漢文として楽しむ論語 論語序説 3/4
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適ノ衞、主2子路 妻兄 顔濁鄒 家1、
【書き下し】衛に適きて、子路が妻の兄顔濁鄒が家を主とす、
【解説】これより孔子が諸国を巡って道を行い世を救おうとしたことを記す。
主とすは、その人を主人としてその家の客になることをいう。
孔子は衛に行き、子路の妻の兄の顔濁鄒の家の客となった。
この時、衛の霊公は孔子を尊び、礼を厚くしてもてなしたので、孔子はしばらく逗留した。
適ノ陳 過ノ匡、匡人 以 爲2陽虎1而拘ノ之、
【書き下し】陳に適かんとして匡を過ぎる、匡人以って陽虎なりと為して之を拘う。
【解説】匡は宋国の邑の名。少し前に、魯の陽虎が匡に入り暴虐をなしていた。
その時に陽虎の家臣顔刻という者が馬車の御者をしていた。
顔刻は後に孔子の弟子となる。
今、孔子が匡を通過する時に、同じように顔刻が馬車を御していた。
匡人は顔刻を見つけ、また孔子の容貌が陽虎に似ていたので、陽虎が再来したのかと思い、孔子を包囲して動けないようにした。
既解 還ノ衞、主2伯玉 家1、
【書き下し】既に解けて衛に還り、伯玉の家を主とす、
【解説】伯玉は衛の賢大夫蘧伯玉のこと。やがて誤解は解けて衛に還り、蘧伯玉の家の客となった。
見2南子1、
【書き下し】南子に見う、
【解説】南子は霊公の夫人。古の礼では、諸侯に会う者は、その夫人にも会うことがある。
南子はこの礼を以って孔子に会いたいと請う。孔子は辞したが、諸事情で止むを得ず会うことになった。
この詳細は雍也第六26にある。
去 適ノ宋、司馬桓魋 欲ノ殺ノ之、
【書き下し】去って宋に適く、司馬桓魋これを殺さんと欲す、
【解説】孔子は衛を去って宋に行く。
宋の司馬(軍事の役人)向魋は孔子に恨みがあり、これを殺そうとする。
向魋の祖先は宋の桓公から出ているので桓氏をも称していたので、ここでは桓魋と記された。
孔子はこの桓魋の害を避けようと、賤者の服を着て、密かに宋を出た。この経緯については孟子の書にある。
又去 適ノ陳、主2司城貞子 家1、
【書き下し】又去って陳に適き、司城貞子の家を主とす、
【解説】貞子は昔、宋の卿であり、宋では司空を司城という。
この時は陳侯の臣となっていたが、なおも旧爵を称していた。
居三歳而反2于衞1、霊公不ノ能ノ用、
【書き下し】居ること三歳にして衛に反る、霊公用いること能わず、
【解説】孔子は陳で三年程過ごして、衛に反る。
このように孔子はたびたび衛に居るのだが、衛の君主霊公はついに用いることがなかった。
晋 趙氏 家臣 仏肸、以2中牟1畔、召2孔子1、孔子欲ノ 往亦不ノ果、
【書き下し】晋の趙氏が家臣仏肸、中牟を以って畔く、孔子を召く、孔子往かんと欲して果さず、
【解説】趙氏は趙簡子のこと、晋の世卿。中牟はその私邑、仏肸は邑宰。孔子は仏肸が召きに応じようとしたが、また往くことが果たせなかった。
將3 西 見2趙簡子1、至ノ河而反、
【書き下し】将に西の方の趙簡子に見わんとして、河に至って反る、
【解説】晋の趙簡子は聘礼を孔子に遣わし、孔子は西の方の晋に行き、簡子に会おうとした。
しかし河水のほとりに至り来たとき、簡子はその国の賢大夫を殺したと聞いて、すぐに引き返した。
又 主2蘧伯玉 家1、
【書き下し】また蘧伯玉の家を主とす、
【解説】衛に反って、また伯玉家の客となる
靈公問ノ陳、不ノ對而行、
【書き下し】霊公陳ねるを問う、対えず行る、
【解説】孔子は霊公に用いられなかっただけではなく、霊公から軍陣の陳(つら)ね方を問われると、俎豆の陳ね方は聞いて知っているが、軍陣のことは未だ学んだことはないと言って、その翌日に衛を去った。
復 如ノ陳、
【書き下し】復陳に如く
【解説】衛を去って再び陳に行った。
季桓子 卒、遺言 謂2康子1、必 召2孔子1、其臣 止ノ之、康子乃 召2冉求1、
【書き下し】季桓子卒す、遺言して康子に謂う、必ず孔子を召べと、その臣これを止む、康子すなわち冉求を召ぶ、
【解説】卒は死ぬこと。季桓子が死ぬとき、その子季康子に遺言して、必ず孔子をよびかえせと言ったのだが、その臣の公之魚という者がこれを止めたので、康子はまず弟子の冉求をよんだ。
孔子如2蔡 及 葉1、
【書き下し】孔子蔡及び葉に如く、
【解説】蔡は国の名。葉は、元は楚国の県だったが楚王が其の臣を封じた国。
楚昭王 將下以2書社地1封中孔子上、令尹子西不ノ可、乃 止、
【書き下し】楚の昭王将に書社の地を以って孔子を封ぜんとするに、令尹子西可かず、乃ち止む、
【解説】書社の地とは、史記に七百里とあるが具体的なことは不明。
一説に二十五家を一里として一社をたて、その人名を籍に書したものが七百社ある地のことであって、距離が四方七百里ということではないと。
令尹は楚の上卿、政を執る官、子西はその名。楚の昭王は孔子に書社の地を封じようと考えたが、令尹の子西が不可だとして聞き入れず、結局止めにした。
又反2乎衞1、時靈公已卒、衞君輒 欲下得2孔子1 爲上ノ政、
【書き下し】また衛に反る、時に霊公已に卒す、衛君輒孔子を得て政を為さんと欲す、
【解説】また衛に反ると、霊公はすでに死んでいた。衛を継いだ霊公の子の輒は孔子を手の内において政治をしようと考えた。
而 冉求 爲2季氏將1、與ノ齊 戦 有ノ功、康子乃 召2孔子1、
【書き下し】而して冉求季氏が将と為り、斉と戦って功有り、康子乃ち孔子を召く。
【解説】魯の哀公十一年に、斉が魯を攻めたとき、冉求が季氏の大将となり、斉と戦って功績を上げ、その軍法は誰に学んだかと問えば、孔子に学んだと答えた。
これによって、季康子は孔子を呼び迎え招いた。
而孔子歸ノ魯、實 哀公之十一年丁巳而孔子年六十八矣、
【書き下し】而して孔子魯に帰る、実に哀公の十一年丁巳にして孔子年六十八なり、
【解説】哀公は定公の子、定公死して位を継いだ。
この段の書法は、孔子が四方を周流して魯に帰ったとき、かなり老いたことを嘆く意がある。
哀公及び康子が孔子と問答したのは、皆この時である。
然魯終 不ノ能ノ用2孔子1、孔子 亦不ノ求ノ仕、
【書き下し】然れども魯終に孔子を用いること能わず、孔子もまた仕えんことを求めず、
【解説】孔子を呼び返したけれども、魯の君臣はついに孔子を用いることなかった。
孔子もまた仕えることを求めなかった。
乃 叙2書傳 禮記1、刪ノ詩 正ノ樂、序2易 彖繋象 説卦 文言1、
【書き下し】乃ち書伝礼記を叙いで、詩を刪り楽を正し、易の彖繋象説卦文言を序ず、
【解説】書伝は古を伝える書、帝王の政道心法を記す。
上古よりこのかた三墳五典などの書、数多く覚束ないことがあるので、唐虞より周に及ぶまでの書を叙いで百篇と定めた。
それが今の尚書であって、秦の焚書によって損なわれはしたが、半ばは残った。
礼記というのは経礼三百曲礼三千の法を記した書で、後に漢儒が編んだ礼記のことではなく、今は散逸した。
詩は人情の邪正を以って風俗を観、勧戒を示す。数多く伝わる古詩の中から、孔子は余計なものを削って三百余篇とした。
それが今の毛詩であって、漢の毛氏が伝えるところである。
楽とは音楽のことで、古の楽は雑然としか伝わってないので、孔子は考えてこれを整然としたものに正した。
易は伏羲はじめて卦爻を画し、文王周公が文章をつけた占いの書であるが、そのままでは難解なので、孔子は諸伝を序でてその義を明らかにした。
その諸伝とは、彖伝、象伝、繋辞伝が各上下二篇、説卦伝、文言伝と、その他に序卦伝、雑卦伝の計十篇を書き、この十篇のことを十翼という。
弟子 蓋三千焉、身 通2六藝1者七十二人、
【書き下し】弟子蓋し三千、身六芸に通ずる者七十二人、
【解説】孔子の弟子はおよそ三千人いた。
しかし、六芸を修めた者は七十二人のみだった。
六芸は六経すなわち詩、書、春秋、礼、易、楽のこと。
その弟子の中では顔回が最も賢かったが短命にして死んだ。
その後に孔子の道を正しく伝えられるだけの学識があったのは、曽参ただひとりだった。
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