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漢文として楽しむ論語 雍也第六 1/3

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雍也第六 1/3 2/3 3/3

雍也(ようや)とはこの篇の題名で、冒頭の二文字を取って音読みしたに過ぎない。論語二十篇の第六篇である。ここも前五篇と同じく人を評論する。

1(120) 子曰雍也可使南面…

子曰( しの の玉わく)(ようは)(べし )使(しめつ) 南面( なん めんせ)

【書き下し】子の曰く、雍は南面使めつ可し、

【訳】雍は君主の資質がある。

【解説】雍は孔子の弟子、姓は冉、名は雍、字は仲弓。南面とは、人君政を聞いて下を治めるところ。天地陰陽に従って北に背き、南に向かうので、人君の位置を南面と云う。仲弓資質豊かにして、重々しく、言葉少ないので、人君の位に居るべき者と褒めたのだ。

仲弓(ちゅう きゅう)(とう )子桑( し そう ) 伯子( はく しを )子曰( しの の玉わく)(かなり)(かんなり)

【書き下し】仲弓子桑伯子を問う、子の曰く、可なり簡なり、

【訳】仲弓が子桑伯子に君主の資質があるかを質問した。先生が仰った。なんとか大丈夫だ。細かいことは気にせずおおまかに行う性格だから。

【解説】子桑伯子は魯の人、荘子が云う桑戸なる者で老子の流れとする説もあるが定かではない。仲弓は孔子が自分に君主の資質があるとするのは簡すなわち細かいことは気にせず大まかにものを見るからだと察知し、それなら子桑伯子という者も簡なので、これを挙げてその意を問うたのだ。可とは、僅かによい、合格ラインぎりぎりといったところ。

仲弓曰(ちゅう きゅう いわく)(いて )(けいに)(おこなって)(かんを)(もって ) (のぞむは)其民( その たみに)(ずや )(かなら)乎、(いて )(かんに)(おこなうは )(かんを)(なけんや) (すなわち ) 大簡(だい かんなること)乎、

【書き下し】仲弓曰く、敬に居て簡を行って、以って其の民に臨むは、可ならずや、簡に居て簡を行うは、乃ち大簡なること無けんや、

【訳】仲弓が言った。日常は敬を以って慎んで政を行い、その民に対しては簡すなわち細かいことは気にせず、おおまかに治め臨むということだから、よいということでしょうか。日常も細かいことは気にせずおおまかに政を行い、その民に対しても同様におおまかに治め臨むのであれば、簡に過ぎる大簡で、それはよくないでしょうが。

【解説】仲弓は孔子が可だと云うのを、僅かによいとするだけとは知らず、自分の簡を念頭に、質問した。大簡は、甚だしく簡にして、簡に過ぎること。

子曰( しの の玉わく)(ようが)(こと )(しかり)

【書き下し】子の曰く、雍が言然り、

【訳】先生が仰った。雍=仲弓が言うとおりだ。

【解説】仲弓は可の義を正確には理解していなかったが、その簡を論じるところは適切だったので、孔子は然りとしたのだ。

2(121) 哀公問弟子孰爲好學…

哀公問( あい こう とう )弟子(でし) (たれをか ) (なす )(このむと )(がくを)

【書き下し】哀公問わく、弟子孰をか学を好むと為す、

【訳】哀公が質問した。弟子の中で、誰が学問を好むと言えるのですか。

【解説】哀公は魯国の君主。孔子五十八歳のときに即位。

孔子( こう し )對曰(こたえて の玉わく)( あり)顔回者( がん かいというもの)(このみき)(がくを)()(うつさ)(いかりを)()(ふたたびせ ) (あやまちを)不幸( ふ こう ) 短命(たん めいにして ) (しんぬ)矣、

【書き下し】孔子対えて曰く、顔回という者有り、学を好みき、怒りを遷さず、過ちを弐たびせず、不幸短命にして死んぬ、

【訳】孔子が答えて仰った。顔回という者が居て、彼は心から学を好んだ。どんなときも決して八つ当たりせず、同じ過ちは二度としなかった。だが不幸にも短命で死んだ。

【解説】哀公と会ったのは顔回の死後だった。顔回は三十二歳で亡くなった。不遷怒は、怒るべきことを怒ることはあっても、その怒りを他に移すことがない、要するに八つ当たりをしない、ということ。

(いまは)則亡(すなわち なし )(いまだ/ず)( きか)(このむ)(がくを) (ものを)也、

【書き下し】今は則ち亡し、未だ学を好む者を聞かず、

【訳】今はそんな者はいない。その後はまだ、顔回のように心から学を好む者がいるとは聞いていない。

【解説】顔回の死を惜しむ思いが強く深かったので、このように述べたのだ。

3(122) 子華使於齊…

子華(しか) 使(つかいす)(せいに)冉子( ぜん し ) (ために)其母( その ははの)( こう)(ぞくを)

【書き下し】子華斉に使いす、冉子其の母の為に粟を請う、

【訳】子華が斉へ孔子の使いとして行くことになった。冉子=雍は、その子華の、しばらく家で留守を守る母のために、孔子に米を請い求めた。

【解説】子華は公西赤の字。通常、粟は米のことと解しているが、先史時代の中国では(あわ)を主食としていて、やがて米に代わったとのこと。孔子の時代はまだ(あわ)を主食としている地域もありそうで、だとするとここでいうのは本当に(あわ)だったのかもしれないことを付け加えておく。

子曰( しの の玉わく)(あたえよ) 之釜(これに ふ )( こう)(えきを)(の玉わく)(あたえよ) 之廋(これに ゆ )冉子( ぜん し ) (あたう) 之粟(これに ぞく )(へいを)

【書き下し】子の曰く、之に釜を与えよ、益を請う、曰く、之に廋与えよ、冉子之に粟五秉を与う、

【訳】先生が仰った。これに一ヶ月分の量の米を与えよう。それじゃちょっと少ないのでもう少し。それなら二ヶ月半くらいの量にしよう。冉子はそれでも足りないと思ったが、重ねて増量を願うのもどうかと思い、これとは別に自分の米を、一人十年分相当の量を子華に与えた。

【解説】釜は当時の度量の単位で、一釜は六斗四升。日本の今の八升よりやや少ないという。一人一日に三合弱食べるとして、だいたい一ヶ月の量。廋は十六斗、今の二斗に少し足りないという。秉は百六十斗、五秉束で八百斗だが、今の百斗弱という。一人一日三合だと一年でだいたい十斗だから十年分ということになる。江戸時代ならば使用人が数人の下級役人の年収といったところだ。使いに出すときの報酬は、冉子が出した程度が当時の相場だったのだろう。

子曰( しの の玉わく)(せきが)(ゆきしとき )(せいに)也、(のり )肥馬(こえたる うまに)(きけり )輕裘(かろき かわころもを)

【書き下し】子の曰く、赤が斉に適きしとき、肥えたる馬に乗り、軽ろき裘を衣けり、

【訳】先生が仰った。赤=子華は斉に行くのに、肥えた馬が曳く車で、高貴な軽い皮ごろもを着ていた。かなりの裕福な証拠だ。それなのに、なんで多量の食糧を与える必要があるのか。

【解説】孔子は冉子が米を多く与えたことを謗る。

(われ ) (きけり)(これを)也、君子( くん しは ) (たして )(きゅうなるを ) (ざると)(つが )(とめるを)原思( げん し )(たり )之宰(これが さい )(あたう)之栗(これに ぞく )(   を)(じす )

【書き下し】吾之を聞けり、君子は急なるを周して富めるを継がざると、原思之が宰爲り、之に粟九百を与う、辞す、

【訳】私は以前聞いたことがある。君子は常に公であることを心がけているので、貧しければ生活が成り立つ程度に恵むが、裕福ならば何も恵む必要はない。なんとか食える程度の食料があれば、余った残りは自分の物とはせず、親疎に関わらず、すべて誰かに寄付をするものだ。原思は宰になったとき、粟九百を与えようとしたが、辞したものだ。

【解説】急は貧しく生活が苦しいこと。原思は孔子の弟子、姓は原、名は憲、字は子思。孔子が魯の司寇だったときに、原思がその宰臣だった。九百は宰臣の俸禄、ただし単位の記載がないので、その量は不明。原思にとってはこの禄が必要最低限以上だったので、これを辞したのだ。

子曰( しの の玉わく)(なかれ)(もって ) (あたえよ) (なんじの) 鄰里( りん り ) 郷黨(きょう とうに)乎、

【書き下し】子の曰く、毋れ、以って爾の隣里郷党に与えよ、

【訳】先生が仰った。だとしても、今回は辞することはない。家の近隣の貧窮している人たちに与え恵むのがよい。

【解説】毋は母という字ではない。漢文によく出て来る否定の意の字。隣は五家の集落、五隣を里とし、二十里を党とし、一万二千五百家を郷とする。一人で十年分の食糧は十人の一年分、百二十人の一ヶ月分、三百六十人の十日分、三千六百人の一日分になるわけだが、適当に案配して近隣の貧しい人々に分け与えよ、ということ。

4(123) 子謂仲弓曰…

() (いって)仲弓(ちゅう きゅうを) (の玉わく)犂牛( り ぎゅうの)()(あかくして ) (また ) (つのあり)(いうとも) (ほっすと) (なからまく) (もちいること)山川( さん せん ) (それ ) 舎諸(すてしめや  )

【書き下し】子、仲弓を謂って曰く、犂牛之子、騂くして且た角あり、用いること勿らまくも欲すと雖も、山川其れ舎てしめや、

【訳】先生が弟子の仲弓について仰った。黄黒色の斑模様の牛から生まれた子でも、赤くて角がきちんとあれば何ら問題はない。仮に、その親牛が悪いからと、祭祀の牲として用いるに適さないと考える人がいたとしても、山川の神は必ずその祭を受けて捨てないものだ。

【解説】謂とは評論するといった意。仲弓の父は賤しく行いが悪く、これを仲弓の問題だとする声に対しての孔子の反論。犂牛とは黄黒色の混ざった斑模様の牛。一方、祭祀の牲には、赤色の牛が尚ばれた。騂はその赤色の牛のこと。角ありとは、角が欠けた部分がなく、完全な形であることをいう。したがって、騂牛で角がきちんとあるのは最高の牲なのである。

5(124) 子曰回也…

子曰(しの の玉わく)(かいは)也、其心(その こころ) 三月( み つき ) ()(たがわ)(じんに)其餘(その よは ) (すなわち) 日月( ひ づきに ) (いたれる)焉而(のみ )矣、

【書き下し】子の曰く、回は其の心三月仁に違わず、其の余は則ち日月に至れるのみ、

【訳】先生が仰った。回は長期間継続してその心が仁に居るが、他の弟子はたまに仁の境界に至るだけで、至ってもすぐに去り、長期間仁に居ることはなかった。

【解説】三月は三ヶ月だけということではなく、長期間という意。仁は人の心の全徳。不違仁は、その心が仁と一体になり、相離れないこと。顔回の徳は純粋にして、聖人に近い。よってその心は常に仁に違わず、三月ほどの間には、一たび躓いて僅かに違うことがあったとしても、すぐに仁に返り、また相違わなかった。其の余とは顔回以外の弟子を指す。日月至とは、或いは日に一度、或いは月に一度、仁の境界に至るけど、その至る時は定まらず、また、至ってもすぐに去り、長く仁に居ることがなかった、ということ。そもそも仁は、人心自然の生まれ持った徳にして、心と一体なのである。しかし心に私欲が生じると、これに遮られ、仁と相離れてしまう。

6(125) 季康子問仲由可使從政與…

季康子問( き こう しが とう )仲由(ちゅう ゆうは ) (べけんや )使(しめつ )(したがわ )政也(まつりごとに )與、子曰( しの の玉わく)(ゆうは)(かなり)(おいて )(したがうに )政乎(まつりごとに ) 何有(なんか あらん)

【書き下し】季康子が問う、仲由は政に従わ使めつ可けんや、子の曰く、由は果なり、政に従うに於いて何んか有らん、

【訳】季康子が質問した。仲由を大夫として政事に就かせてよいだろうか。先生が仰った。仲由は思い切りがよい。政事に就かせて何も問題はない。

【解説】従政は、大夫として政事に就かせること。果は果断すなわち思い切りがよいこと。何有は、何も問題はないという意。

(いわく)(しは )(べけんや )使(しめつ )(したがわ )政也(まつりごとに )與、(の玉わく)(しは )(たつなり)(おいて )(したがうに )政乎(まつりごとに ) 何有(なんか あらん)

【書き下し】曰く、賜は政に従わ使めつ可けんや、曰く、賜は達なり、政に従うに於いて何んか有らん、

【訳】さらに季康子が言った。賜は政事に就かせてよいだろうか。先生が仰った。賜は事理に通達している。政事に就かせて何の問題もない。

【解説】達とは事理に通達して智が敏いこと。

(いわく)(きゅうは)(べけんや )使(しめつ )(したがわ )政也(まつりごとに )與、(の玉わく)(きゅうは)(げいなり)(おいて )(したがうに )政乎(まつりごとに ) 何有(なんか あらん)

【書き下し】求は政に従わ使めつ可けんや、曰く、求は芸あり、於y從y政乎何有、

【訳】さらに季康子が言った。求は政事に就かせてよいだろうか。先生が仰った。求は多才だ。政事に就かせて何の問題もない。

【解説】芸とは才能が多いことをいう。およそ人毎に、その長所を取るのが、人を用いる基本である。このようにその人の長所を見つけて、その長所を活かせるのであれば、この三子のみに限らず、誰でも用いてよい。

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最終更新日:令和02年10月21日 学易有丘会
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