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漢文として楽しむ論語 述而第七 2/4トップページ 論語序説(朱子による孔子の略歴) 學而第一 爲政第二 八佾第三 里仁第四 公冶長第五 雍也第六 述而第七 泰伯第八 子罕第九 郷黨第十 先進第十一 顔淵第十二 子路第十三 憲問第十四 衞靈公第十五 季氏第十六 陽貨第十七 微子第十八 子張第十九 堯曰第二十 11(158) 子曰富而可求也…
○ 【書き下し】子の曰く、富にして求む可くは、執鞭之士と雖も、吾亦之を為ん、如し求む可からざれば、吾好む所に従わん、 【訳】先生が仰った。もし富裕になれるのなら、鞭を執って人を追い払うといった下級役人の仕事でも、私は自分の志を曲げてこれを求める。しかし、それで富裕になれないのなら、自分の志を曲げず、自分の好むところに従って、その貧しさに安んじる。 【解説】執鞭之士とは、偉い人の出入りの際に、鞭を執って人を追い払う下級役人。富裕は天命であって、求めて必ずしも得られるものではない。これは孔子が自らの志を述べたのではなく、世の富貴を貪る者を諭したものである。 12(159) 子之所愼…
○ 【書き下し】子の慎む所、斉、戦、疾、 【訳】先生が何よりも慎んで臨んだのは、斎戒沐浴と戦争と疾病である。 【解説】斉は斎戒沐浴のこと。祭をするための物忌すなわち数日間の心身を清める禁欲的生活のこと。誠を尽くし、心からの敬意をもって祭を行うためにはは絶対必要なことで、疎かにしてはならない。疎かにすればどんな禍、自然災害が起きるかわからない。戦争は衆の死生、勝っても負けても犠牲者が出るものであり、なおかつ国の存亡がかかっている。疾病は、自分の死生存亡がかかっている。したがって、これらが一番大事なので、何よりも重んじて慎むのだ。 13(160) 子在齊…
○ 【書き下し】子、斉に在まして韶を聞くこと三月、肉の味わいを知らず、曰く、図らざりき、楽為ること、斯に至らんとは、 【訳】先生が斉に居たとき、すでに廃れたとされていた韶という音楽が斉には残っていると知り、機会を得て約三ヶ月間、韶を聞いて学んだ。その間は、肉の味もわからなくなるくらい、韶のことに集中していた。先生が仰った。かつて、こんなに素晴らしい音楽が作られていたとは、思いもよらなかった。 【解説】韶は舜の徳業に象って美と善を尽くした音楽。孔子の時には、すでにこの音楽は廃れ、ただ斉国に僅かに残っていた。孔子は斉へ行ったとき、この残っていた韶を聞く機会を得て、とても喜んだ。約三ヶ月間、これを聞いて学んだのだ。 14(161) 冉有曰夫子爲衞君乎…
○ 【書き下し】冉有の曰く、夫子衛の君を為けんか、子貢の曰く、諾、吾將に之を問わんとす、入りて曰く、伯夷叔齊は何人ぞ、 【訳】冉有が言った。先生は衛の君を援護するのでしょうか。子貢が言った。そうだね。私も今まさにこれについて質問しようとしていたところだ。そう言って先生の居室に入って、言った。伯夷と叔齊はどういう人ですか。 【解説】衛君は 【書き下し】曰く、古の賢人なり、曰く、怨みたりや、曰く、仁を求めて仁を得たり、又何ぞ怨みん、出でて曰、夫子為けじ、 【訳】先生が仰った。伯夷叔齊は古の賢人だ(衛の輒が不孝はすでに知られている)。子貢が言った。二人に悔いはなかったのでしょうか。先生が仰った。二人は仁を求めて仁を得たのだから、何ら悔いも怨みもない。子貢は部屋を出て冉有に言った。先生は援護しない。 【解説】怨は悔の義。伯夷叔齊が共に国を譲ったとしても、その心において少しでも悔いるところがあれば、今の輒が罪も、ややなだめられるべき所があるので、こう質問した。これに対する孔子の答えの真意は次のようなこと。仁は人心の徳、天地自然の理法の專らなる者。伯夷は父命を尊び、叔齊は天倫を重んじて、その国を相譲ったわけだが、これはみな天地自然の理法の正しきに合い、人心の安きにつき、すでにそれぞれその志を遂げたことになる。これは則ち仁を求めて仁を得たということだ。然ればその国を捨てることは仕方のないことで、例えば歩いているうちに草鞋が破れたようなものだ。とすれば、何ら怨み悔いることがあるはずがない。今、衛の輒が父を防ぐは、その不孝不仁の罪は明らかである。これにより、孔子が衛の輒を援護しないことが、子貢には明らかにわかったので、冉有にそう伝えたのだ。 15(162) 子曰飯疏食飮水…
○ 【書き下し】子の曰く、疏食を飯い、水を飲み、肘を曲げて之に枕す、楽しみ亦其の中に在り、不義にして富また貴きは、我に於いて浮雲の如し、 【訳】粗末なものを食べ、水を飲み、肘を曲げて枕にして寝る。このような貧窮でも、志を移さなければ楽しみはその中に在る。誰かが不義をして得た富や地位は、私からすれば浮雲を見上げるようなものだ。 【解説】これは貧窮にして楽しむ者のことを述べる。浮雲とは、ただ空を流れているだけで、誰もそんなものを羨ましくは思わない。富や地位に手が届かなくても、それを羨む心を持たないから、そんなものは浮雲を見上げているようなものだ、と言えるのだ。 16(163) 子曰加我數年…
○ 【書き下し】子の曰く、我に数年を加して、五十をして以って易を学べば、以って大いなる過ち無かる可し、 【訳】先生が仰った。私にあと数年を加えた五十歳になったら、易を学びたい、そうすれば、その後は大きな過ちなく過ごせるだろう。 【解説】爲政第二4に「……四十にして惑わず、五十にして天命を知る……」とあるが、天命とは運命のこと、その運命を知る手がかりこそが易なのである。そもそも孔子は、これ以前から易の理論体系自体は理解していたはず。だからこそ五十歳と天命を結び付けたのだ。したがって、ここで云うのは運命学としての易である。筮竹で自分の運命を占い、100%的中させる方法、手段といったことだろう。しかし孔子が書いた易の解説いわゆる『易経』に添えられている「十翼」に、100%的中させる方法は書かれていない。勉強したけど孔子はそこまで到達することはできなかった、ということなのだろう。 17(164) 子所雅言詩書…
○ 【書き下し】子の雅に言う所、詩書執礼、皆雅に言えり、 【訳】先生が常に仰ったるのは、詩と書と礼を執することであり、この三つは常に仰っていた。 【解説】詩(詩経=毛詩)は人情の委曲を尽くす、これを詠ずる者に、その情性の正しいことを教える。書(書経=尚書)は帝王の政事を述べ、これを読む者に、その治道心法を教える。礼は人の執り守るところだから、その意味で執礼と云う。形而上の者を道と謂い、形而下の者を器と謂う、という言葉が易経の繋辞伝というところにあるが、易は形而上の抽象的な理論、それの形而下の具体的な現象として書き綴られたのが詩、書、礼なのである。 18(165) 葉公問孔子於子路…
○ 【書き下し】葉公、孔子を子路に問う、子路は対えなかった。 【訳】葉公が孔子はどのような方ですかと子路に尋ねたが、子路は答えなかった。 【解説】葉公は楚の葉県の尹(知事といったところ)、姓は沈、名は諸梁、楚子が僭して王と称するので臣もまた僭して公と称とした。葉公はそもそも孔子の徳を知らないので、その問うべきところではないとして、子路は答えなかったのだろう。 【書き下し】子の曰く、女、なんぞ曰ざる、其の人と為り、憤りを発して食を忘れ、楽しんで以って憂いを忘れ、老いの將に至らんとすることを知らず、爾か云うと、 【訳】先生が仰った。なんで言わなかったのか。その人となりは、学んで未だ会得できないことに憤りを発しては食事を忘れ、学んで求めるところをすでに得たときはその楽しむ意が深く、憂うことをも忘れ、日々に努めてやまず自分の老いにも気付かないような人だと。 【解説】これは要するに、孔子は学を好むことがとても篤い、と言って欲しかった、ということである。 19(166) 子曰我非生而知之者…
○ 【書き下し】子の曰く、我、生まれながらにして、之を知る者に非ず、古を好んで、敏くして以って之を求めたる者なり、 【訳】先生が仰った。私は生まれながらに、自然にいろいろなことを知ったわけではない。心に古の道を好み、積極的にこれを探求して得たのだ。 【解説】そもそも何事も自然に身につくものはないのだから学ぶのだ、論語の冒頭にも学びて……とあるように。興味を持って積極的に探求して学ぶことが、道を志す者として大事なのだ。 |
最終更新日:令和02年10月21日
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