漢文として楽しむ論語 論語序説 2/4
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昭公二十五年甲申、孔子年三十五而昭公奔ノ齊、
【書き下し】昭公二十五年甲申、孔子年三十五にして昭公が斉に奔る、
【解説】昭公は襄公の子、魯の二十五代目君主。昭公二十五年、孔子が三十五歳のとき、魯の卿の季平子が罪を得て、昭公は軍を率いてこれを撃つ。
しかし平子孟孫叔孫と、三家一味となって共に昭公を攻め、ついに昭公は負けて斉に逃げた。
魯亂、於ノ是 適ノ齊、
【書き下し】魯乱る、是に於いて斉に適く、
【解説】魯の三家の乱により、孔子も魯を出て斉に行った。
爲2高昭子 家臣1、以 通2乎景公1、
【書き下し】高昭子が家臣と為りて、以って景公に通ず、
【解説】孔子は斉の卿高昭子の家臣となる。これを以って、時の斉の君主景公にも通じ、景公は政についてを孔子に問う。また斉で韶の楽(=音楽)を聞いたというのも、このときである。
公 欲3以2 封 尼谿 之 田1、
【書き下し】公封ずるに尼谿の田を以ってせんと欲っす、
【解説】公は景公のこと。景公は孔子を尊び、尼谿というところの田地を領地として、孔子を封じようとした。封じるとは、領主とすること。
晏嬰 不ノ可 公 惑ノ之、
【書き下し】晏嬰はきかず公之に惑う、
【解説】晏嬰は斉の大夫晏平仲のこと。孔子を封じることに同意せず、景公は惑って孔子を封じることは棚上げにした。
孔子遂 行、反2乎魯1、
【書き下し】孔子遂に行って、魯に反る、
【解説】斉にても道が行われないので、立ち去って魯に戻った。という意。
定公元年壬辰、孔子四十三、而季氏 強僭、
【書き下し】定公元年壬辰、孔子年四十三にして、季氏強僣す、
【解説】定公は昭公の弟、昭公が斉にて死んだので魯の人々は定公を立てて君主とした。
季平子の勢いはいよいよ強くなって、君の権を僭すようになった。
其臣 陽虎 作ノ亂 專ノ政、
【書き下し】其の臣陽虎乱をおこして政を専にす、
【解説】陽虎は陽貨のこと。季平子が死んで、季桓子の時に、其の家臣の陽虎が、また乱をおこし、桓子を取り込んで国政をほしいままにした。
故孔子不ノ仕而退、修2詩書 禮樂1、弟子 彌 衆、
【書き下し】故に孔子仕えずして退き、詩書礼楽を修む、弟子いよいよ衆し、
【解説】陽虎が乱によりて、孔子は魯の王朝に仕えず、家に退き、詩書の文、礼楽の法を修め正して、弟子に授けることに力を注いだ。
これにより、弟子はいよいよ多くなった。
九年庚子、孔子年五十一、公山 不狃 以ノ費 畔2季氏1、
【書き下し】九年庚子、孔子年五十一、公山不狃費を以いて季氏に畔く、
【解説】公山は氏、不狃は名、この人物もまた季氏の臣である。
不狃は季氏が本領の費という名の地域の奉行だが、その費の地の人民をひきしたがえて季氏に叛いた。
召2孔子1、欲ノ 往而卒不ノ行、
【書き下し】孔子を召く、往かんと欲して卒に行かず、
【解説】不狃が孔子を招き、自分の片腕にしようとした。
孔子は初め往こうと考えたが、結局は行かなかった。
その経緯は本編陽貨第十七5に述べている。
定公以2孔子1爲2 中都 宰1、
【書き下し】定公孔子を以って中都の宰と為す、
【解説】中都は魯の邑(町)の名、宰は奉行のこと。
これより以前、魯では季桓子の臣の陽虎が三家を払い除けて政治権力を我が物としようと企てていた。
これを聞きつけた三家は、陽虎と戦い、陽虎は負けて逃げ去った。
これにより季桓子が政治を執り行うことになった。そこで孔子も出仕して、中都を治めた。
一年 四方 則ノ之、
【書き下し】一年にして四方これに則る、
【解説】一年の間に中都は大いに治まり、風俗もよく改まったので、四方の政をする者が、皆この孔子のやり方を法則とした。
遂 爲2司空1、
【書き下し】遂に司空と為る、
【解説】司徒司馬司空は、諸侯の三卿である。
司空は田地、人民、土木管理の官。
司徒は財務・教育、司馬は軍事。
又 爲2大司寇1、
【書き下し】また大司寇と為る、
【解説】司寇は刑罰を司る官。
土木工事に罪人を使うため、司空と司寇を兼ねたのだとも言われている。
大司寇は普通の司寇よりも大きな力を持つ。
十年辛丑、相2定公1會2齊侯于夾谷1
【書き下し】十年辛丑、定公に相として斉侯と夾谷に会す、
【解説】相とは、君を補佐して礼をつかさどる役、大臣といったところ。
会は両国の君が交渉をすること。
夾谷は魯の地名。
斉侯は、魯が孔子を用いて国力を増したことを観てこの会を催し、魯を潰そうと企んでいた。
会が始まるとき、斉より夷狄の楽を出して、剣戟を舞わして魯側を怯えさせ、斉の思うままにしようとした。
すると孔子が進み出て、その非礼を指摘して正し、斉は反論できずにその楽を止めた。
齊人 歸2魯 侵 地1、
【書き下し】斉人魯に侵した地を帰す、
【解説】斉侯が国に帰った後、これまでに魯を侵して取った地を魯に返して、会にての過ちを謝罪した。
十二年癸卯、使下仲由 爲2季氏 宰1、堕2三都1、収中其甲兵上、
【書き下し】十二年癸卯、仲由をして季氏が宰と為して、三都を堕ちて、其の甲兵を収め使む、
【解説】仲由は子路のこと。
三都は三家の私邑(=領地)、季孫の費、叔孫の郈、孟孫の成を指す。
「こぼつ」は「こわす」という意。
甲は鎧、兵は刀剣のこと。
この年より少し前、季孫叔孫の家臣が、度々その邑で叛くことがあり、これを憂いて孔子に相談した。
孔子は、これらの私邑は城構えが大きく、武具も多いからだと答えた。
季氏はなるほどと思って城を壊そうと考えた。
が、実はこれ、孔子が三家の力を抑えて君主の勢いを増すための計略だった。
その計略を遂行するために、子路を季氏の宰として、三家の城を壊し、その甲兵を処分させようとしたのだった。
そうとは気づかず、叔氏がまず郈の城を壊し、次に季氏が費の城を壊した。
孟氏 不2肯 堕1ノ成、圍ノ之 不ノ克、
【書き下し】孟氏肯て成を堕たず、之を囲んで克たず、
【解説】孟氏は成の城を壊すことに同意せず、定公が成を取り囲んで壊すよう勧めても、言うことを聞かなかった。
これは孟氏が孔子の計略を悟ったからである。
なお春秋の月を以って考えると、成を囲んだのは孔子がすでに魯を去った後のことである。
十四年乙巳、孔子年五十六、摂2行 相 事1、
【書き下し】十四年乙巳、孔子年五十六、相の事を摂て行う。
【解説】相は国の宰相として政務を司る職。孔子は司寇の官として、宰相の事も兼ねて行った。
誅2少正卯1、
【書き下し】少正卯を誅す、
【解説】少正卯は魯の大夫、国政をほしいままにした者。
孔子は相の事を行うこと七日にして、この人物を誅し、その死体を三日間晒した。
この事は荀子の書にある。
與ノ聞2國政1三月、魯國 大 治、
【書き下し】国政を聞くに与ること三月、魯国大いに治まる、
【解説】国政を聞くに与って議定したことを、季桓子が従って行うと、三月の間に魯は国風が変わって、大いに治まった。
齊人 歸2女樂1以 沮ノ之、
【書き下し】斉人女楽を帰りて之を沮む、
【解説】女楽とは美女を集めて歌舞をすること。
帰は元来「とつぐ」とか「贈る」という意の字、後に転化して今は専ら「かえる」という意で使われる。
斉人はいよいよ魯を恐れ、女楽を仕立てて魯に送り、風俗を淫らにして、孔子を用いることを阻み止めようとした。
季桓子 受ノ之、
【書き下し】季桓子之を受く、
【解説】季桓子は女楽を受けて、魯君と共にこれを見ること三日、政務を疎かにした。
郊又 不ノ致2膰爼於大夫1、孔子行、
【書き下し】郊にまた膰爼大夫に致さず、孔子行る、
【解説】郊は祭の名、郊外にして天地を祭ること。
膰俎は祭肉を載せた祭の供え物。
祭の礼が終わった後に、祭に参加した大夫の元へこの膰俎を送り届け致すことは礼の常である。
この時、南郊の祭は行われたが、女楽に溺れて、これを遅らせた。
孔子のところへも膰俎は致らなかった。
そこで孔子は即、官を捨てて国を去った。
この様子は孟子の書に詳らかに述べられている。
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