにかく初心に帰ることだ。
再度、古事記序文を読み返してみた。
するとそこにちゃんと、45䷬沢地萃を示す数字があった。
「時有二舎人一、姓稗田、名阿礼、年是廿八…以下略」(原文)とある稗田阿礼である。
このように、稗田阿礼が天武天皇から古代史誦習を命じられた時の年齢が二十八歳なのだ。
しかも稗田という名を易の卦に置き換えると、次のように天武天皇と持統天皇に縁が深い吉野という地名を置き換えた時の形でもある16䷏雷地予となるのである。
吉野は天武天皇が壬申の乱の前に出家修養と称して籠もった場所であると共に、持統天皇が持統三年正月以降頻繁に行幸した地である。
稗田の稗はイネ科の植物で、イネ科の植物は八卦では☳震(雷)に配され、田は食料を生産する大地だから☷坤(地)に配されている。
したがって稗田で16䷏雷地予となる。
一方の吉野の吉は、士と口に分ければ、士は上に対する飽くなき順従を要求される下級役人を指す文字だから☷坤(地)、口は☱兌(沢)となるので、合わせて☷坤(地)・☱兌(沢)という組み合わせになるが、この形は二本で一本と見なせば☳震(雷)である。
残る吉野の野は大地で☷坤(地)となる。
したがって左図のように、こちらも最終的に16䷏雷地予となる。
この繋がりは何を意味するのだろうか。
稗田阿礼の阿礼という響きには、「生」という意味合いを連想させもする。
これまでの暗号解読を踏まえれば、稗田阿礼の出生については吉野が示している、という暗号と考えるのが順当である。
稗田阿礼は、天武天皇と持統天皇との繋がりを持って生まれた人物、すなわち天武天皇と持統天皇との間に生まれた皇女だった。
もちろん稗田阿礼は本名ではなく、暗号として作られた名前であり、舎人というのも事実ではなく、表向きそういう設定にした、ということである。
さて、これまでの暗号解読で得られた事柄を合わせて考えてみると、次のような歴史が浮かぶ。
大津皇子の謀反で予定どおり草壁皇子を天皇とすることができず、なんとか事態を収集するためにと、天武天皇と持統天皇双方の血を引く唯一の人物、稗田阿礼を皇位に就けた。
しかし真実の歴史を伝えようとする天武側の人物が皇位に居ることを歓迎しない朝廷内大多数の持統派の人々は、稗田阿礼暗殺を画策した。
それを事前に察知した稗田阿礼は、止む無く持統三年の暮れで皇位を退き、翌持統四年正月に持統天皇が即位した。
また45䷬沢地萃は、A列では持統天皇の44天風姤の次に位置する。
易六十四卦の序次は、43䷪沢天夬、44䷫天風姤、45䷬沢地萃、46䷭地風升、47䷮沢水困‥‥と続く。
とすると、持統天皇が暗殺された後、文武天皇に譲位するまでの約一年間、いわゆる影武者として、この稗田阿礼が皇位に就いていたのだ、とも示していることになる。
なお表向きの皇統譜から稗田阿礼を除外したのは、国之常立神から持統天皇に至る円周を成立させるためというのが最大の理由だろうが、それにも増して当時の皇室内のゴタゴタをあからさまに書くわけにはいかなかったのだろう。
〇 持統天皇の墓所
どうやら持統天皇関連の暗号は大分その脈絡がはっきりして来た。
しかしこれで全てが解決したわけではない。
持統天皇暗殺事件が極秘裏に処理されたのならその遺体はどこに埋葬されたのか、という疑問が残る。
表向きでは、持統天皇は天武天皇の墓所に合葬されたことになっているが、毒殺した相手と合葬するとはまず考えられないので、これも日本書紀編纂後に作られたフィクションのはず。
おそらく天武天皇と合葬されたのは、別の誰かで、持統天皇は密かにどこかに埋葬されたと考えた方が自然である。
それはどこだろう…?
暗号でここまで言っているのだから、当然解読者の期待に応えるべく、持統天皇の埋葬についての暗号があるはずである。
これは探るしかない。
日本書紀の持統天皇付近の記事には、それらしき暗号は見当たらない。
そこで気づいた。
古事記序文の元明天皇に関する記述は持統天皇について教える暗号だった。
とすると古事記序文の中にある元明天皇が太安萬侶に古事記編纂を命じた日付の和銅四年九月十八日が怪しい。
この日付から数字だけを取り出し、四・九・一・八として易の卦に置き換える。
十八は、先ほどの十二と同様に、正式表記の一十八とする。
四は☳震(雷)・九と一は☰乾(天)・八は☷坤(地)である。
したがって、四と九の34䷡雷天大壮と、一と八の12䷋天地否の組み合わせとなり、「壮んなもの(大壮)が塞がる(否)」で、「死」のイメージを読み取れる。
と同時に和銅四年は皇紀1371年だから、下三桁は7孝霊天皇元年の371年と一致する。
孝霊の霊の字は死者を意味する文字でもある。
何やら孝霊天皇に秘密かあると告げている気配だ
調べて行くと、次のようにして持統天皇の埋葬場所が浮上した。
古事記の孝霊天皇のところを開くと、孝霊天皇の二人目の妃として春日之千千速真若比売という名前がある。
この名前の冒頭の春日は、春日大社のある現在の奈良市付近を指すものと考えて問題ないだろう。
続く千千速真若は、このままでは意味不明なので易の卦に置き換えてみる。
千は十、百、万と同様に小なるものの集合を意味するので☷坤(地)で老陰だから千千で計二本の陰。
速と真は陰陽を考えれば共に陽だから計二本の陽。
速が陽で遅が陰、真が陽で偽が陰である。
若は艸(草冠)と右に分ければ、以前にも出て来たが艸は☴巽(風)で少陰だから一本の陰、右も陰陽を考えれば陰(左が陽)だからこれも一本の陰となる。
したがって左図のように、千千速真若で62䷽雷山小過となる。
「春日・62䷽雷山小過」を解釈すれば、小過は「小さく過ぎる」だから、「春日から少し行った場所」あるいは「春日に程近い場所」となる。
そしてこの解釈を踏まえてさらに古事記の孝霊天皇のところを見て行くと、もう少し地域を限定する暗号と受け取れる名前があった。
孝霊天皇の3人目の妃、意富夜麻登玖邇阿礼比売である。
この名前に使用されている文字の順序を入れ替えれば、意玖夜麻富登邇比売阿礼で「奥山ホト邇姫在れ」と読めるではないか。
奥山は現・奈良市東部の山岳地帯の名称、ホトは窪地や谷を指す古語、邇には「近い」という意味があるから、「奥山と呼ばれる山岳地帯の中にある窪地(あるいは谷)に程近い場所に、姫すなわち持統天皇は埋葬された」と告げていることになる。
文字の順序を入れ替えるなんて乱暴だ、と思われるかもしれないが、古典的な暗号の定石であり、日本書紀の神武天皇元年条にも、仲間うちで倒語を使って相手にバレないようにした、といったことが書いてある。
言葉の順を逆にすることは、近年でも一部の業界で使われている。
例えば音楽関係者がよく使うシータク、スーベ、ターギー、ザギン、シクヨロといった簡単なものは、芸能界と無関係でも知っている人は多いだろう。
孝霊天皇のところには、この他にも夜麻登登母母曾毘売、蝿伊呂杼といった名前があり、これらをもって埋葬場所の風景や道順を教えているような雰囲気もありそうなのだが、如何せん千年以上も前のことである。
現代の地図をもって解読しようとしても当時とは大分様子が異なるらしく上手く行かない。
そこで、中途半端ではあるが、これ以上のことは今後の課題として、先に進むことにする。
なおこの奥山地区の此瀬というところから昭和54年に奈良時代の墓が発見され、柩の中には火葬された遺骨と太安萬侶と書かれた墓誌が裏返しという不自然な形で置かれていた、ということがあった。
調べた結果、遺骨は奈良時代の女性の平均身長程度の人物だったとのことだが、劣化していて性別はわからない、とのことだったように記憶している。
その後、研究機関は、太安萬侶本人ものものだという見解を発表して落ち着いた。
あるいはこの墓と持統天皇の埋葬場所は、何か関係があるのかも知れない…。
〇 太安萬侶とは何者なのか?
さて、太安萬侶という名前が出て来たので、この人物にも触れておこう。
古事記序文の最後には、正五位上勲五等太朝臣安萬侶という署名がある。
暗号解読を進めていると、これを素直に信じるわけにはいかない。
調べてみると、やはりこれも暗号で、この人物は多臣品治と持統天皇の間に生まれた子だったようである。
こんなことを言うと、天皇の地位に上り詰めた女性が、そんなにいろんな男性と関係を持つなんて有り得ない、安易なコジツケだ、と思って当然だろう。
私も自分で解読していて、もしかしてこの暗号は何かデタラメな遊びを仕掛けただけなのかな?とも思ったものだ。
しかしそんな思いは、最後まで解読してみて、吹き飛んだ。
現代とは全く異なる男女関係が存在した時代だったのである。
ともあれ解読を進めよう。
正五位上勲五等太朝臣安萬侶の上の方の正五位上と勲五等は、共に五という数字を強調するものとして五五だけを取り出す。
下の太朝臣安萬侶のうちの臣安萬侶の四文字は、すでに序文冒頭に「臣安萬侶言す……」とあったり、文中でも「臣安萬侶に詔して(原文=詔二臣安萬侶一」いう形で登場していることから、これを除外する。
臣安萬侶の四文字には暗号としての意味がないから冒頭でも文中でもそう書いているものと考えられるからである。
すると、五五太朝だけが残るので、これを易の卦に置き換える。
五は☴巽(風)、朝は十日十月に分解すれば、十は☷坤(地)、日は☲離(火)、月は☵坎(水)となり、残る太の字は「太くせよ」すなわち「それぞれを一本ずつにせよ」との指示と受け取れるので、合わせて左図のように24䷗4地雷復となる。
この卦は持統天皇のA列44䷫天風姤の裏卦である。
表裏の関係は同一人物の表と裏、あるいは親子関係と考えるのが自然であり、この場合、同一人物の表と裏は有り得ないから親子となる。
そして多ではなく太という文字を用いたのは、実にこの暗号を成立させるためだったのだ。
暗号で真実を後世に伝えようとした責任者として、自らの名前や地位や身分も、暗号化のために変更した、ということなのだろう。
これで、持統天皇付近の暗号はすべて解読したことになるので、最後に暗号が示す歴史を時系列を整理してまとめておく。
前ページ ページTOP 次ページ
|