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前の卦=61風沢中孚 次の卦=63水火既済

62雷山小過 らいざんしょうか

「旧約聖書」モーセの出エジプト神話を構成する4卦(豊・旅・節・小過)のひとつ。詳細はコチラ。

小過 艮下(ごんか)震上(しんじょう)

八卦の(ごん)の上に、(しん)を重ねた形。

小過(しょうか)は、小なる者が過ぎている、少し過ぎている、といった意。
この卦は、陽を主(=あるじ)とし、陰を客とすれば、二陽が内側に在って主となり、四陰が外側に在って客となっている。
これは、その主よりも客が、数の上で過ぎている様子である。
客より主が過ぎているのが沢風大過である。
したがってその大過と対比して、この主より客が過ぎている卦は、小過と名付けられた。
また、艮を山とし、震を雷とすれば、山は止まって動かず、雷は動いて止まらず、である。
これは雷が山上を震い過ぎる様子である。
だから小過と名付けられた。
また、艮を止まるとし、震を動くとすれば、あることでは止まり、あることでは動き去る、という様子である。
彼是互いに行き違うのであれば、その過ぎることは大きいが、あることでは止まり、あることでは動き去るということだから、完全に行き違っているわけではない。
だから小過と名付けられた。
また、震を長男とし、艮を少男とすれば、二人の年齢差が、やや過ぎている様子である。
兄弟の序次は長男、中男、少男だから、長男と中男、中男と少男であれば、年齢差は最も小さく、親子であれば最も大きい。
この長男と少男の場合は、やや開きがあるものである。
だから小過と名付けられた。
なお沢風大過の場合は、兌の少女と巽の長女だから、こちらも年齢差があるわけだが、それ以上に、兌の少女が上卦、巽の長女が下卦と、その姉妹の序列を犯して少女が上位にいる。
年齢差だけならば小過と言えるが、こちらは年齢差だけではなく、このように序列も犯しているのであって、だから大過なのである。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

小過(しょう かは )(とおる)(よろし )(ただしきに)(かなり )小事(しょう じには)()()(かなり ) 大事( だい じには)飛鳥( とぶ とり ) (のこす )之音(これが おとを)()(よろしから ) (のぼるに)(よろし )(くだるに)大吉( だい きちなり)

【書き下し】小過は、亨る、貞しきに利ろし、小事には可なり、大事には不可なり、飛ぶ鳥、之が音を遺す、上るに宜しからず、下るに宜し、大吉なり、

およそ、過ぎるということと及ばぬということとは、共に道の規則に適中していないことである。
しかし、少し過ぎることで、却って宜しきに合うことも、ときにはある。
特に、程よいところが判然としないときは、少し過ぎる程度がよい。
例えば、目上と対するときは多少恭しさに過ぎたほうが好感を持たれ、葬儀のときは周囲よりもやや哀しみに過ぎたほうが人情厚いように思われ、日常の経済もやや倹約に過ぎたほうが無難である。
これが、小過は亨る、という所以である。
ただし、少し過ぎて道に適うというのは、必ずそれが貞正なときである。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも日常の些細なことならば、少しくらい度を過ぎたとしても、大目に見て許されるし、そのほうがよい場合もある。
だから、小事には可なり、という。
しかし天下国家の公儀大事に至っては、必ず礼と和とを以って行わなければいけない。
度を過ごしたことがあれば、大問題に発展する。
というと、何やら堅苦しくしろ、と言っているかのようにも思われるかもしれないが、もっと単純に考えてよい。
現代の政治家も、ほんの些細な失言で政治生命を絶たれることがある、ということである。
だから、大事には不可なり、という。
この卦は、震は動き、艮は止まり、雷は震い去り、山は静かにして動かず、である。
したがって、上卦と下卦はまったく違う性質なのであって、その志も不和なのである。
このような状態で大事を行えば、必ず大失敗を招く。
これは火沢睽が小事には吉とし、大事にはよくないとするのと同じことである。
また二爻と五爻が、共に柔中の徳が有るから、小事には可なり、と言えるのでもあり、三爻と四爻の両陽剛は、共に君臣の位を失い、なお且つ不中なので、大事には不可なり、と言えるのでもある。
陰は柔であり小であり、陽は剛であり大である。

飛ぶ鳥というのは、この卦の全体の形である。
陽の三爻と四爻を胴体とし、陰の初爻と二爻、五爻と上爻を翼とすれば、鳥が翼を広げて飛んでいるように見えるからである。
飛ぶ鳥、之が音を遺こす、というのは、鳥が飛んで過ぎ去って行くときに、その音を遺して行く、ということで、鳥が上空を飛ぶことに憧れ、自分も上に向かおうとするのは宜しくない、と示しているのである。
人の道について言えば、上るは高く傲慢になることである。
傲慢な人は受け入れられない。
逆に、鳥が空を行くのにつらされず、下に向かうのであれば、その人は謙遜だと歓迎される。
だから、下るに宜し、上るに宜しからず、という。
人は謙遜であればこそ、今以上に自分を高められるものである。
だから、大吉、という。
ただし、あくまでも、下れば大吉、ということである。
上れば凶である。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)小過(しょう かは )(しょうなる ) (ものの ) (すぎて)(しこうして ) 亨也(とおるなり  )

【書き下し】彖に曰く、小過は、小なる者の過ぎて、而して亨るなり、

小過は小なる者すなわち上下の四陰が中程の二陽に、数の上で過ぎているのであって、及ばぬよりは少しなら過ぎたほうが、何事も亨通するものである。

(すごして ) (もって ) (よろしとは ) (ただしきに)(ともに )(ときと ) 行也(おこなえよとなり)

【書き下し】過ごして以って貞しきに利ろしとは、時と与に行えよとなり、

過ぎても貞正であれば宜しいとは、小過の時と共に小過の道を行うことである。

(じゅう) ( えて )(ちゅうを)是以(これを もって ) 小事(しょう じには ) (きちなり)也、( ごう ) (うしなって ) (くらいを)(しこうして) ()(ちゅうなら)是以(これを もって) ()()(かなるとなり ) 大事( だい じには)也、

【書き下し】柔中を得て、是を以って小事には吉なり、剛位を失って、而して中ならず、是を以って大事には不可なるとなり、

四陰柔のうちの二と五が中を得ているのだから陰柔に相応しい小事には吉なのである。
対する陽剛は三と四のみであって、共に君臣の定位を失っているのみならず中を得てもいないので、陽剛に相応しい大事には不可なのである。

(あるをもって )飛鳥( とぶ とりの)(しょう) 焉、飛鳥( とぶ とり ) (のこすという )之音(これが おとを)

【書き下し】飛ぶ鳥の象有るをもって、飛ぶ鳥、之が音を遺すという、

この卦は三と四の陽剛を鳥の身体とし、上下二本ずつの陰柔を翼とすれば、鳥が飛ぶ姿になる。
また初とニ、三と四、五と上を二本ずつまとめて一本とすれば大きな坎になるが、坎は人体では耳に配され、耳は音を聞き分ける器官なので、坎には音という義がある。
したがって、鳥が音=羽音や鳴き声を残して飛んで行く様子となる。

()(よろしから ) (のぼるに)(よろし )(くだるに)( だい ) (きちなりとは)(のぼるは ) (ぎゃくにして)(くだるは ) 順也(じゅんなればなり)

【書き下し】上るに宜しからず、下るに宜し、大吉なりとは、上るは逆にして、下るは順なればなり、

上るのが宜しくないのは、天に向かって逆らって進むことだからである。
これに対して下るのは宜しくて大吉だというのは、下るのが道に順うことだからである。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)山上(やまの うえに ) (あるは )(かみなり)小過(しょう かなり)君子( くん し ) (もって ) (おこないは ) (すごし )(うやうやしきに)(そうは ) (すごし )(かなしきに)(ようは ) (すごすべし )(けんに)

【書き下し】象に曰く、山の上に雷有るは、小過なり、君子以って行いは恭しきに過ごし、喪は哀しきに過ごし、用は倹に過ごすべし、

この小過という卦は山の上に雷がある形だが、雷は震い進んで止まないもの、山は静かに止まって動かないものだが、これでは上下の志が異なるに過ぎている。
君子であれば、このような時は過ぎることを念頭に、行動は恭しさが過ぎるくらいにし、葬儀は哀しみに過ぎるくらいにし、日用の経済は倹約に過ぎるくらいにするべきである。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)飛鳥( とぶ とりなれば)(もって ) (きょうなり)

【書き下し】初六は、飛鳥なれば、以って凶なり、

象曰(しょうに いわく)飛鳥( とぶ とりなれば)(もって ) (きょうなりとは)(ざるとなり )(べから )如何( いかんともす )也、

【書き下し】象に曰く、飛鳥なれば、以って凶なりとは、如何ともす可からざるとなり、

この卦は、全卦で飛ぶ鳥の象形となっていて、初と上との両爻は翼の位に当たっている。
鳥は翼を以って飛ぶ。
したがって、初上の両爻に飛鳥という。
これは、沢風大過に棟(むなぎ)の象が有り、三四両爻の棟の真ん中に当たるところで、棟撓む、棟隆んなり、とあるのと同例である。

今、初六は陰柔不中不正にして、上の九四の爻に応じている。
もとより初六は下卦艮の止るの卦の体中に居て、陰爻なので、静かにして守り止まるべき者である。
しかし今は小過の時なので、九四に応じようという意が過ぎて、速やかに九四の方へ飛んで行こうとしているのである。
その九四は宰相の位に居て、陽剛にして権勢が有る。
とすると、初九の匹夫が速やかに進んでこれに応じようとするのは、陰柔の卑夫が利欲のために権門に媚び諂うことに他ならない。
このようなことでは如何ともし難く凶である。
だから、飛鳥なれば、以って凶なり、という。
飛鳥とは、速やかに進んで九四に応じようとする意を喩えたものである。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二( りく じは )(よぎって)其祖( その そに)(あえり)其妣( その ひに )(ざれども )(およば )其君( その くんに)(あえり )其臣( その しんに)( なし)(とが )

【書き下し】六二は、其の祖に過ぎって、其の妣に遇えり、其の君に及ばざれども、其の臣に遇えり、咎无し、

象曰(しょうに いわく)(ずとは )(およば )其君( その くんに)(ざれよとなり )(べから )(すごす)也、

【書き下し】象に曰く、其の君に及ばずとは、過ごす可からざれよとなり、

五を父母の位とし、また祖妣の位とする。
陽爻を父とし祖とし、陰爻を母とし祖妣とする。
単に祖とあれば祖父のこと、祖妣は祖母のことである。
二は五と応の位である。
五を父母とすれば、二は子であり、五を祖妣とすれば、二は孫である。
今、五を妣とするのは、火地晋の六二に六五を指して王母というのと同類で、六五が陰爻であることによる。
また、()ぎるとは、避けるという意である。

さて、六二の孫娘が、その祖父のところを黙って通り過ぎ、その妣(祖母)に遇うことは、男尊女卑の立場で言えば、非礼で過ちのようでもある。
しかし、古代中国では、孫は祖父に付き、孫娘は妣(祖母)に付くという風習もあったので、孫娘としては、祖父のところを通り過ぎて直接祖母に遇うことのほうが、却って道に適うことになるのである。
だから、其の祖に過ぎって、其の妣に遇えり、という。
この、遇えりとは、道に(かな)うということである。

また、五を君とし、二を臣とする。
しかし今、二五共に陽爻にして、君臣相応じない。
したがって、六二は中正の忠臣だが、その志が君に通じない。
このとき六二は、例え君に志が通じなくても、よく己の中正の道を以ってその職に尽くす時は、臣の臣としての道に適うのである。
こちらの遇うも、適うということである。
だから、其の君に及ばざれども、其の臣に遇えり、という。

そもそも過不及があれば、咎が有るものだが、このように、道に遇うのであれば、その咎もないのである。
だから、咎无し、という。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三(きゅう さんは)(あらず )(すぎたるに)(ふせぐ )(これを)(したがわば)(あらん )(そこなうこと )(これを)(きょうなり)

【書き下し】九三は、過ぎたるに弗ず、之を防ぐ、従わば、之を戕うこと或らん、凶なり、

象曰(しょうに いわく)(したがわば)(あらん )(そこなうこと )(これを)(きょうなりとは)如何也( いかんともせざるなり )

【書き下し】象に曰く、従わば、之を戕うこと或らん、凶なりとは、如何ともせざるなり、

小過の時に当たって、九三は過剛不中ではあるが、上六と応じている。
しかし上六は陰邪不中不正にして、小過の卦の極に不満気にして居る。
これは、厳しく防ぐべきの姦邪の小人である。
しかも九三は、過剛不中なので、普通の卦、普通の時ならば、剛強に過ぎる恐れも有る。
不中を慎むことは重要だが、今は小過の時である。
ましてこの卦は、四陰二陽の卦なので、陰邪の小人を防ぐことにおいては、九三はためらうことなく、積極的にこれを防ぐことが大事である。
これは決して過ぎていることではない。
だから、過ぎたるに弗ず、之を防ぐ、という。
之とは上六の陰邪の小人の害を指す。

もし、九三がこれ(=上六の陰邪な小人)を防がず、陰陽相応じてこれに従うことが有れば、遂にはこの上六のために戕われ害されるのだが、それは自業自得であって、如何ともし難いことである。
だから、従はば、之を戕うこと或り、凶なり、という。

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九四(きゅう しは )( なし)(とが )(あらず )(すぎたるに)(あえり)(これに)(ゆけば あやうし)(かならず ) (いましめて ) (なかれ )(もちうること)(ながく ) (つねあるべし)

【書き下し】九四は、咎无し、過ぎたるに弗ず、之に遇えり、往けば獅オ、必ず戒めて用うること勿れ、永く貞あるべし、

象曰(しょうに いわく)(あらず )(すぎたるに)(あえりとは )(これに)(くらい ) (ざればなり )(あたら)也、(ゆけば あやうし)(かならず ) (いましめよとは)(おわりに ) (ざれとなり )(べから )(ちょうぜしむ)也、

【書き下し】象に曰く、過ぎたるに弗ず、之に遇えりとは、位当たらざればなり、往けば獅オ、必ず戒めよとは、終わりに長ぜしむ可からざれとなり、

九四は小過の時に当たって、陽剛にして陰位に居るので位は当たっていないが、宰相の位に居るので、六五柔中の君に正しく比し輔佐し、政教徳化を布き施すのが、その任であり職である。
しかしまた、初六の小人とも陰陽正しく応じている。
要するに、九四執政の大臣は、六五に比し、初六に応じている。
応は重く、比は軽い。
とすると、自然に任せれば、九四の宰相は正応である初六の小人に重くして、比の五の君に疎くなりやすい。
陰柔の小人に私情厚くする時は、罪咎が有るものである。
したがって、初六の正応の小人を絶し捨てて、六五の君に専ら比し輔佐するべきである。
もっとも、正応の位を捨てて、比爻に専らになることこそ、咎が有るかのようにも思われる。
だから、まず、咎无し、という言葉を掲出して、意を決し心を専らにして、六五に比し輔佐するべきだと教え戒める。

ただし、今は四陰二陽の卦にして、陰が過ぎている時なので、九四の鼎臣は陽剛の威厳を強く盛んにし、この正応の陰柔の小人を断絶しようとするように、他の陰柔の小人も同様に断絶しないといけない。
これでは陽剛の威厳が過ぎるかのようではあるが、この卦この時は二五の君臣の位が共に陰弱にして、上下陰柔に流される時なので、陽剛に過ぎてはいないのである。
だから、過ぎたるに弗ず、之に遇えり、という。
之とは道を指し、道とはその時に適った行動のことである。

このように戒めても、それでも初六の小人に応じて往こうとするのであれば、忽ち災害に至るであろう。
小人が美辞麗句を以って諂い媚びを薦めることは、人情の好むところではあるが、とにかくこのような者は、永久に長じさせることなく、用いてはいけないのである。
だから、往くは獅オ、必ず戒めて用うること勿れ、という。
用うるとは、初六を用いることを指す。

このようなときには、小人に対して毅然と絶する節操を持つことこそが、常に大事なのである。
だから、永く貞あるべし、という言葉で、この辞を締めくくっている。

上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

六五( りく ごは )密雲( みつ うんして ) (いまだ/ず ) (あめふら)(よりす )( わが ) 西郊( せい こう )( こう ) (よくして ) (とるべし)( かの ) (あるを)1ノ(あなに)

【書き下し】六五は、密雲して不だ雨ふらず、我が西郊よりす、公弋して彼の穴に在るを取るべし、

象曰(しょうに いわく)密雲( みつ うんして ) (いまだ/ずとは ) (あめふら)(もってなり )(のぼれるを)也、

【書き下し】象に曰く、密雲して不だ雨ふらずとは、上れるを已ってなり、

※ここでの不は未の意として「いまだ〜〜ず」と訓む。

密雲不雨、自我西郊、という言葉は、風天小畜の卦辞と同じである。
およそ陰陽の道は、相和すれば雨を成し、相和しない時は、雨を成さない。
風天小畜は、陰を以って陽を止めているので、密雲するとしても未だ和していないので、雨を成さないのである。
対するこの雷山小過の卦は、四陰二陽と、陰が陽より過ぎているので、密雲するとし、未だ和していないので雨を成すことができないのである。
そもそも陰陽は、相均等であって後に相和するものである。
過ぎるも不及も、共に和することは難しい。
この卦の名の小過は「すこしすぎる」であって、そうだからこそ、君臣上下が和しない。
だから、この君の位の六五の爻にて、密雲して不だ雨ふらず、という義を示したのである。

ただし、この爻の密雲不雨というは、六五の君の心が六二の臣に下らず、上にだけあるからであって、六五の君の仁徳が未だ天下に遍く行き渡っていないことを指す。
しかし、やがては雨を成すほどの勢いが有る。
だから、我が西郊よりす、という。
天気は西から変わり、雨も西から降り出すのが通例なので、そう言う。
科学的には云えば、偏西風のためである。

六五は柔中にして、六二の中正なる者と応位だが、今は過ぎるの時なので、君臣上下不和にして、未だ応じない。
したがって、六五の君より、ことさらによく心を配って、在下の中正の臣を求めるべきである。
そうすれば必ず上下和睦し、しかる後に雨沢を施せるのである。
だから、公弋して彼の穴にあるを取るべし、という。
公とは六五、穴とは六二を指す。
弋は音で(よく)と読み、飛ぶ鳥を捕獲する道具であって、低い穴に在る者を取る道具ではないのだが、六五が心をことさらに下降して六五中正の臣に応じるべきことを諭し教えるためにこのように表現しているのである。

上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六(じょう りくは)(あらず )(あえるに ) ( すぐ )(これに)飛鳥( とぶ とり ) (かかる )之凶(これが きょうに)(これを ) ( いう )災眚( さい せいと)

【書き下し】上六は、遇えるに弗らず之に過ぐ、飛ぶ鳥、之が凶に離る、是を災眚と謂(い)う、

象曰(しょうに いわく)(あらず )(あえるに ) (すぐとは )(これに)(もってなり ) (たかぶれるを)也、

【書き下し】象に曰く、遇えるに弗らず之に過ぐとは、亢ぶれるを已ってなり、

この卦は四陰二陽にして、過陰の象であり、この上六は重陰にして卦極に居る。
これは陰の多さが甚だしい者である。
したがってこの上六は、九三や九四の弗過遇之とは反対に、過ぎて道に合わないのである。
だから、遇えるに弗らず之に過ぐ、という。
之とは道のことである。

さて、上六も全卦飛鳥の象の翼に当たっている。
その義は初六と同じである。
上六は高く卦極に在って、高く亢ぶり誇ることに過ぎることが、まるで、鳥が高く飛ぶようなのである。
高ぶり誇ることが凶であることは、言うまでもないし、そうであれば、天災と人眚が交互に至るというものである。
だから、飛鳥之が凶に離る、是を災眚と謂う、という。

なお、ここでの離は、「はなれる」ではなく離卦の「付着する」という意であって、「凶が付着する」ということを「凶にかかる」と訓んでいるのである。
この上六が陰から陽に変じれば、上卦は離になるから、ここではこの離の字が使われたのである。

前の卦=61風沢中孚 次の卦=63水火既済

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01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
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