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漢文として楽しむ論語 公冶長第五 3/4トップページ 論語序説(朱子による孔子の略歴) 學而第一 爲政第二 八佾第三 里仁第四 公冶長第五 雍也第六 述而第七 泰伯第八 子罕第九 郷黨第十 先進第十一 顔淵第十二 子路第十三 憲問第十四 衞靈公第十五 季氏第十六 陽貨第十七 微子第十八 子張第十九 堯曰第二十 15(107) 子謂子産…
○ 【書き下し】子子産を謂く、君子之道四つ有り、 【訳】先生が子産のことを仰った。子産が守った君子の道は四つあった。 【解説】子産は鄭の大夫公孫僑のこと。孔子より一世代上の人。 【書き下し】其の己を行うこと恭あり、其の上に事えること敬あり、其の民を養うこと恵あり、其の民を使うこと義あり、 【訳】行いは恭しく謙ること、君親および自分より目上の人に事えるときは慎み怠らず敬うこと、民を養うときは民を愛し民を利益を大事にして、恩恵を深くすること、民を使うときは義のよろしきに敵うよう、必要最低限にすること。 【解説】子産の君子の道が四つだというのは、四つだけということではない。他にもいろいろあるうちの、特にこの四つが際立っていた、ということである。 16(108) 子曰晏平仲…
○ 【書き下し】子の曰く、晏平仲、善く人と交わる、久しゅうして之を敬す、 【訳】先生が仰った。晏平仲は人との付き合い方がとてもよかった。長く付き合っていても馴れ馴れしくせず、きちんと相手を敬っていた。 【解説】晏平仲は斉の大夫晏氏、孔子の友。これは、彼の人と交わる道のよいことを褒めたもの。 17(109) 子曰臧文仲居蔡…
○ 【書き下し】子の玉わく、臧文仲、蔡を居るに、節に山して梲に藻す、如何してか 其れ知ならん、 【訳】先生が仰った。臧文仲は大夫という地位でありながら、天子の宗廟を模倣して室に蔡という大きな亀を納め置き、柱の上部には山形の飾りを刻み、梲には藻を描いた。僭越なこと甚だしい非礼である。このような人物をどうして知者と言えようか。 【解説】臧文仲は魯の大夫臧孫氏、名は辰、文仲は諡と字。 18(110) 子張問曰令尹子文…
○ 【書き下し】子張問いて曰く、令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜べる色も無く、三たび之を已めるとも、慍れる色も無し、 【訳】子張が質問して言った。子文は楚に仕えて三度令尹と為ったが、喜ぶことは無く、三度令尹の官を辞めたときも、慍ることは無かった。 【解説】令尹は楚国の上卿として政を執る官の名。子文は、姓は 【書き下し】旧令尹の政、必ず以って新令尹に告ぐ、何如ん、 【訳】子文は令尹を辞めるときに慍らなかったばかりではなく、新しい令尹にきちんと政務の引継ぎを行った。このような人をどう評価しますか。 【解説】新旧交代のとき、特に辞めさせられたときなど、引き継ぎらしいことは何もしないことが多いのが、当時だったのだろう。 【書き下し】子の曰く、忠あり、曰く、仁ありや、曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん、 【訳】先生が仰った。忠を心得た人だ。子張が言った。仁の徳はありますか。先生が仰った。そこまではわからない。 【解説】自分のためなら喜怒の情が出るものだが、常に国のためを思って行動しているので、喜びも慍りもなく冷静でいられ、やるべきこともきちんとやれるのだ。これは忠たることが盛んだからこそである。しかし子張は、忠ではなく仁だと思っていたので、改めて子文は仁の徳があるかと質問した。孔子は、子文のこの行動は確かに普通の人にはなかなかできないことだが、これだけでは心の底の本心がわからないので、迂闊には判断できないと考えたのだ。 【書き下し】崔子斉の君を弑す、陳文子馬十乗有り、棄てて之を違る、 【訳】崔子は乱を起こして斉の荘公を弑した。陳文子はこの乱は最早鎮まらないと考え、馬車十乗の富を捨てて国を去った。 【解説】崔子は斉の大夫崔氏、名は杼。斉君は荘公、名は光。陳文子も斉の大夫陳氏、名は須無。馬十乗は四頭立ての馬車十両(馬四十頭に車十両)をいう。古は馬車の数で富を称した。 【書き下し】他邦に至りて、則ち曰く、吾大夫崔子が如くなり、之を違る、 【訳】本国を去って他国に行き、その国の様子を見て言った。なお吾国の大夫崔子が如くに乱れているではないか。そこで、その国も去った。 【書き下し】一邦に之きて、則ち又曰く、吾大夫崔子が如くなり、之を違る、如何、 【訳】また別のひとつの国に行き、その国の様子を見て言った。なお吾国の大夫崔子が如くに乱れているではないか。そこで、その国も去った。この人をどう評価しますか。 【書き下し】子の曰く、清ぎよし、曰、仁ありや、曰く、未だ知らず、焉んぞ仁を得ん、 【訳】先生が仰った。清ぎよいことだ。子張が言った。仁の徳はありますか。先生が仰った。そこまではわからない。 【解説】文子の行動はいさぎよいとしても、これだけでその心の底の本心はわからないので、仁についてはわからないとした。子張はちょっとでも善があると、すぐ仁に結び付けようとするが、仁はそんなに安直なものではないのだ。 19(111) 季文子…
○ 【書き下し】季文子、三たび思って而して後に行う、子これを聞いて曰く、再びして可なり、 【訳】季文子は、何かを行うとき、三度考えてから行った。先生はこの話を聞いて仰った。二度考えたら実行するのでよい。 【解説】季文子は魯の大夫季孫氏。文子は孔子より前の人なので、聞くとは伝え聞いたということ。何かを行おうと思ったとき、その事の是非をつらつら思案して、その是非の答えを出すのが一度目。しかし未だ考えを尽くしていない部分はないだろうかと、重ねて思案して、最初と同じ答えになったときは、それが最善の答えである。然るにさらにまた思案して三度に及ぶと、私意がおこり、或いは利害の企みに流れ、或いは自分の性格や習慣によって偏向するので、却って惑いを生じるのである。したがって孔子はそれを謗り、二度で実行してよいとしたのだ。 20(112) 子曰ィ武子…
○ 【書き下し】子の曰く、ィ武子、邦道有るおば則ち知あり、邦道無きときは則ち愚なり、其の知は及ぶ可し、その愚は及ぶ可からずなり、 【訳】ィ武子は、邦が治まっている時は知者として職務についていたが、特に目立つことはなく、その知のレベルは誰でも及ぶものだった。ところが邦が乱れ、君が国を失い流浪すると、多くの知巧の者は、みな其の難を逃れて職務を放棄したのだった。しかし彼だけはよくこれに耐え、愚直なるが如く、よくその下級役人としての職務を勤め、その間に上手く立ち回り謀を尽くして君を救い、その身を保った。その愚は誰にも真似できないことだ。 【解説】ィ武子は衛の大夫。有道無道は治乱を以って云う。 |
最終更新日:令和05年01月28日
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