漢文として楽しむ論語 論語序説 4/4
論語トップページ 論語序説(朱子による孔子の略歴) 學而第一 爲政第二 八佾第三 里仁第四 公冶長第五 雍也第六 述而第七 泰伯第八 子罕第九 郷黨第十 先進第十一 顔淵第十二 子路第十三 憲問第十四 衞靈公第十五 季氏第十六 陽貨第十七 微子第十八 子張第十九 堯曰第二十
前ページ・論語序説3/4 論語の本を探してみる
論語序説
1/4 2/4 3/4 4/4
|
弟子蓋三千焉、身通六藝者七十二人、
十四年庚申、魯西狩獲麟、孔子作春秋、
明年辛酉、子路死於衞、
【書き下し】
弟子蓋し三千、身六芸に通ずる者七十二人、
十四年庚申、魯の西の方にて狩して麟を獲る、
孔子春秋を作る、
明年辛酉、子路衛に死す、
【解説】
孔子の弟子はおよそ三千人いた。
しかし、六芸を修めた者は七十二人のみだった。
六芸は六経すなわち詩、書、春秋、礼、易、楽のこと。
その弟子の中では顔回が最も賢かったが短命にして死んだ。
その後に孔子の道を正しく伝えられるだけの学識があったのは、曽参ただひとりだった。
哀公十四年の春、魯国の西に狩りをして、叔孫の家来のひとりが異獣を捕らえて殺した。
初めて見る獣で不吉なことだと思っていたところ、孔子が見て、これは麟だと言った。
麟が現れることは聖王が世に出現する瑞応のはずだが、こんな世の中に現れ、人間に捕らえられ、誰も見知る者がいなかったことを、孔子は我が身に擬えて悲しみ、自分もこの麟のように誰にも知られていないのか、「我を知る者は、それ天か」と嘆いた。
春秋はもともと魯の史官が世事を記した書である。
孔子は帝王の道を抱き、大いに世に行い民を救おうとして、天下を周り巡ったが、用いる君がなく、衛より魯に帰って経典を正し、その教えを後世に伝えようとした。
しかし麟が出現して捕らえられ殺されたことに時ならざるを感じ、いよいよ正道が廃れゆくことを嘆いた。
そこで魯の歴史書を筆削し、天子の賞罰を明らかにして、世の為政者が普遍的に守るべきことを列挙した。
故にこの歴史書は魯の隠公の世に平王が東遷して周の道が衰えた時に始まり、哀公十四年の獲麟の一句で終わる。
この頃の衛ではお家騒動真っ盛りで、世子蒯聵が国の執政孔悝を捕らえて、自分を君主として立てることを誓わせようとした。
孔悝の邑の宰だった子路はこれを聞いて駆け付け、孔悝を救おうとして討たれた。
|
十六年壬戌四月己丑孔子卒、年七十三、
葬魯城北泗上、
弟子皆服心喪三年而去、
【書き下し】
十六年壬戌四月己丑、孔子卒っす、年七十三、
魯の城北の泗上に葬る、
弟子皆心喪を服すること三年にして去る、
【解説】
暦法によって考えると、この月には乙丑はあるが己丑はない。
乙と己と字が似ていて誤ったのではないかとも思える。
今、諸書を以って考えるに、孔子が死んだのは周の敬王四十一年、魯の哀公十六年癸戌の歳、周の正四月、夏の正二月癸卯、十八日乙丑とするのが適切である。
この年は日本の懿徳天皇三十二年(皇紀182年=西暦紀元前479年)に当たる。
泗上とは泗水という川のほとり。
その墓の林は、後に聖林と名付けられ、また孔林とも称された。
心喪とは心の痛みをなすこと。
心喪に服すとは、要するに喪に服すこと。
孔子の喪には、諸弟子皆、父の喪の如くに捉え、当時の礼制を考えて三年服して後、家に帰った。
|
唯子貢廬於冡上凡六年、
孔子生鯉字伯魚、先卒、
伯魚生伋、字子思、作中庸、
【書き下し】
唯子貢のみ冡上に廬すること凡て六年、
孔子鯉を生む伯魚と字す、先ず卒す、
伯魚伋を生む。子思と字す、中庸を作る、
【解説】
冡上は塚のほとり。
子貢は三年の喪が終わってもなお師を慕う心を忘れ難く、さらに三年心喪して冡上に廬をむすび居り、すべて六年に及んだ。諸弟子が三年の喪を終わって帰るときに、みな子貢に別れを告げて、泣き尽くし、声を失って後に分散した。
その後、弟子や国人が孔子の徳を慕って墓のほとりに住む者が百余家となり、ひとつの里をなした。これを名付けて孔里という。
孔子には鯉という子供が生まれたが、孔子より先に死んだ。
孔子が没したとき、子思は年三十ばかりとのこと。
|
何氏曰、魯論語二十篇、
齊論語別有問王知道凡二十二篇、其二十篇中、章句頗多於魯論、
【書き下し】
何氏曰く、
魯の論語二十篇、
斉の論語別に問王知道有りて凡て二十二篇、其の二十篇の中、章句頗る魯の論よりも多し、
【解説】
何氏は、名は晏、字は平叔、三国魏の人。論語集解を作った人物。
魯の論語は魯人の伝えるところである。その二十篇の次第は今世に行われる論語と同じ。
斉の論語は斉人の伝えるところであり、二十篇のほかに問王と知道の二篇が多い。
その二十篇の題目次第は、魯論とほぼ同じ。頗るとは余程といった意。
|
古論出孔氏壁中、分堯曰下章子張問、以爲一篇、有両子張、凡二十一篇、篇次不與齊魯論同、
【書き下し】
古論は孔氏の壁中より出ず、堯曰の下の章子張問とを分かちて、以って一篇と為す、両つの子張有り、凡て二十一篇、篇次斉魯の論と同じからず、
【解説】
古論は古文字の論語のこと。
孔氏とは孔家というが如く孔子の子孫のこと。
秦の始皇帝が経書を焼いた時に、孔子の子孫は尚書、孝経、論語を、孔子の旧宅の壁中に塗り込めて隠したのだが、漢の世に発見された。
これが古文の尚書孝経論語である。
前漢の安昌侯張禹が魯論に従い、斉論を合考して二十篇の定本とし、後漢の鄭玄がこれに斉論古論を参考に注釈を加えたのが、今の論語である。
|
程子曰、論語之書、成於有子曾子之門人、故其書獨二子以子稱、
【書き下し】
程子の曰く、論語の書は、有子曽子の門人になる、故に其の書ただ二子のみ子を以って称す、
【解説】
程子は北宋時代の学者、程頤(ていい)のこと。
兄の程(ていこう)とあわせて二程子と呼ばれる。朱子学の源流のひとり。
程子のこの語は唐の柳子厚の説より出ている。
また南宋の亀山の楊氏が考えるに、この書の初めに孔子の語を記し、次に有子曽子の語を残したのは、その師を尊ぶことが孔子に次いでいるからだと。
しかし閔損、冉求を、或いは閔子、冉子と称することもある。
これは各その門人の記せるを取って、そのまま改めなかったということか。
|
程子曰、讀論語、有讀了全然無事者、
【書き下し】
程子の曰く、論語を読み、読み了わりて全然無事なる者有り、
【解説】
この書を読み終わって、まったく何事もない者は、それは真意がわからないのだ。
有讀了後、其中得一両句喜者、
【書き下し】読み了わりて後、其の中に一つ両つの句を喜ぶ者有り、
【解説】
これは少しその意味を理解する者である。
|
有讀了後、知好之者、
【書き下し】
読み了わりて後、これを好むことを知る者有り、
【解説】
その意味を知って喜ぶことが深ければ、これを好んで捨てないのだ。
有讀了後、直有不知手之舞之、足之蹈之者、
【書き下し】
読み了わりて後、直に手の之を舞い、足の之を蹈むことを知らざること有る者有り、
【解説】
楽しんで舞う者はその身を心のままに手をあげて身体を回し、足を上げて地を踏むことを、習い覚えなくてもやってしまうことに擬えて、この書を読む者の喜びが内に余って楽しみが外に現れることを述べている。
一両句を得て喜ぶのは、徳に進み入るはじめであって、これによって功を積む時は喜んで好み、好んで楽しむに至るのである。
|
程子曰、今人不會讀書、
如讀論語、未讀時是此等人、讀了後又只是此等人、便是不曾讀、
【書き下し】
程子の曰く、今の人書を読むことを会せず、
論語を読むが如き、未だ読まざる時是此等の人、読み了わりて後只是此等の人、便ち是かつて読まず、
【解説】
不会とは、心得ないという意。
今の人は書を読んでも、自分に役立てようとはするが、その書の役に立つように読むことを会得していない、ということ。
およそ聖賢の書を読むことは、義理を心に得て、自身の考え方を変化させるためである。
中でも論語は道を学ぶのに最適な書である。
未だ読まざる時は此等の人=見倣うべきところが特にない普通の人だとして、すでに読み了わりて後も此等の人のままであるのなら、未だかつて読まざるのと同じである。
|
程子曰、頤自十七八讀論語、當時已曉文義、讀之愈久但覺意味深長、
【書き下し】
程子の曰く、頤十七八自り論語を読む、当時已に文義を暁る、之を読むこと愈久しくして但意味深長なることを覚ゆ、
【解説】
頤は程子の名。
頤は十七八歳より論語を読み、その文義も理解した。
その後、何度も読み返しているうちに、だんだんと深い意味を読み取れるようになった。
これで論語序説は終わります。
それでは本編へどうぞ。
|
|
前・論語序説3/4 ページTOP 次・学而第一1
|