危険な古代史
古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け
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第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第八章 第九章 第十章
第七章 大神神社の秘密〜すべてはヤタから始まった!
1、母系母権制社会脱却に失敗 2、ヤタの改革と女帝の系図を教える暗号 3、ヤタという名前 4、日本最古の年代特定できる年 5、景行〜履中女帝までの年代
このページは動画「危険な古代史〜古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け2」を文章化したものである。
現代人にはあまり馴染のない易の理論との関係がメインなので、文章だけでは伝え難い面もあり、動画にしたのだが、動画だけでは伝え難い面もあるので、動画では端折った部分も加えて、ここに文章化したものである。
1、母系母権制社会脱却に失敗
これまでの暗号解読によると、古代日本は食人による蘇りで永遠の生命を得られると信じる女帝たちが、神懸りでお告げを下して世の中を治めていたということだが、
どうやってそんな悍ましい鬼畜な世界から脱却したのかが気になるところだ。
ここではその最初の試みについてお話しする。
ただし暗号の場所や解読方法についてを逐一説明しながらだと煩雑なので、それは後回しにして、まずは解読の結果得られたことを整理してまとめておく。
〇 ヤタによる宗教改革
女帝たちが食人による蘇りを当然のこととして実行していた世の中で、ある時、とんでもないことを言い出した人物が出て来た。
崇神女帝の息子のヤタという人物で、表向きの垂仁天皇のことである。
何がきっかけかはわからないが、そのヤタは、次のように考えた。
蘇りなんかウソだ、神懸りも神のお告げも妄想に過ぎない、ということに気づき、神の掟やお告げに縛られるのではなく、大自然の営みに倣い、人の情を最優先に。思いやりを以って社会を治めるべきではないか、思いやりがあれば年老いて醜くなっても嘲笑されることはなく、死んでも折に触れて思い出され、永遠に人々の心の中に生き続けるから、冷静に死を詩として受け入れるべきだ。
やがてヤタは、この考えを母親の崇神女帝に提言した。
漢語で言えば垂仁すなわち「仁を垂れた」ということで、まだ論語などが伝わる前だった。
ヤタは母親の信頼が厚かったのか、崇神女帝はこのヤタの話に説得され、蘇りを止め、冷静に自然な死を受け入れる決心をした。
それと同時にヤタは、父親を特定することも考え、崇神女帝の姪、自分の従妹にあたる女性に、暫く自分以外の男性と夜を共にしないように頼んた。
子というものは、自殺した母の肉を食べ、血を飲んでも、その母の魂の蘇りではなく、母親と父親の血=遺伝子を受け継いだ子が生まれるのだと証明し、男と女が対等な世の中にしたかったのだろう。
ヤタが思いやりのある優しい男性だったからか、従妹はヤタの願いを聞き入れて他の男から遠ざかり、その結果、やがてヤタを父親とする女の子が生まれました。
その女の子こそ、日本初の父親を特定できる人物だった。
そうこうしているうちに時は経ち、蘇りのための自殺を行わなかった崇神女帝は、目が微かにしか見えない老女となり、ついに、ヤタに後を託して自然死を迎えた。
皇紀907年丁卯歳=西暦247年のことで、これが日本で最も古い、年を確定できる出来事だった。
これ以前は、代々蘇りをする女帝たちが支配していた、ということしか伝わっていなかったのだ。
したがって崇神女帝こそが、日本で一番古い個人を特定できる人物だったのであって、このことを教えるために表向きの歴史では、10崇神天皇を「初国知らしし天皇」としたのだった。
崇神という漢風諡号は、神を崇め祭るという意だが、これは崇神女帝が、息子ヤタの言うとおりに、神懸りを止め、神をただ崇め祭るだけの存在としたと共に、崩御した崇神女帝のことを忘れず、子孫の心の中に永遠に生き続けさせるために、崇め祭る存在の神とした、ということである。
その崇神女帝が崩御すると、ヤタが日本初の男性の王として即位し、神懸りではなく、仁を垂れて、理性に基づく思いやりを大切する社会にしようとした。
だから表向きの漢風諡号は垂仁とされたのだ。
しかし男性が王であること、神懸りを行わないこと、蘇りを否定されたことなどから、ヤタを王とて認めない人々も少なくなく、国中が大混乱になった。
その結果、足かけ5年後の皇紀911年辛未歳=西暦251年、ヤタは何者かに殺害されてしまった。
この混乱を止めるために、崇神女帝の母親の蘇りで、ヤタの子を産んだヤタの従妹が、昔ながらの神懸りと蘇りを復活させるということで女帝として即位し、その結果、漸く混乱は治まった。
再び神懸りを行い、神のお告げに応じる世の中に戻したので、この女帝の表向きの存在である14応神天皇の漢風諡号は、「神に応じる」という意味になる応神とされたのである。
崇神女帝が崩御した皇紀907年=西暦247年頃のことを中国側資料から探ると、丁度、魏志倭人伝の卑弥呼の時代に当たる。
卑弥呼の次に男王が立つと国中が混乱し、卑弥呼の宗女壱与が即位すると国が治まった、というところだ。
まるで、卑弥呼が崇神女帝、次の男王がヤタ=垂仁男帝、宗女壱与が応神女帝であるかのようではないか。
ただし魏志倭人伝では、日本が母系母権制社会であるとは書いてないし、日本も中国と同じような父系父権制社会で、たまたまその頃だけ女王が治めていた、といったふうに書いているので、全面的にその記述を信用することはできないが…。
〇 大神神社と神道の始まり
ところで、垂仁の仁ということから考えると、このヤタが神懸りではなく、神を崇め祭る存在として思いついたのが、山を神として祭ることだったようである。
神とは、それまでは食人で蘇ることで永遠に生き続け、お告げを下す女帝たち自身だったわけだが、同様に永遠な存在を身の回りから探したのだろう。
その結果気づいたのが山や森だった、ということではないだろうか。
山は不動にして昔からその場所にあり、今後も同じようにそこにあり続けるだろうし、森には樹齢百年を超える木々が生い茂っている。
また、川は常に海に向かって流れ続け、太陽、月、星も、毎日毎晩、決まった法則に従って現れることを永遠に繰り返している。
その永遠の中で、虫や鳥、動物は生まれ、そして死ぬことをくり返し、何も変化しない。
人もそんな永遠の中で、鳥や動物のように素直に死を受け入れ、大自然の様子に倣って社会も治めるべきだ、と考えたのだろう。
そしてヤタがこの考えを思いついた場所が、たまたま三輪山の麓、今の大神神社付近だったのだ。
女帝たちは単なる神、大自然の営みと比較すれば、とても小さな存在に過ぎない。
だから大自然を偉大な神とし、今の三輪山をその代表として、女帝たちより偉大だという思いを込めて大神とした、ということである。
まだ神社や神道という言葉はなかった時代、もちろん定まった祭式も何もなかったわけだが、これが神社神道の始まりだったのだ。
だから神道には、神のお告げによる教義といったものがないのだ。
言うなれば大自然の営みに倣う、ということが教義になるのかもしれないが、とにかく神のお告げから社会を切り離すのが、神道だったのだ。
しかし神のお告げから人々を完全に切り離すのは至難の業で、害がない程度のお告げは黙認したほうがよいとの判断から、古事記日本書紀の神話ができたのだろう。
乱数表(易の理論)
ヤタの表向きの存在の11垂仁天皇のA列は14䷍火天大有で、この卦は☰乾(天)の上に☲離(火)がある形だが、同時に☰乾(天)は円すなわち輪、☲離(火)は数の三を意味するので、三輪という文字列とも繋がる。
したがって古事記日本書紀編纂時に、11垂仁天皇をA列が14䷍火天大有の位置と決めたことが、大神神社という名称を生んだのであって、ヤタが考えを巡らしつつ眺めた山を三輪山と呼び、大神と書いて「おおみわ」と読むことにし、古事記の表面上では、10崇神天皇が夢のお告げにより、疫病退散のため意富多多泥古に命じて、三諸山=三輪山の麓で意富美和大神を祭らせた、というヤタとは無関係の物語を創作し、こっそり偉大なヤタを称えた、ということだったのである。
しかしそんな素晴らしいヤタの考えも、当時としてはあまりに進歩的過ぎて賛同者はごく限られ、大多数からは非難され、結局ヤタは何者かに殺されてしまった。
するとヤタを父とする子を産んだ従妹の応神女帝が代わりに即位し、仕方なく昔ながらの神懸りによる神のお告げで世の中を動かすようにした。
その結果、漸く混乱は治まり、元とおり平和になった、ということである。
その後、応神女帝は、慣例どおり年老いて醜くなる前に、掟に従って昔ながらの蘇りのための自殺をし、ヤタの血を引いていたとしても、末娘が母の肉を食べ、血を飲み、手あたり次第に男性と夜を共にし、やがて女の子が生まれると、その子を母の蘇りだとした。
ただし、一旦ヤタにかき乱されてしまった掟を立て直すためには、そのまま昔のように蘇りを復活さるだけでは足りず、新たな権威の象徴が必要だっただろうことは、容易に推測できる。
この辺は暗号が不鮮明で断定はできないのだが、おそらくその新たな権威の象徴が各地にある大小様々な前方後円墳だったのであって、ヤタが大自然の山を神としたことに対抗し、中央政府の女帝だけではな、各地の豪族の長たる女性たちも、食人による蘇りでそれぞれの地域の神となる象徴とて、人工的な山を造り、そこに魂が抜けた遺体を葬るようになった、ということのようである。
このように、仁が否定され、神懸りと蘇りが復活したからと言って、ヤタの賛同者が全くいなくなったわけではなかった。
中央が無理なら地方でと、密かにヤタの考えに基づく宗教改革の拠点が作られたようである。
その拠点が後に出雲大社や八幡神社となったのだ。
八幡神社の祭神は応神天皇だが、暗号ではヤタの同志として、ヤタを父親と確定できる子を産んだ応神女帝のことである。
応神女帝はヤタが殺害された後、国中の混乱を治めるために、神懸りや蘇りを虚構だとわかっていても、仕方なく復活させたわけだが、いつかヤタの改革を実現してほしい、と、同志に託したのだろう。
ヤタのヤの音を伸ばしてヤータ→ヤハタとし、八幡の字を当てて音読みすれば「はちまん」になるではないか。
ヤタという音を持つ言葉は、他にも三種の神器のひとつ八咫鏡、神武天皇の道案内をした八咫烏があるが、これらもヤタの目指した社会を実現する、という意味を込めつつ、歴史の真実を表面上からは読み取れないようにするために、古事記日本書紀編纂に際して作られたものだったのだ。
〇 ヤタ殺害以降の歴史年代
さて、垂仁男帝殺害以降の年代にも少し触れておく。
応神女帝はヤタ=垂仁男帝が何者かに殺害された後、約23年間在位し、皇紀934年甲午歳=西暦274年に、掟にしたがって蘇りのために自殺した。
暗号が示す皇統譜では、応神女帝に続く景行女帝の位置は、複数を一人にまとめたわけだが、解読の結果その数は七人であって、仮にA〜Gと呼び、それぞれの親子姉妹関係と蘇りの自殺年である崩年を履中女帝の前の成務女帝までまとめると左図のようになる。
景行女帝としてまとめられた七人は、表向きの継体天皇の出自記事「応神五世の孫、母の振媛は垂仁七世の孫」と、景行天皇の妃や子の名前から、このように四世代で七人となる系図が導き出され、蘇りのための自殺年は、日本書紀の景行天皇の記事のうちの、年が不連続となる計七ヶ所の干支から割り出された。
景行の最後、景行G女帝から続くのは、景行Gの娘の仁徳女帝で、さらに、仁徳の妹の仁賢女帝、仁賢の娘の顕宗女帝、顕宗の娘の成務女帝、成務の妹の履中女帝と続き、それぞれの蘇りのための自殺年=崩年は左図に示したとおりである。
この崩年の数字は、崇神、垂仁、応神と同様に、古事記の崩年干支や日本書紀にある数字や干支の矛盾から導き出されたものである。
特筆すべきは仁徳女帝から履中女帝までが、宋書倭国伝にある、いわゆる倭の五王の讃、珍、済、興、武と、親子関係、時代が完全に一致するのだ。
ただし宋書では、日本が母系母権制社会で、この五王が女性だとは書いていない。
中国からしてみれば、蛮夷の島国がどんな社会であれ、相応の貢ぎ物さえ出せば、強大な中国がバックにいるとする称号を与えるのは、吝かではなかったのだろう。
女帝たちは、ヤタの理念に基づく社会を造ろうと画策する勢力が徐々に増えつつあるのを警戒して、中国からの称号で箔をつけたかったのだろうが、やがて履中女帝のときに神武男帝が分裂し、以後二王朝が並立するようになる……。
が、それはそれとして、そろそろこれまでのところの暗号解読に話を移そう。
なお、解読のプロセスはどうでもいいから、解読して得た歴史だけを知りたい、という場合は、第八章の1に飛んでください。
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