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漢文として楽しむ論語 論語序説 1/4

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論語序説

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【解説】
論とは、選んで順序よく並べるという意。孔子(こうし)の門流の人が、孔子と諸弟子の語を選び連ねて、『論語』と名付けた。
もともと『論語』にはその編纂された経緯等を示す序文がないので、朱子(しゅし)はこの書に注釈を加えた時に、孔子一代の履歴と、諸儒のこの書を論じた説を記して、序説とした。

史記生家曰、

【書き下し】
史記の世家に曰く、

【解説】
史は、出来事を記す書である。(かん)司馬遷(しばせん)が太古の五帝の時より漢までの事を記録して『史記』と名付けた。
その『史記』では、天子の事跡を綴ったものを本紀(ほんぎ)、諸侯の事跡を綴ったものを世家(せいか)、その他の人々の事跡を綴ったものを列伝(れつでん)と名付けた。
世家とは、その家を世々承け伝えて、国を保った者のことである。孔子は諸侯ではないが、その徳は盛んにして、子孫にも賢者が多いので、これを尊び、列伝に入れず、世家に連ねたのである。

孔子名丘、字仲尼、其先宋人、父叔梁紇、母顔氏、

【書き下し】
孔子名は丘、字は仲尼、其の先は宋人、父は叔梁紇、母は顔氏、

【解説】
ここから陬邑というところまでは孔子の氏族出生のことを記す。
かつての人の名は、生まれた時に親が名付けた名を一生涯名乗るわけではなく、元服(げんぷく)加冠(かかん)で一人前となる時に字名(あざな)を付け、その後は基本的にその字名を名乗った。
孔子は生まれたときに丘と名付けられ、元服=加冠で一人前となったときに仲尼という字名を付けられた、ということである。

孔子の祖先は宋の人だった。
(しゅう)武王(ぶおう)(いん)紂王(ちゅうおう)を打った後、紂の庶兄微子啓(び しけい)を宋国に封じて殷の後を継がせた。
その後五代湣公(びんこう)の子弗父何(ふつほ か)より分かれて世々宋の(きょう)(=大臣)となる。その玄孫(げんそん)(やしゃご=孫の孫)孔父嘉(こうほ か)が別に宗族を立て、孔を以って氏とするが、宋の華氏により難に遭い、その子木金父(ぼくきんほ)が初めて()に移り、陬人(すうひと)となった。
孔子は木金父六代の孫、微子よりは十五世となる。
父は、叔梁は字、紇は名、魯の太夫として、陬邑(すうゆう)の奉行だった。
母は、名は徴在(ちょうざい)という。

以魯襄公二十二年庚戌之歳十一月庚子、生孔子於魯昌平郷陬邑、

【書き下し】
魯の襄公二十二年庚戌之歳十一月庚子を以って、孔子を魯の昌平郷の陬邑に生めり、

【解説】
孔子の生年は、「五経」のひとつ『春秋』(しゅんじゅう)公羊(くよう)穀梁(こくりょう)の二伝に襄公二十一年とあるが、史記は春秋の月、()の正月を改めないままに、十一月を歳の初めとする説に惑い、その歳の十一月と十二月を翌年とし、孔子は十一月生まれなので、二十二年と記した。
しかも史記は年だけで月日は記さない。
朱子がこの論語序説を書くに当たっては「公羊伝」の月日を以ってこれを補い、その年については史記に従い、改めなかったものと推測される。
が、暦法を以って考えれば、この十一月に庚子の日はなく、あるのは十二月なので、転写を誤ったのではないか、とも言える。

今、諸書によりて通考すれば、孔子の生誕は周の霊王(れいおう)二十年、魯の襄公二十一年、己酉(つちのととり)の歳、周正の十二月、夏正の十月乙亥、二十二日庚子が最も有力なのではないかと推察される。
この年は日本の綏靖(すいぜい)天皇三十年(=皇紀109年、西暦紀元前552年)に当たる。生誕地の、魯の陬邑は今の山東省兗州府泗水県の地とのこと。

 

 

爲児嬉戯、常陳俎豆設禮容、

【書き下し】
児たりし時の嬉戯、常に俎豆を陳ね礼容を設く、

【解説】
為児とは五六歳の時を指す。嬉戯とは、嬉しく戯れること則ち遊びのこと。
俎豆は祭礼に用いる器、俎は牲(いけにえ)を載せる器、豆は食物を盛る器のこと。
孔子は子供の頃、あそびごととして、祭礼を真似て俎豆をつらね、礼容=儀式作法の真似をするのが常だった。

及長爲委吏、料量平、爲司職吏、畜蕃息、

【書き下し】
人となるに及んで委吏となる、料量平かなり、司職の吏となり、畜蕃息す、

【解説】
及長は成長して大人になったことを指す。
委吏とは野外からの収穫を納める倉の役人で、材木や薪などを司る官の名。
料は必要な物の種類数、量はそれぞれの物の数量のことで、種類数も数量もみなきちんと間違いなく平らかに取り揃えた。
司職吏とは、祭りの牲に用いたり車を曳く牛を飼う奉行である。
畜はその牛を指し、蕃息とは、家畜を上手に飼育繁殖して数多くに増やしたこと。
孔子は司職の吏となると、畜を上手く飼育してどんどん増やした。

適周問禮於老子、既反、而弟子益進、

【書き下し】
周に適きて礼を老子に問う、既に反って、弟子益ます進む、

【解説】
周は周王が直接統治している地のこと、老子は周の官吏で文庫をつかさどり礼文をよく知る人、孔子はこの老子につきしたがって礼を学んだ。
なおこの老子は、一般的な博識な年長者といった意で、いわゆる『道徳経』を作った老子とは別人だとする説もあるが定かではない。
とにかく孔子が三十歳を過ぎて師友を四方に求めて博く学んでいた時のことである。
やがて魯に帰ると、その説くところの道はいよいよ尊敬され、弟子がどんどん増えた。

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最終更新日:令和06年08月06日 学易有丘会
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