学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など

Eメール究極の易経解説究極の易経解説トップへ

前の卦=05水天需 次の卦=07地水師

06天水訟 てんすいしょう

「旧約聖書」天地創造2日目を構成する2卦(需・訟)のひとつ。詳細はコチラ。

 坎下(かんか)乾上(けんじょう)

八卦の(かん)の上に、(けん)を重ねた形。

(しょう)は訴えるという意。
乾を剛強として坎を苦しむとすれば、上の為政者の剛強な政策に下の民衆が苦しんでいる様子。
こんなことでは、下の民衆はその苦しみを上に嘆き訴えるしかない。
だから訟と名付けられた。
また、上卦の乾の天の気は上り、下卦の坎の水の性は下るものである。
また、乾の天体(太陽や月など)は東から西へ巡り、天の下の坎すなわち雲は西から東へ流れる。
これは、上と下の者が、目的が異なり、心を通わせることができない様子である。
心が通わなければ、命令される立場の下の者は、上の者に不平を訴えるしかない。
だから訟と名付けられた。
また、外卦を相手とし、内卦を自分とすれば、相手は乾で健やかで、自分は坎で険難を抱えている。
険難を抱えていれば、どう頑張っても健やかな人のペースに合わせることはできない。
これでは、止むを得ず、自分の苦しみを相手に訴えようと考える。
だから訟と名付けられた。
また、全卦をひとりの人間として観る場合は、内に坎の険難の姦謀を秘め、外は乾の剛強で健やかに装う者となる。
このような人は、自分に都合がよくなるようにと、よく不平不満を訴えるものである。
だから訟と名付けられた。

 

卦辞(かじ) 〜彖辞(たんじ)とも言い、周の文王の作と伝わる。

(しょうは)(あれども )(まこと ) (ふさげらる)(おそれて ) (ちゅうすれば ) (きちなり)(おえれば ) (きょうなり)(よろし )(みるに )大人( たい じんを)()(よろしから ) (わたるに )大川( たい せんを)

【書き下し】訟は、孚有れども窒げらる、タれて中すれば吉なり、終えれば凶なり、大人を見るに利ろし、大川を渉るに利ろしからず、

訴えるときは、相手に対して、正当な不満だけではなく、得てして憎しみだけが増幅し、感情的になってしまうものだ。
しかし、相手は乾であり剛健であり理性的である。
自分の心に孚=誠実で有るとしても、それは感情的になっているだけなので、相手に見透かされ、訴えを真剣には聞いてもらえず、窒げられるのが関の山だ。
だから、孚有れども窒げられる、という。
そんなときは、畏れ慎み、中を得ることを、心がけるのが大事だ。
中を得るとは、この場合は相手の言い分と自分の言い分を客観的に判断し、ほどほどで訴えを取り下げるということ。
どうしても相手に要求のすべてを飲ませようとゴネ続ければ、交渉決裂で、自分はそこに居られなくなるだろう。
だから、タれて中すれば吉、終えれば凶、という。

また、来往生卦法で観る場合は、この卦は天地否より来たものとする。
否卦のときは、上卦は乾で剛健、下卦は坤で柔弱であり、上卦は外にして君、下卦は内にして民であり、上卦は相手、下卦は自分、上卦の乾の天は陽で上昇の気、下卦の坤の地は陰で下降の気である。
これは、君と民、相手と自分が、互いに背き行き違うことを意味する。
このような状況に乗じて、卦の外より一陽爻が来て、下卦の民衆の中心に位置して九二となり、険難を意味する坎となり、上卦の君と対峙して、成卦の主爻となった。
したがって、これまで上下の意志の疎通がなかったことが、今回の訴えの原因である。

とにかく、訴えを起すには、理非曲直を明らかに判断できる明徳の君子=大人でなければ、上手く行かないものである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

さて、そもそもこの卦は、上下が行き違っているのであって、天空の下の雲が激しく動いているような状況である。
嵐を予感させるときである。
波風も強く、大川や海を渡るのは極めて危険である。
だから、大川を渉るに利ろしからず、という。

彖伝(たんでん) 彖伝は卦辞(彖辞)の解説で、孔子作と伝わる。

彖曰(たんに いわく)(しょうは)上剛(うえ ごうにして) 下險( した けんなり)(けんにして ) (しこうして ) (すこやかなるものは ) (よくしょうをおこす)

【書き下し】彖に曰く、訟は、上剛にして下険なり、険にして健かなるものは、よく訟をおこす、

まず、卦名の大義を解説する。
訟という卦名の義は、上が下を制すること、乾が剛強にして厳刻に過ぎるので、下は坎の険みに困苦していて上に奉仕することが不可能、そこで止むを得ず訟えることになるという義を、上剛下険と云う。
また、全卦をひとりの人間として観る場合は、内に坎の険難の姦謀を秘め、外は乾の剛強で健やかに装う者となり、このような者は自分に都合がよくなるようにと、よく不平不満を訴えるものだという義を、険而健訟と云ったのだ。

(しょうは)(あれども )(まこと ) (ふさげらる)(おそれて ) (ちゅうすれば ) (きちなりとは)剛來( ごう きたりて ) (しこうして)(えればなり) (ちゅうを)也、

【書き下し】訟は、孚有れども窒げらる、タれて中すれば吉なりとは、剛来たりて中を得ればなり、

ここでは生卦法を以って卦辞を解説している。
この卦は来往生卦法で観ると、天地否より来たものとなるが、その天地否の上卦の乾は中実の象、下卦の坤は中虚の象にして、共に孚があっても、そもそも否は塞がるの卦の時なので、有孚窒げらるるのである。
しかし今、九二の一陽剛が卦の外より来て成卦の主となって中を得ているわけだが、これがタ中吉という象にして、即ち剛来りて中を得るという義なのである。

(おえれば ) (きょうなりとは)(うったえは ) (ざれとなり )(べから )(なしとげる)也、(よろしとは )(みるに )大人( たい じんを)(たっとべばなり )中正(ちゅう せいを)也、

【書き下し】終えれば凶なりとは、訟は成しとげる可からざれとなり、大人を見るに利ろしとは中正を尚べばなり、

そもそも訟えということは君子が好むところのことではなく、止むを得ずして訟えとなったのであれば、その事の義理が明白ならば速やかに訟えを止めることが道の大義であって、必ず訟えの完全な勝ち即ち訟えを終えることを求めるべきではなく、だからこそ君子たらん者は訟不可成也と云うのだ。
もとよりその事の義理を明白に折中しようとするならば、必ず明らかにして決断力のある大人を待って訴え出るべきである。
大人とは剛健中正の徳有るを云うのだが、この大人の徳がなければ、訟えに判断を下すときには、愛憎好悪偏聽固執の私情によって理非曲直必ず顛倒反覆するからであり、だから尚中正也と云うのだ。

(ずとは )(よろしから )(わたるに )大川( たい せんを)(いればなり)(ふちに)也、

【書き下し】大川を渉るに利ろしからずとは、淵に入ればなり、

この卦は天水が行き違う象義にして、これは人情が不和な時である。
およそ江海大川を渉ることは人命の大事に係ることであって、人情が和せず、天と水と違い行く時に、この危険を犯すのであれば、必ず反覆して溺れ死んでしまうような患いに係るものである。
だから入于淵と云うのであって、入于淵は溺れ死ぬことを指す。

 

象伝(しょう でん ) 卦の(しょう)=形の解説で、大象(たいしょう)とも呼ばれ、彖伝同様に孔子の作と伝わる。

象曰(しょうに いわく)(てんと) ()(みず ) 違行(たがい ゆくは)(しょうなり)君子( くん し ) (もって ) (なすには )(ことを ) (はかるべし ) (はじめに)

【書き下し】天と水と違い行くは訟なり、君子以って事を作すには始めを謀るべし、

この卦は、上卦の乾天の気はいよいよ上昇し、下卦の坎水の体は益々下降するわけだが、これはその性すでに相背いているのであって、さらに天は、太陽が東から西へ進むように、西に巡り行き、水は東に流れるので(中国大陸では東の海に向かって川は流れている)、その行いもまた相和せずの義がある。
したがって両者にこのような相違があるからこそ、訟えが起こるのだ。
君子はこの卦の象を観て、訟えとなり諍いとなるところの元は、その事物が行き違い、情意が背きあっていることによるのだと知るべきである。
その行き違い、情意が背く元は、全くその事を作す始めに、よく終わりを謀って後を慮らないことによるということを洞察して、天下万般のことをよくその始めに遠きの憂い、終わりの険みを謀り議して、その行いが違わず、その情意が背かないよう熟慮して処置するべきだと戒めて、こう云っているのだ。

爻辞( こう じ ) 〜周公旦の作と伝わる。象曰以下は孔子の作と伝わる象伝。

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六( しょ りくは)(ざれば )(ながくせ ) (ところを ) (こととする)(すこしく ) (あれども ) (いうこと)(おわりには ) (きちなり)

【書き下し】初六は、事とする所を永くせざれば、小しく言うこと有れども、終わりには吉なり、

象曰(しょうに いわく)(ざれとは ) (ながくせ ) (ところを ) (こととする)(しょうは ) (ざればなり )(べから ) (ながくす)也、(いえども ) (すこしく ) (ありと)1ノ(いうこと)其辨( その べん ) 明也(あきらかなり )

【書き下し】象に曰く、事とする所を永くせざれとは、訟は長くす可からざればなり、小しく言うこと有りと雖も、其の弁明らかなり、

この卦は、九五の君位の爻以外、すべて(うった)える側の者とする。
したがって、この初六の爻辞の中にある「事」というのは、訟えることを指す。
その初六は、坎の険難の底に陥り、その身は困窮している者であって、哀しみ嘆き、その状況を訟えたい意はあるのだが、陰柔不才の卑賤なので、上を畏れ官を恐れて、強いて訟えを遂げることを為し得ない。
要するに、訟えようとする情意は小さく、訟えると言うとやや大袈裟なので、事と言ったのであり、ちょっと不満を言ってみた程度のことである。
だから、事とする所を永くせざれば、という。
そんな些細なことでも、それを口に出して訟えれば、相手からは当然のこととして反論を言われ、自分もちょっと傷つくものである。
だから、小しく言うこと有れども、という。
しかし、訟えを是が非でも遂げようとはせず、その利害得失を明らかに弁え、すぐ引っ込めるのであるから、それで事は穏便に済む。
だから、終わりに吉なり、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二(きゅう じは )()(かた )(うったえに)(かえる)(しこうして ) (のがる)(その ) 邑人( ゆう じん ) 三百()( なし)(わざわい)

【書き下し】九二は、訟えに克たず、帰る、而して逋る、其の邑人三百戸眚い无し、

象曰(しょうに いわく)()(かた )(うったえに)(かえり ) 逋、(のがるとは  )竄也(かくるるなり )(より )(した ) (うったう)(うえを)(うれいの ) (いたること ) 掇也、(つづれるがごとくならんとなり)

【書き下し】象に曰く、訟えに克たず、帰り逋るとは、竄るるなり、下より上を訟う、患の至ること掇れるがごとくならんとなり、

この九二の爻は、訟の主謀、成卦の主爻、また内卦の主爻である。
これは衆を集めて徒党を組み、訟(うった)え出る張本人であって、剛中の才を以って進み行き、九五の爻と争い弁じる者である。
しかし、元来九五は上であり、君であり、中正にして乾の剛健厳律の主爻である。
この九二は下にあり、臣であり、不正にして坎の険難陥没の主爻である。
この両者を比較すれば、九二が九五に勝つのは極めて難しい。
だから、訟えに克たず、という。
そもそも九二は、その勢いも才力も、九五と対等だと思い込み、強いて冒し進んで訟え、九五と争うが、その義は立たず、その理は屈して、散々に敗北させられるのである。
敗北して九五のところから本位の二の位に帰っても、その本位にも居られず、逋れ逃げ隠れることになる。
だから、帰る、而して逋る、という。

さて、九二は下卦坎の主爻であるわけだが、これを一邑(村)の長に擬えると、この訟はその邑を挙げてのものである。
邑の民衆の支援を得た九二は、強いて進んで九五に訟え争ったが、結局は敗北して帰り、さらには逃亡した。
その結果、訟えの首謀者はいなくなった。
首謀者がいなくなれば、その集団は何もできない。
したがって、支援した邑の民衆も、何もできなくなり、これ以上訟えることは止めた。
訟えることを止めれば、九五もそれ以上咎めない。
だから、其の邑人三百戸眚い无し、という。
三百は多数の意であり、その邑全体が無事だということである。
もしも九二が逃げ隠れせず、邑人もなお連なって訟えを遂げようとすれば、これは下として上を訟えることだから、その患えの至り来らんことは連綿と綴れるが如くに続いて止むことがないので、九二が逃げ隠れたことは、実に邑人にとっての大福なのである。

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三( りく さんは)(はむ )舊コ(きゅう とくに)(かたくすれば ) (あやうし)(おわりには ) (きちなり)(ありとも ) (したがうこと )王事( おう じに )(なかれ )(なすこと)

【書き下し】六三は、旧徳に食む、貞くすれば獅オ、終わりには吉なり、王事に従うこと或りとも、成すこと无れ、

象曰(しょうに いわく)(はむとは )舊コ(きゅう とくに)(したがって )(うえに ) 吉也(きちなるとなり )

【書き下し】象に曰く、旧徳に食むとは、上に従って吉なるなり、

六三は坎の険難の卦の極に居るので、その身に険難がある者とする。
その険難とは、坎を食禄とすれば、食禄費用が不足して困窮している様子だから、その不足を九五に訟え嘆こうとしているのである。
しかし、六三は陰柔にして才力がないので、進み犯すことを憚り、己が無能なることを省みて、訟えを思い止まる者である。
だから、旧徳に食む、という。
旧徳とは旧禄のことにして、祖先より承け伝えた世禄である。
なぜ、禄と言わずに徳と言うのかには、深く重い戒めを込めている。
平和な世の禄というものは、当人のではなく、その祖先の功徳によって賜っている俸給世禄である。
それを打ち忘れて六三の爻は、自身には徳も功もなく、妄りに加増を望んでいるのであって、だから制し戒めているのである。
臣下として九五の君上に従っていてこそ吉なのである。
もし、その志を改めずに、強いて加増を望み訟えれば、これは危うき道である。
だから、貞くすれば獅オ、という。
この貞は貞固の意である。
したがって、加禄を求め望むことを改め変じて、よく慎み、旧職を守るときには、無事なのである。
だから、終わりに吉なり、という。
そして、君命を受けて、事に任じられることがあるときは、直向にその役に従事するべきである。
仮に、よくその事を勤め得たとしても、決して自分のチカラだとは考えないことである。
まして、賞を乞い望むなどはもってのほかである。
臣は自身のために事をするのではなく、君命を畏み、忠勤に励むことこそが大事なのである。
だから、王事に従うこと或りとも、成すこと无かれ、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九四(きゅう しは )()(かた )(うったえに)(かえって ) (つきて )(めいに ) (あらためて)(やすんじて )(つねに ) (きちなり)

【書き下し】九四は、訟えに克えず、復って命に即きて渝めて、貞に安んじて吉なり、

象曰(しょうに いわく)(かえって ) (つきて )(めいに ) (あらためて ) (やすんぜよとは )(つねに)(いまだ/ざればなり ) (うしなわ)也、

【書き下し】象に曰く、復って命に即きて渝めて、貞に安んぜよとは、いまだ失わざればなり、

この九四もまた、九五の君に訟えようと欲することがある者である。
しかし、九四は上卦乾の一体に在って、九五の君に近接している爻なので、朝夕覿面に、九五の君の剛健中正にして威厳荘重な様子を見ている。
とすると、己は不中不正であるのだから、その訟えに利がないことはよくわかる。
これは、訟えを自重するしかない。
だから、訟えに克えず、という。
そうであるのなら、九四は道に復(かえ)って天命に即(つ)き、志を正しきに改め変じて、一に君上に従い順(したが)うのがよい。
だから、復って命に即きて渝めて、という。
さて、九四が志を改め道に復るに当たっては、変革のない貞恒の臣の大道を安んじ、未だ道を失わずに守ることを吉とする。
だから、貞に安んじれば吉なり、という。

上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五(きゅう ごは )(うったえをきく) 元吉( げん きちなり)

【書き下し】九五は、訟えをきく、元吉なり、

象曰(しょうに いわく) (うったえをきく ) (げん ) 吉、(きちなりとは  )(もってなり ) 中正(ちゅう せいなるを)也、

【書き下し】象に曰く、訟えをきく元吉なりとは、中正を以ってなり、

九五は剛健中正にして、よく天下の訟えを聴くところの明決の主爻である。
訟えを聴き定める君は、まず剛でなくてはいけない。
剛でないときは、威厳が軽い。
また、中でなければ偏私の弊害が生じる。
正しくないときには、邪曲に覆われ暗まされる。
しかし今、この九五の爻は、剛中正の三徳をきちんと具えている。
なおかつ陽爻なので明にして、乾の卦の中に在るを以って、決断敏利である。
その上、九五が陰に変じて、上卦の乾が離となれば、離明の徳を得て聡明にして文徳が盛んな様子となる。
このように九五は、訟えを聴く君としての資質を悉く備えているのである。
だから、訟えをきく、元吉なり、という。
元吉とは大善の吉ということである。

なお、九五の爻の義は、訟の卦全体の義を以って言えば、上卦乾の厳格の主であることを以って、下の者がこれに困(くるし)み、止むを得ず訟えることになる主爻とする。
これが、六爻の義を以って言うときには、剛健中正の徳が有り、よく訟えを聴く公正文明の君上とする。
これは卦と爻の分別のポイントである。
基本として言えば、卦は陰陽の交わり和する徳を以って論じ、爻は中正の徳を以って主とするものなのである。

上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上九(じょう きゅうは)(あり )(たまうこと)(これが) 鞶帯( はん たいを)終朝(しゅう ちょうに ) (みたび ) (うばわる )(これを)

【書き下し】上九は、これが鞶帯を錫わること或り、終朝に三たび之を褫わる、

象曰(しょうに いわく)(もって)(しょう) ( うく)(ふくを)(また ) (ざればなり)( たら )(けいするに)

【書き下し】象に曰く、訟以って服を受く、亦敬するに足らざればなり、

上九は陽剛を以って訟の卦の極に居る。
また、上卦乾剛の卦の極に当たってもいる。
これは、己の才力を振りかざして訟えを起こし、必ず勝つことを貪る者である。
事の是非を顧みずに勝とうと貪る者は、得てして自分に都合のよいように、真実を歪曲して欺くものである。
上九は、そうやって手段を選ばずに訟えに勝つので、上より鞶帯を錫わり、恩寵を受けるのである。
だから、これが鞶帯を錫わること或り、という。
鞶帯とは、衣服を飾る帯のことである。
しかし、そういった邪知姦才を以って訟を勝って服(鞶帯)を受けても、すぐにその邪謀は露見し、このような人物は敬い重んじることは到底できないとして、忽ち錫わった鞶帯も取り上げられる辱めを蒙るものである。
だから、終朝に三たび之を褫わる、という。
(ちょう)とは午前中に行われる政事の会議のことで、
終朝とは、その政事会議が終わるときのことであって、ある朝の政事会議で訟えに勝ち、鞶帯を錫わっても、その会議が終わるまでには姦計が露見して、取り上げられてしまう、ということである。

前の卦=05水天需 次の卦=07地水師

究極の易経解説 メニュー

01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火 

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

究極の易経解説トップへ
このページのトップへ

学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など
最終更新日:令和04年04月03日 学易有丘会
Copyright Heisei12th〜Reiwa2nd(2660〜2680) (C)2000〜2020 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します