危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 第十章
第九章 古代女帝政権の終焉
1、武力衝突を繰り返す二王朝 2、継体女帝殺害と崇峻男帝殺害 3、聖徳太子の本当の姿 4、大化の改新の真相 5、女帝政権の崩壊 6、壬申の乱=最後の悪あがき
このページは動画「危険な古代史〜古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け2」を文章化したものである。
現代人にはあまり馴染のない易の理論との関係がメインなので、文章だけでは伝え難い面もあり、動画にしたのだが、動画だけでは伝え難い面もあるので、動画では端折った部分も加えて、ここに文章化したものである。
1、武力衝突を繰り返す二王朝
前章では、皇紀1226年丙戌=西暦566年、雄略(武烈)男帝崩により、崇峻男帝が革命軍を引き継いだ、というところまでをお話しした。
この章では、その後を最後までお話しする。
まずは、暗号解読によって得られた歴史を整理して編年体でお話しし、その後に解読方法をお話しする。
皇紀1251年辛亥=西暦591年
仁をもって誠意を尽くし、母系母権制社会と食人による蘇りがいかに愚かしいことかと説得しても、女帝側は聞く耳持たずで、どうにもならなかった。
そんな状況から両者はしばしば武力衝突を繰り返したのだが、そのクライマックスがこの年だった。
まずは崇峻男帝が継体女帝とその次女の用明皇女を殺害した。
これにより女帝側は継体女帝の長女の欽明女帝が後を継ぎ、同年8月、今度は欽明女帝の軍が崇峻男帝を殺害した。
男帝革命軍は、崇峻男帝の息子の敏達男帝が後を継いだ。
報復合戦とでも言うべきか、血で血を洗う凄まじさだが、この頃になると、革命軍に共鳴する人々もかなり増え、どうやら女帝側よりも優位になってきた模様。
やがて敏達男帝は、自分たちが優位になってきた余裕からか、女帝側との和睦を考え、
自分と欽明女帝や妹の推古(継体女帝の三女)とで肉体関係を持つことを求め、女帝側もこれに応じた。
その結果として、欽明との間に女の子、推古との間に男の子が生まれた。
その推古との間に生まれた男の子が聖徳太子だった。
しかし、いわゆる夫婦というわけではなく、欽明も推古もこれまでの女帝たちと同様に相変わらず父親不明の子も何人か儲けていた。
なお、この時代には大陸から仏教が伝来した。
その仏教の伝来も食人による蘇りの信憑性を疑問視する人々を増やし、女帝側の力を弱める要因になった模様。
皇紀1263年癸亥=西暦603年
欽明女帝崩。
慣例では末女が皇位継承するところだが、異例にも三女の推古女帝が皇位に就いた。
推古女帝は敏達男帝と肉体関係を持ち、聖徳太子を生んだ人物だということから、男帝側が、双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、神武以来分裂していた国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側は飲まざるを得なかった、ということのようだ。
皇紀1282年壬午=西暦622年
敏達男帝崩。
息子の聖徳太子が革命軍の長となる。
しかし日本の正式な王権は推古女帝にあり、聖徳太子はあくまでも革命軍のトップに過ぎなかった。
皇紀1296年丙申=西暦636年
推古女帝崩。
ついに聖徳太子が統一王朝として即位、と言いたいところだが、そう簡単に事は運ばなかった。
妹の皇極女帝が皇位を継承してしまったのだ。
推古女帝は統一王朝を望んだのではなく、そろそろ妹に皇位を譲り、自分は新しい肉体を得るために自殺しただけだった。
女帝側の理屈で言えば、蘇りを繰り返すことで永遠に死なないわけで、妹の皇極女帝は推古女帝の祖母・安閑女帝の蘇りなのだから、聖徳太子よりも皇位継承の順が優先なのは当然のこと。
としても、聖徳太子もなんとか女帝側を納得させ、男帝側が王となることを考えたようだ。
その聖徳太子は、すでに女帝側と男帝側との繋がりをさらに深めるためにと、欽明女帝の娘との間に三人の男の子を儲けていた。
長男は、なんと、表向きの中臣鎌子=藤原鎌足、次男は中大兄皇子=後の天智天皇、三男は大海人皇子=後の天武天皇だった。
皇紀1303年癸卯=西暦643年
男帝側の政権奪取に向けた不穏な気配を察したのか、皇極女帝により聖徳太子が殺害された。
これで女帝側は、女帝の血を引く人物を王としても、男帝革命軍の論理で国が統一されることを歓迎していないことがはっきりした。
そこで革命軍は、武力で決着をつけるしかないと考え、甘く見ていた女帝側は、滅亡へと追い込まれることになった。
この頃になると、世間の多くは、最早母系母権制社会や食人による蘇りから離れてしまっていたのだった。
聖徳太子亡き後は、まず長男の鎌足が革命軍を引き継いだ。
なお鎌足は、すでに皇極女帝との間に二人の娘を儲けていて、その二人の娘は鎌足の弟の中大兄皇子と肉体関係を結び、うちひとりは、後の持統天皇を生んだ。
皇紀1305年乙巳=西暦645年6月12日
聖徳太子が殺害されたことで、鎌足、中大兄、大海人の三兄弟は、女帝側との和睦を断念し、武力行使に舵を切り、この日、皇極女帝を殺害した。
さらに9月12日には、中大兄皇子が、殺害された母の魂を蘇らせるための儀式に臨む皇極女帝の末娘も殺害。
一方鎌足は、皇極女帝殺害後、東国各地を男帝側に服従させるための旅に出た。
関東〜東北まで、多くの地域では目的を達成したが、信濃地方では強く抵抗され、11月に、無念にも鎌足は諏訪で戦死してしまった。
としても反撃はそれまでで、次男の中大兄皇子が革命軍を率いて対峙すると、皇極女帝の魂を蘇らせることが最早不可能になったこともあり、女帝側は急速に力を失い、内部崩壊を起こし始めた。
これで女帝側の直系の皇位継承者はいなくなり、しばらく男帝女帝が並立していた日本の王権は男帝に一本化され、念願の母系母権制社会とその忌まわしい風習脱却はほぼ達成された。
これが大化の改新の本当の姿であって、表向きの蘇我入鹿を殺害し、蝦夷を自害に追い込んだとする物語は、皇極女帝殺害を教える暗号だった。
なお、鎌足が戦死した諏訪には諏訪大社という大きな神社があるが、その御祭神の建御名方神は、鎌足が諏訪で戦死したことを教える暗号だった。
とにかくこれで、ついに男帝革命軍が日本を代表する政府となったので、ここからは表向きと同様に天皇と呼ぶことにする。
ただしまだ抵抗する女性もいくらか残っていた。
皇紀1321年辛酉=西暦661年6月
欽明女帝の蘇りとなる孫娘が、もう一度母系母権制社会を復活させようと、倭(畿内)を捨てて九州に逃げた。
しかし不穏な動きに天智天皇はすぐさま後を追い、その孫娘を殺害し、クーデターを未然に防ぎ、事なきを得た。
皇紀1322年壬戌=西暦662年
第四章の4でお話ししたように、当時天武妃だった後の持統天皇が、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生んだ。
なお持統は、草壁皇子のほかに、多臣品治との間に太安萬侶、天武天皇との間に皇女の稗田阿礼を生んだ。
この時代の妃はいわゆる妻ということではなく、言うなれば仕事上の秘書といった位置づけで、生まれて来る子の父親が特定できるのなら、いろんな男性と遊ぶことに何ら問題はなかったようだ。
皇紀1325年乙丑=西暦665年
天智天皇崩、弟の天武天皇が皇位継承。
表向きでの天智天皇は皇紀1321年=西暦661年の斉明天皇崩御の後、しばらく即位せずに政事を行い、天智7年=皇紀1328年=西暦668年に即位、その4年後の天智十年崩としているわけだが、これは大化の改新と壬申の乱の真実を隠すためのことで、実際は大化の改新で長男の鎌足が戦死したことによって即位し、表向きの即位年にはすでに崩御していたのだった。
ちなみに天智天皇の幼名の中大兄皇子は、長男ではなく次男で三人兄弟の真ん中という意だった。
国風諡号の天命開別は、天命は易では☰乾(天)を父、☷坤(地)を母とするので、父の命すなわち男性の運命がついに開かれた、という母系母権制社会打倒を果たした感慨を込めたものだった。
皇紀1326年丙寅=西暦666年
推古女帝の蘇りとなる孫娘の大友皇女=表向きの大友皇子が、母系母権制社会復活を賭けて近江大津に兵力を結集する。
皇紀1332年壬申=西暦672年6月・表向きの天武元年
天武天皇はしばらく近江の様子を静観し、できることなら武力を行使せずに母系母権制社会復活を諦めさせようと考えていたが、いつまで経っても服従する様子がなかったので、仕方なく一戦交えることにした。
死力を振り絞って応戦する相手に、いささか苦戦を強いられた場面もあったが、最後には大友皇女を殺害し、無事に鎮圧した。
これがいわゆる「壬申の乱」の真相で、これにより継体女帝の娘の欽明女帝、推古女帝、皇極女帝の血を引く者のうち、男帝革命軍に服従しなかった女性はすべていなくなり、日本は男性が女性と対等になれる父権制社会として、新たに出発することになった。
しかし一旦ヤタが垂れた「仁」を知り、人の死を冷静に受け止めるようになると、食人による蘇りを信じていた母系母権制社会の時代を畜生同然と恥じ、これを歴史上から抹殺しようと多くの人々が考えるようになり、第三章、第四章でお話ししたように、歴史は動いた。
では次に、暗号解読法を順にお話しする。
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