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ここでは易学=易経(周易)に基づく占いの成り立ちについて、初心者向けに解説しています。易の起源は中国の有史以前、まだ文字がなかった時代だと言われています。

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易者が医者だった時代

 普通、人は病気になると医者に行く。
 しかしそれは、、医療環境が整備された現代だからこそのことなのであって、その昔、人々が頭にチョンマゲを載せていた頃には、いささか事情が異なっていた。医者に対する信頼度はそれほど高くはなく、病気になると易者にその治療を委ねる人々も少なくなかったのだ。

遠山の金さんの頃は・・・

 明治維新の約50年前、時代劇では「遠山の金さん」がまだ北町奉行になる前、遊び人として江戸の街を徘徊していたとされる文政年間に、ある易占いの本が出版された。タイトルは『周易本筮指南(しゅうえきほんぜいしなん)』という。当時の高名な易者眞勢中州(ま せ ちゅうしゅう)の解釈にしたがい、その弟子が筮竹(ぜいちく)の扱い方と占例(せんれい)とを書いたものである。現代と江戸時代とでは社会制度、生活様式、価値観など、かなり異なるわけだが、だからこそ興味が湧いた。実際にページをめくってみると、古風な文体やそれぞれの占例が、恰も時代劇の台本でも読んでいるかのように思え、不思議な感覚になった。そんな中、読んでみて意外だったのは占例の内容構成である。原文は江戸時代の言葉であるとともに専門用語が多いので、言葉を補いつつ現代語に訳すが、まずは次のようなことから始まる。

 ある日、腹痛と熱を訴える病人がやって来たので、中州先生が筮竹で占ったところ、火雷噬嗑(からいぜいこう)と出た。
 先生は、「これは口の中に食物がある形だから、原因は食中毒、よって腹中の毒素を排出すれば治る」と判断し、大黄(だいおう)(漢方の下剤)を主体とした薬を調合して服用するよう指示した。
 その結果、病人は約1ヶ月で全快した。

 この中の火雷噬嗑というのは易の()の名称で、陰を、陽をとした記号6本で構成されるという組み合わせの形を言い、この形は筮竹と呼ばれる49本の細長い竹の棒を束にして手に持った上で、無作為にニ分割し、その()かれた本数により決定されるのである。

 占いで薬を処方するとは、なにやら信じがたいような印象も受けるところだが、そんなことはお構いなく、占例はさらに続けて、山水蒙(さんすいもう)という形)が出たら下痢、水沢節(すいたくせつ)という形)が出たら病因は寒さと湿気、また別のところでは風火家人(ふうかかじん)という形)が出たら風邪に水 (あた)りを併発したために熱があるのだとするなど、病気に関するものがやたら目につく。
 数えてみると、占例は全部で43件あるのだが、そのうち病気についてのは、冒頭に3件続くのを皮切りに計10件すなわち約4分の1に迫る多さなのだ。そのほかの易占いの定番とも言うべき失せ物や家出人捜索、天候や災害予測、商品相場の動向、商談や就職の可否、移転や結婚、男女関係の吉凶といった問題は、それぞれ2〜3件ずつしかないのにである。

 これは当時の人々の易占いに対する興味が、何よりも病気治療にあったことの現われであると同時に、易者の側もその心理を顧客獲得のために利用していた一例と言ってよいだろう。
 もっとも易占いに病気治療を期待したのは、何も易者の宣伝が上手かったからだけではない。当時の医学は漢方主体だったことも大きい。漢方はそもそもが易の理論から発展した医学だからだ。いや、医学だけではない。庶民の風俗や信仰から道徳、法律、制度にいたるまでの社会全般が、易の理論を中心に形成されていたのである。

忠臣蔵の場合

 元禄15年12月14日、吉良邸討ち入りで主君の仇を報じた大石内蔵之助(おおいしくらのすけ)は、翌年2月4日、切腹を賜り、その辞世に、
 「あら楽し 思いは晴れて 身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」
 と詠んだ。
 易の理論にしたがって主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)を太陽、家臣の長である自分を月(太陰)に(なぞら)え、臣下として最後まで何ら疚しいところなく、陰徳を尽くした誇りと喜びと満足を表現していたのであって、このような比喩を使えたのも、そんな易の理論によって社会が形成されていた時代だっからに他ならない。

 易に基づくと言えば、こんなものもある。正月に相応しい遊びを独楽(こま)回し、(たこ )揚げ、羽根突きとしたこと、冬至を指して一陽来復と喜んだこと、奈良時代の大宝律令にある「班田収受の法」の男女の土地分配比率、『日本書紀』の神武天皇即位年算出根拠とされている 辛酉(しんゆう)革命、君子豹変(くんしひょうへん)という言葉などなど。
 あまり羅列しても意味がないのでこのくらいにしておくが、特に皇室関連の事柄には、それこそ易なしでは語れない場合がしばしばあり、その伝統は現代にもしっかり受け継がれている。

皇室と易

 天皇陛下御幼少時の御称号と御尊名の「継宮(つぐのみや)明仁(あきひと)」も出典は『易経(えききょう)』すなわち易の本の離為火(りいか)彖伝(たんでん)というところであって、年号にしても近時の大正、明治を始めとする計27回もが、この『易経』を典拠としていて、平成、昭和といった『書経』からのもの(計23回)を抑えて計27回と、第1位の多くを数えているのである。

列挙すると次のとおり。
年号 読み方 皇紀年、西暦年、その時の天皇、典拠箇所。

=奈良時代=
大宝 たいほう  皇紀1361年、西暦 701年、文武天皇 繋辞下伝。
霊亀 れいき   皇紀1375年、西暦 715年、元正天皇 山雷頤初九爻辞。
天平 てんぴょう 皇紀1389年、西暦 729年、聖武天皇 文言伝。
天応 てんおう  皇紀1441年、西暦 781年、光仁天皇 沢火革彖伝。

=平安時代=
貞観 じょうかん 皇紀1519年、西暦 859年、 清和天皇 繋辞下伝。
天徳 てんとく  皇紀1617年 西暦 957年、 村上天皇 文言伝。
治暦 じりゃく  皇紀1725年、西暦1065年、後冷泉天皇 沢火革象伝。
承徳 じょうとく 皇紀1757年、西暦1097年、 堀河天皇 山風蠱六五象伝。

=鎌倉時代=
貞応 じょうおう  皇紀1882年、西暦1222年、後堀河天皇 風沢中孚彖伝。
安貞 あんてい   皇紀1887年、西暦1227年、後堀河天皇 坤為地彖伝。
乾元 けんげん   皇紀1962年、西暦1302年、後二条天皇 乾為天彖伝。
元亨 げんこう   皇紀1981年、西暦1321年 後醍醐天皇 火天大有彖伝。
正中 しょうちゅう 皇紀1984年、西暦1324年、後醍醐天皇 文言伝。

=南北朝時代〜北朝=
正慶 しょうけい 皇紀1992年、西暦1332年、 光厳天皇 風雷益彖伝。
貞治 じょうじ  皇紀2022年、西暦1334年、後光厳天皇 巽為風初六象伝。

=室町時代=
嘉吉 かきつ   皇紀2101年、西暦1441年、 後花園天皇 沢雷随九五象伝。
文明 ぶんめい  皇紀2129年、西暦1469年、後土御門天皇 天火同人彖伝。
明応 めいおう  皇紀2152年、西暦1492年、後土御門天皇 火天大有彖伝。
天文 てんぶん  皇紀2192年、西暦1532年、 後奈良天皇 繋辞上伝。

=江戸時代=
元和 げんな    皇紀2275年、西暦1615年、後水尾天皇 文言伝。
慶安 けいあん   皇紀2308年、西暦1648年、後光明天皇 坤為地彖伝。
貞享 じょうきょう 皇紀2344年、西暦1684年、 霊元天皇 風雷益六二爻辞。
元文 げんぶん   皇紀2396年、西暦1736年、 桜町天皇 坤為地六五象伝。
文化 ぶんか    皇紀2464年、西暦1804年、 光格天皇 山火賁彖伝。
元治 げんじ    皇紀2524年、西暦1864年、 孝明天皇 文言伝。

=近代=
明治 めいじ   皇紀2528年、西暦1868年、明治天皇 説卦伝。
大正 たいしょう 皇紀2572年、西暦1912年、大正天皇 地沢臨彖伝。

 なぜ、こうまで易を大事に考えていたのだろうか?

 ひとつには科学が未発達な分、未来を見通す能力への憧れが強かったことも考えられるが、それにもまして、その理論が自然界の法則や人間の本能、社会集団を形成した時の習性といった事柄を、上手く表現していたことが大きいだろう。

開成高校の名前の由来

 『易経』の「繋辞伝(けいじでん)」というところには、「それ(えき)は、(もの)(ひら)(つと)めを()し、天下(てんか)(みち)(おお)う」(夫易、開物政務、冒天下之道)という文章がある。
 「そもそも易は、あらゆる事物の理を開き、いかなる事業(務)をも成就させ、天下全般の事業を蔽い尽くすものだ」といった意味だが、この文章も人々の興味を易に引き寄せた一因だろう。額面どおり受け取れば、「易こそ最高の学問、易を知れば天下を取るのも夢ではない」ということになる。
ちなみに明治維新の5年前の文久3年、西洋の学問を研究する洋書調所(ようしょしらべじょ)は、この開物成務より二字を取って開成所(かいせいじょ)と改称された。洋学を易に匹敵するものと考えてのことだろうが、逆に当時は、それだけ易に対する思い入れが強かったのだとも言えよう。
 開成所はその後、幾多の変遷を経て、現・東京大学となったが、その名は毎年多数の東大合格者を輩出することで有名な開成高校に受け継がれた。

 とすると、このようにかつての日本人を魅了した易とは、いったいどんな理論なのだろうか。
 よく、欧米人から、日本人は哲学や宗教心がないと指摘されるが、それは易の人生観が血となり肉となっているからだとも言われている。
 そこで、日本人の美意識や価値観を再確認するとともに、ややもすると見た目の華やかさに流されがちな現代で、如何にすれば自分を見失わずに生きられるのか、といった問題も踏まえながら、その易の理論を紐解いて行くことにしたい。

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最終更新日:令和02年10月31日 学易有丘会
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